戦争は良くない。だが、不幸にも戦争は無くならない。もし、戦争の当事国となってしまったら絶対に負けてはならない。つまり、大局を見極め、国家の方針を定め、国民の意識と足並みを揃え、戦争にあたる。
大雑把に言えば、戦争では大局を見極める事が大事で、それが出来なかったら大敗するとの事だが。事実、日本はこの肝心の大局的視点が抜け落ちてた。
だが、石原莞爾の「世界最終戦論」(1940)からすれば、”大局を見極めてた”としても、日本はアメリカにはボロ負けしていたとなる。
ノスラダムスの予言も当り外れが多く、眉唾臭かったとされるが、石原莞爾の予言も当り外れに関しては負けてはいない。
後でも述べるが、聞こえのいい言葉程まともに思えるし、狂信やペテンが多いのも、これまた真実である。
一方で、石原は日蓮(法華経)の信者である事はよく知られてるが、同時代を生きた同じ日蓮信者である宮沢賢治とよく比較されるが、2人が描いた理想郷が”イーハトーブ”と”満洲国”であった。一方は文学の世界で描いたユートピアで、他方は満洲事変の立役者が国家体制として描いた王道楽土だ。
戦後、両者への評価は真っ2つに分かれ、宮沢は”雨ニモ負ケズ”で印象づけた純粋無垢な求道者で、石原は日本を軍事国家に導いたファシストとみなされた。だが2人は法華経教団・国柱会の会員として主宰者の田中智学に傾倒していた事も興味深い。
詳しくは「イーハトーブと満洲国」(宮下隆二著)を読んでもらうとして、当時は天才的にも思えた石原莞爾の最終戦論が、こうした宗教観から来る思想から生じたものと考えれば、偽善っぽくなるのも理解できなくはない。
つまり、”世界最終戦論”とは聞こえはいいが、そこにあるのは理想郷と言う名の幻想、いや狂信(カルト)に過ぎず、最終戦論の先にある景色を描くには程遠い事も理解できる。
気持ちは判らなくもないが・・
昭和15年の「世界最終戦論」に書いてある事は、単純でシンプルである。
まずは戦闘隊形の発展として、”文明の発展と共に戦闘隊形は顕著な進展を見せている”と説く。古代から第1次世界大戦までの戦闘隊形は点としての方陣、線としての横隊、そして面としての散兵や縦深の隊形が出現。更に、第2次世界大戦では航空機が主力となり、近未来の戦争は戦闘は3次元となり、戦闘隊形は”体へと発展する”と予想したが、戦闘隊形の進化を次元に例える辺りは、実にアッパレである。
次に、戦争の形態についてだが、石原は戦争を短期決着の”決戦戦争”と長期の”持久戦争”とに分類。短期決戦では武力の重要性が高く、その経過は”活発かつ男性的なる”と説いた。一方で、持久戦争では武力以外の手段が他の手段に対して相対化され、戦争は長期化し、静的で女性的なものとなる。
古代は決戦戦争が主だったが、フリードリヒ大王は巧みな戦略・戦術で持久戦争を実践し、一方でナポレオンは殲滅戦略を行い、短期型の戦争が台頭した。その後、機関銃による防御戦闘の技術的優位性が圧倒的に高まり、第1次世界大戦は持久戦争へと回帰。
こうした流れからすれば、将来の戦争は決戦戦争の形態に移行する。最終戦争では、敵の攻撃を受けて堪え忍ぶ消極的戦争参加は全国民となるが、攻勢的軍隊は少数の精鋭を極めたものとなる。
長期戦を静的な女性、短期戦を活発な男性に喩える辺りも憎いが、上手く戦争の隊形と形態を判り易く纏めてるのも感心ではある。
最後に(ここが一番問題なのだが)、最終戦争では(爆撃機を含む)大量破壊兵器により殲滅戦略が実施され、極めて短期間で戦争は終結する。この様な最終戦争を戦う国として、幾つかの勢力をブロック毎に分ければ、世界は(ヒトラーを中心とした)ヨーロッパ、ロシア(旧ソ連)、(日本を中心とした)東亜連邦、南北アメリカの連合国家へと発展する。
ここで、ヨーロッパは戦争の本場であり大国が密集する為に纏まる事がない。ソ連は全体主義で強そうに見えるが、スターリンの死後は内部崩壊し、中国は文を尊ぶ国から武を尊ぶ国になれば復興する。
最後には、日本とアメリカの決戦となり、これに勝った国を中心に世界は回る。これは、”東洋の王道と西洋の覇道が世界統一の原理となるのかを決定する戦争となる”と石原は結論づけた。
所詮は、幼弱で狂信的な”世界最終戦論”
今では、この最後の予想(最終戦論)に反し、ヨーロッパはEUで纏まり、ソ連は崩壊しロシアに変わったが、ソ連の中核をなすロシアが内部崩壊する事はなく、今では狂人プーチンがスターリンに代わる存在になりつつある。
更に、中国は(予想通り)”武と富を尊ぶ国”となり、今やアメリカに次ぐ2番目の強大国に君臨した。
結果として、石原莞爾の”世界最終戦論”は大きく外れた訳だが、最終戦争勃発の条件として彼は、①東亜諸民族の団結②米国が完全に西洋の中心に君臨する③飛行機は無着陸にて世界を一周し、太平洋を挟む決戦が可能になる④兵器が飛躍的に発達し、(核兵器の様な)大量破壊兵器が登場する⑤”精神総動員だ、総力戦だ”と騒いでる間は最終戦争は起きない・・などを挙げているが、①と⑤ともかく②と③と④は当ってはいる。
だが、②③④は結果論に近く、石原でなくても容易に予想できた事だろう。
そう考えると、彼の”世界最終戦論”は最もらしく聞こえるが、戦争の歴史を大局的に捉えれば、大方予想できる範疇にある。ただ、太平洋戦争当時はイケイケドンドン的な安易な精神論が主流を占め、戦争を大局的に捉える軍人が少なかったから、石原の様な考えは珍しかったのかもしれない。
それに大東亜共栄圏構想とても、アジアの安全保障との声もあるが、所詮は勢いだけで噛ませた妄想に過ぎない。
更に、彼の天皇観についても”最終戦争即ち、王道対覇道の決戦は天皇を信仰する者と然らざる者の決戦であり、天皇が世界の天皇となるか、西洋の大統領が世界の指導者となるかを決める、人類史上空前絶後の大事件である”と説くが、幼弱な天皇崇拝論に聞こえなくもない。
彼が今に生きてて、今の日本の天皇の無能で無様な姿を見たら何と嘆くであろうか・・
更に、石原の思想の中核に天皇に対する確固たる強い信仰があり”人類の思想信仰の統一は結局、人類が日本国体の霊力に目醒めた時初めて達成せられる。更に云えば、現人神たる天皇の存在が世界統一の霊力であり・・”と語るが、これじゃ腐敗した統一教会の思想と何ら変わりはない。
つまり、満州国建国の主導者として名を馳せた関東軍参謀の石原莞爾だが、軍人の中で優秀な頭脳?と言っても、所詮はこんなレベルである。
”世界最終戦論”という言葉にまんまと惹かれ、大まかに読んでみた私だが、読むだけ無駄だった様な気もする。
しかし、人が窮地に陥った時、大局的にかつシンプルに物事を捉えるという視点は、大いに勉強にはなった。
勿論、大局を見据えた後の判断こそが重要なのだが、”木を見て森を見た”筈の石原も”森の先に何があるか?”は全く見抜けなかった。つまり、最終判断の大切さと本質は、まさにそこにある。
という事で、「世界最終戦論」にまんまと騙された私の感想論でした。
補足〜救いようもないバカ?
アルピニストの野口健氏がX(旧Twitter)で、トランプ大統領と会食した安倍昭恵さんの行動を疑問視する玉川徹氏の発言を”何たる浅はかな愚かなコメント”とバッサリ切り捨てたという。
某モーニングショーで玉川氏は”昭恵夫人に関しては、我々は選んでもないし、何も国民として託してる訳でもない・・不測な事態が起きるんじゃないかと・・この時期はお誘い受けても行かないっていう判断だってあった筈”などと否定的な見解を示していた。
このコメントに対し野口氏は”大統領が友人と食事をするのは法的倫理的にも何ら問題はないし・・逆に、トランプ夫妻と安倍夫妻の絆の深さに心温まる感情を私は抱いた。ガタガタ騒ぐ話ではないだろうに”と私見を述べ、その上で”救いようもない馬鹿者だ”と玉川氏を手厳しく批判した(東スポWEB)。
確かに、トランプ夫妻と昭恵夫人の会食は驚きと好意を持って、(特に安倍シンパを含む)日本人からは受け止められてはいる。
但し、民間人がトランプ時期大統領と会って仲良くする事が国益になるのか?安倍が総理の時、トランプと仲良くしてたお陰で、必要もない時代遅れの兵器を高額で買わされたのも、日本人が忘れてはならない事実ではある。
それに、トランプが昭恵夫人に会ったのも、安倍派を通じて日本経済を支配する為の伏線だとする声もあるし、元々トランプは日本が嫌いな筈だ。更に安倍シンパは、昭恵夫人を非難する玉川氏を左派呼ばわりする始末。
一方で、現石破首相がトランプから無視されてる事も事実で、対米の舵取りが微妙になってるのも理解できる。
ただ、昭恵夫人の”私、イーロンマスクとも会いました〜”なんて子供騙しの幼稚なアピールは全くの余計だし、安倍派は脱税議員ばかりで、トランプと会食する前に”税金払え”って声もある。
事実、私もこの会食を知った時、彼女にはある種の嫌な違和感いや異和感を感じた。それに元々トランプは信用出来ないし、彼を取り巻く要人も極右で占められてる。トランプの舵取り次第では、世界戦争の可能性も排除出来ない。
つまり、今回の会食が日米関係にどんな影響を及ぼすのか?あらゆる可能性を探り、議論を重ねてもバチは当たらんだろう。
それに、玉川氏は大局的な視点から国政と絡めた形で、昭恵夫人の訪米を不安視したけであり、”トランプ氏は昭恵夫人が信頼に足る人物と判断したから招待した訳で、トランプの感情を逆なでするのでは?と考えるのは下衆の勘繰りだ”と批判する某記者の言葉こそが”救いようもない”コメントにも思える。
つまり、玉川氏は大局的な視点からその先の展開を探ろうとした結果の疑問符がついたコメントであろうし、そのコメントを非難する多くの日本人は(野口氏も含め)大局な視点どころか、昭恵夫人がトランプと会食し、更にイーロンマスクとも会っていたと、ミーハー的に大騒ぎしてるだけである。
最後に
前述した石原莞爾の「世界終戦論」は大局の視点で戦争を捉えただけで、近未来を予想する事は出来なかったが、物事を大局的な視点で捉える事の重要性を説いてはくれた。
これは、日本人が一番欠けてる視点でもあるり、目先の事ばかりに囚われ、そして浮かれ、日本は無謀とも言える太平洋戦争に突入した。
勿論、トランプ次期大統領が多忙を極める中、元家族ぐるみの友人とは言え、昭恵夫人が押し掛ける形で食事をするのは異例中の異例である。確かに、私的な夕食会に突如、招かれてもないのに官僚とか政治家を連れていく事ほど失礼で無粋な事もない。
ただ、そういう事を含めて様々に勘ぐる事は、大局の視座にあるその先を予想する上では大切な事ではないだろうか?
つまり、”救いようのないバカ”とは、目先の事だけに因われ、大局的な視座を持てない野口健氏含めた、我ら大衆なのかもしれない。
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