数学の世界では、写像や群という言葉がよく出てくる。そして写像や群の世界では、準同型(homomorphic)とか同型(isomorphic)という紛らわしい?言葉がしばし使われる。
この2つをハカ正直に日本語に直すと、複数の対象(主にに代数系)に対し、それらの特定の数学的構造に関する類似性を表す概念で、”構造を保つ写像である時は準同型”であると呼び、また”構造が全く同じである時は同型”であると言う。
全く、数学的らしい抽象的なご説明ではある。
そこで準同型写像の説明の前に、写像(mapping)の説明ですが。
まず写像とは”一本の矢”の事で、二本では写像にはなりません。
もっとわかり易く言えば、キャッチボールをする時、投げる側は1個のボールしか投げれない。同時に2個のボールを投げられない。勿論、投げたボールは相手に届く必要があります。もし届かなかったら、写像ではなくなる。
英語で写像はmappingと言いますが、”投射”と訳せば大体のイメージは掴めますかね。
ウィキ的に言えば、2つの集合が与えられた時、一方の集合の各元に対し、他方の集合のただ1つの元を指定し、結びつける対応の事とあります。
つまり、写像の世界では”浮気はタブー”で、二股も片思いも写像には成り得ないんですよね。
準同型と同型の違い
そこで、準同型を数学らしく説明します。
群Gから群G′への写像φが、ある演算✳に対し、Gの各元x、yとG′の各元φ(x)、φ(y)について、φ(x✳y)=φ(x)✳φ(y)を満たす時、写像φは準同型写像であるといい、この時、”演算✳に関して閉じる”と言います。
冒頭で述べた”準同型=構造(演算)を保つ写像”とは、この事を言うんですね。
特に、このφが全単射(全射かつ単射)である時、同型写像(=構造が全く同じ写像)であると言います。
但し、全射とは全ての元に行き渡る写像の事で、単射とは1対1の関係の写像の事で、2対1では写像であっても単射にはなりません。
因みに、同じ準同型写像でも群ではなく環となると、少しややこしくなる。つまり、環Rから環R′への準同型ψとは、Rの各元a、bについて、ψ(a+b)=ψ(a)+ψ(b)、ψ(ab)=ψ(a)・ψ(b)を満たす写像となり、その関数ψは和と積について閉じるとなる。
つまり、同じ集合でも群よりも環の方がタイトなんですよね(「群と環と体」も参照です)。
故に、準同型写像によって、単位元や逆元はそれぞれ単位元や逆元に写され、また、移された先の群でも、元同士の演算は閉じてます。
故に、準同型写像は”群の構造を保存する”写像となる。故に、この準同型写像が群論で重要となるんですが、準同型写像が群になるからとて、同型だとは言い切れない。
一方で同型の定義には、(上述した様に)もっと強い条件である”全単射”が必要です。
”群の構造を保存する”という準同型(全射又は単射)という言い回しと、”群の構造が同じ”という同型(全単射)という言い回しは別の事ですね。
つまり、準同型写像の"準"とは、その辺りの事情を反映した、なかなか絶妙な命名です。
数学では、”構造を保存する写像”を特に"射"と呼びます。この準同型写像は”群の構造を保存”するから、”群論における射”であると呼びます。
一方で、私達には余り馴染みのない数学的構造、例えば位相(空間)構造における射は、2つの集合の連続性を保つ様な写像を射であると言います。
位相空間では連結性を重視するので、連続性は重要な要素となります。つまり、群では演算を、位相では連続性を保持するんですね。
最後に〜鏡に映し出された数学
この様に数学には、私達がよく知ってる代数構造の他に、位相構造、順序構造などの構造があリます。
私達は普通、この準同型写像を考える時、前述した”群構造を保つ射”の立場の上に立ってる事を理解しておく必要があります。
それだけ、写像とは私達が思う以上に、ややこしく抽象的な概念でもあるんです。
”準同型写像=群の構造”と覚えとくと誤解はないですね。
そこで上述した様に、同型写像とは全単射(全射AND単射)の事で、構造的に全く同じものでした。
全射(互いの全ての元に対応)と単射(1対1の対応)は異なる概念ですから、この二つを組み合わせると以下の計四つのパターンが出来る。
①全射だが単射ではない。②単射だが全射ではない。③単射でも全射でもない。④単射かつ全射。
故に、準同型写像(全射OR単射)が単射の時、単準同型と呼び、全射の時は全準同型と呼びます。
そこで、同型又は準同型写像のうち、自分自身に写すものを自己同型又は自己準同型といい、ガロア拡大体(係数体に方程式の全ての解を添加した体)の自己同型写像である置換群(置換を続けて行うという演算に閉じた群)をガロア群と言うのです。
故に、ガロア群では自己”同型”写像というのが非常に重要な要素になります。
天才ガロアは、写像という鏡を通じて難解な数学の世界を群論に置き換えて眺めてました。自己同型であればどんな難題でも明確な答えが出る筈だ・・・
つまり、数学を数や関数式ではなく、(鏡に映し出された)映像として捉える事の出来た偉大な数学者だったんですね。
ま、これだけでも知っとけば、エロいキャバ嬢から”写像って何よ!一言で言えないの〜”と色目で見下された時でも、十分に対処できますね。
つまり、”二股と片思いは写像にはなり得ないんだよ”と言えば、サルでも納得でしょうか。
写像ってイラストにあるように
数字だけじゃない。
人の属性なんかも写像になります。
善人か?悪人か?
男か?女か?
日本人か?外人か?
でも、善人でもあり悪人でもあるという
転んだサンみたいな人は写像にはなり得ませんね^^;
後半は中途半端になりましたが、写像というのも曖昧で不可思議なものですよね。
私みたいな人間の属性は、これだと結び付けられないのもあるので、これまた抽象的になるんですが・・・
中途な記事にコメント有り難うです。
この世にいないと思うけど👅
数学で普段に扱うような
数と数を対応させる写像って
群論の中での写像のことだったのね
だから判りづらかったのかしら?
イラストのように
互いの特徴付けで書かれると
分かったような気になるけど
でもサルではやっぱり無理みたい(^^ゞ
1→2といきなり関係付けても解りにくい。しかし、マラドーナ→アルゼンチンなら一発で解る。
しかしそのマラドーナも浮気者でしたから、二股どころか十股くらいは掛けてたでしょうから、写像の例としては不適切かもです。
代数学でよく使われる群論にしても、数学以外の世界でもよく使われますから、写像や群を理解するには一度数学を離れた方がいいかも知れません。
中途でこそ真面目な記事に、コメント感謝です💋