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神様か?それともカントールか?(中編)〜宗教と無限の奥深いお話

2022年07月28日 04時40分17秒 | 数学のお話

 「無限に魅入られた天才数学者たち」は神の領域である”無限”と果敢に闘った数学者たちの物語である。  
 ”数学の本質はその自由にある”と述べたカントールは、無限の本質を数学の舞台にさらけ出そうとした。この本には、彼の執念と苦悩と無限に関わった数学者たちの壮絶なドラマが凝縮されている(Amazon)。

 確かに、無限という壮大なテーマだけに頭が白くなりそうだ。が、カントールの”対角線論法”を使った無限の考察を眺めると、そこまで気難しくもない。事実、この考察に触れる事がなければ、カントールを理解する事も記事にする事も、ましてや彼を好きになる事もなかった。
 もし仮に、カントールの考察が神の背中に触れたと考えると、それが元で精神を病んだとしても不思議はない。勿論、彼にはそんな気はこれっぽちもないのだが・・・
 ただ、カントールの超元的な世界を理解できなくとも、無限と彼をめぐる複雑怪奇な人間模様は、行き詰まり窒息しそうな現代社会に大きな光を差し込むヒントが隠されてる様にも思える。
 信じたり、疑ったり、そして祈ったり・・現代数学はそうやって多くの困難を乗り越え、大きく繁栄してきたのだから・・・ 

 前回は、古代ギリシャ時代における無理数の発見と無限の考察の起源及びカントールの連続体仮説について書きました。
 特にピタゴラスに始まり、ゼノン、エウドクソス、アルキメデスに至るギリシャ黄金期の哲学者や数学者に至る可能無限の考察は非常に興味深いものでした。
 意外な事に、それ以降2千年もの間、無限の数学的性質についてはそれ以上の進展は(幾つかの例外を除いては)殆どなかったのである。
 しかし無限の概念は、(数学とは切り放たれていた筈の)宗教の中で生まれ変わる事になる。


前回の続き

 書いてて思うのが、数学と神はとても抽象的で曖昧な所があり、が故に凄く遠くにある幻想的な存在の様に見えてしまう事です。
 勿論、我ら庶民には手が届かない領域にある事には間違いないんですが、本質を突き詰める程に曖昧な何かが降り注ぐ。
 これを哲学的に言えば、この世に”完全なものは1つも存在しない”となるが、それでも”神様の姿をひと目見たい”というのが大衆の身勝手な欲望ではないだろうか?
 無限という神の領域に踏み込み、集合論という自ら確立した数学のツールを使い、人類史上初めて無限の実像を人前で顕にしたカントールだが、幻想に近い狂気や欲望というより、両親から授かった敬虔なカトリック信仰が彼の研究を支えたと言っていい。
 彼は無限を可算無限と非可算無限とに明確に切り離し、それらの間には”中間の濃度は存在しない”という「連続体仮説」をも当然成立すると踏んでいた。
 一方で神様であれど、(無限の存在はともかく)無限の本質までは明確には理解してはいなかったろう。

 とは言っても、カントールが神の卓越した知能を疑ってた筈もない。しかし、それまで神であった無限を(集合)数に置き換え、神の知能を凌駕した訳だが、カントールが数学史上に遺したこの偉大な軌跡は、その神から授かった賜物とも言えなくもない。
 そこで、もし神に卓越した知能があれば、同じく数学者の卓越した知能は神にどこまで近づけれるのか?神を超える知は存在しうるのか?そこにはどんな数学(世界)が開けるのか?
 それこそが真に賢い神のお告げだとしたら?
 故に神様も2種類存在し、可算無限に相当する人類により近い神様と、非可算無限に相当する人類とは大きくかけ離れた神様。
 つまり、カントールは神のお告げから無限を眺め、無限という神を数学で表現しようとしたのだろうか。
 この答えは「連続体仮説」が証明も反証もできない様に、無限に錯綜する答えなき真理なのかもしれない。 

 ユダヤ系である(事が判ってる)カントールだが、自らが発見した無限数(超限基数)をヘブライ語の”アレフℵ”(アルファベットのaに相当)と名付けました。
 因みに、かの悪しきオウム真理教の今の教団名もアレフですが、今は”アーレフ”に微妙に変えてます。多分、ユダヤ人社会から大きな反発を食らったんでしょうか。
 この超限数ℵについてカントールは、”神に告げられたから”と語ってます。以後、彼は(まるでサタンの如く)相当な異端児扱いされますが、そのカントールを救ったのがローマ法王レオ13世というから、話は長くなります。
 という事で、前半と後半の2話ほどでまとめようと思ったんですが、4話ほどになりそうです(多分)。
 そこで今日は、舞台を中世ヨーロッパに移し、無限と宗教の深い関わりについてボベたいと思います。数学的な専門用語は殆ど出てこないので、気楽に流して下さい。


無限と宗教

 14世紀のあるカバリストは、”無限の神(エン・ソフ)は記述する事も理解する事もできない。エン・ソフは人間の理解を超えており、窺い知る事など望むべくもない”と述べた。
 因みにカバラとは、ユダヤ教に基づいた神秘主義思想で中世後期やルネサンスのキリスト教神学者に強い影響を及ぼした。独特の宇宙観からしばし仏教の神秘思想との類似性を指摘される。
 そのカバラの概念には、”エン”(=無)がある。カバリストらは(無限ではなく)無を入れる物は器や衣を使い、無を視覚化しようとした。無は集合論では空集合に相当するが、こうしたカバラの議論は21世紀の集合論にも未だにつきまとうパラダクスとも言える。

 カバラのある文書には、無限の彼方にある一点に向かいどこまでも伸びていく曲線(円)が論じられている。これら曲線は”連続的”無限の例であり、ピタゴラス派の(自然数の様な)”離散的”無限ではなく、むしろプラトンとその弟子が扱った幾何学的無限である。
 つまり、こうした2通りの無限の存在に気づいてたとされる。とは言え、無限に数学的理解が得られるのはずっとずっと後の事であった。
 この連続的な無限としての神(エン・ソフ)は、無限の強度を持つ光として現れる。エン・ソフの光は空間を満たし、無限の彼方へと向かう。その光の周りで空間の収縮が起き、不完全なる有限世界の矛盾を解消する。彼らはこの様を10の同心球を作って複雑な幾何学モデルを作り上げた(図参照)。
 同時期にダンテ(1265-1321)は「神曲」の中で、(同じ様なモデルを使い)9つの天界を描き出した。カバラもダンテのモデルにも世界は同心円状に重なり、それらを超えた遥か彼方に無限遠点(神)が存在する。
 以降でも述べるが、1800年代にはリーマンが球を用いる事で、無限を記述する方法を発見した(リーマン球面)。

 一方で、キリスト教神学者たちもカバラの無限を学びはした。が、カバラとは無関係に独自の無限概念を発展させていた。
 キリスト教初期のアウグスティヌス(534-430)は、”個々の数は有限だが、数全体としては無限である。神がそんな事を知らない筈がない”と主張した。
 中世には、トマス・アクイナス(1225-1274)が神の無限性について”もし世界が常に存在するのなら、今や無限の霊魂が存在する事になる”とパラダクスに近い結論に達した。
 やがてアクイナスの無限概念は、数学者でもあるトマス・ブラッドワーディーン大司教(1290-1349)に受け継がれ、魂や天使の数のような離散無限から、幾何学的な図形などの連続無限に拡張し、”連続的なものの繋がりは同種の連続体が無限に集まる事で生じる”と論じた。
 連続無限に関する彼の考察は、ニコラス・クサヌス(1401-1464)に受け継がれる。彼もまた高位の聖職者であり、円や多角形を研究し、後で述べる”円積問題”(円と同じ面積を持つ正方形の作図=円の正方形化)に挑んだ数学者でもあった。
 彼は、神の知を円に、人間の知を円に内接する多角形になぞらえた。つまり、人の知がどんなに増大しようが、内接する多角形が円そのものになる事はない様に、”神には到達できない”と論じた。

 こうした幾何学的無限の概念は、ルネサンス期に大きく飛躍する。1500年代には芸術家らが平面内の無限遠点を利用した”遠近法”を取得した。かつて、カバラが論じたエン・ソフの内部に隠された(消失点の如く)無限に存在する多くの神の属性も(遠近法で描かれる消失点=無限遠点の如く)封じ込められている。
  

ガリレオとボルツァーノの無限の考察

 17世紀から19世紀初頭までの200年間は、二人の数学者が無限の本性に関わる重要な発見をする。
 この時期には数学の重要な分野が幾つも開拓されたが、特に微積分の発展は、ニュートンやライプニッツ、ガウスやオイラーなど数学史上に輝く巨星たちが大きく貢献した。しかし、彼ら偉大な数学者たちでも(誰一人として)無限には手を伸ばそうとはしなかった。
 当時、数(量)は単に無限に近づいたりゼロに近づいたりする離散的な可能無限(可算無限)を扱うだけに留まり、実無限(非可算無限)という暗くて深い危険な洞窟に足を踏み入れ様とはしなかった。
 この実無限という扉をこじ開ける重要な鍵を発見したのが、(意外に思えるが)ガリレオ・ガリレイ(1564-1642)である。
 数学や天文学や物理学、更に人文学にも精通した天才ガリレオは、ルネサンス期のイタリアに生まれた事もあり、常に新しい変化とイマジネーションを享受した。
 元々は医師を目指してたが、大学でアルキメデスに傾倒し、数学的な自然法則の研究に埋没する。数学者になったガリレオだが、彼が考案した望遠鏡は貧しい家計を支えただけでなく、地動説の道をも切り開いた。
 しかしこの事が、彼にとっては大きな逆風となる。地動説に関する著書が大ヒットしたお陰で、カトリックという当時の絶対権力を怒らせたガリレオは(自説を撤回するも)、晩年は郊外の別荘に軟禁される事となる。

 老いたガリレオは、貧しい軟禁生活の中で可能無限(可算無限)に関する大きな発見をする。ある日、弟子の一人が”整数全体と2乗数全体の間には1対1対応が成り立ち、2つの集合内の要素の数は同じ”だと結論づけた。
 そこでガリレオは”無限集合がその真部分集合と同じだけの要素数を持つ”事に気付いた。因みに、これは私めの「無限大ホテル」を読んで頂ければ、簡単に理解できます。
 ”無限集合がそれより小さい集合と同等である”という直感に反するこの無限の性質は、古代のカバリストたちが追い求めてきた無限なる神(エンソフ)と一致する。
 とは言え、ガリレオが発見した無限は離散的なもの、つまり無限ではあるが数えられるもので、今では”可算無限”と呼ばれる。一方で、古代ギリシャの数学者たちが(ピタゴラス教団を苦しめ続けた)幾何学や無理数を研究した時に垣間見たものは、連続体の無限(今で言う非可算無限)であった。
 しかしガリレオの死により、可算無限を超えて連続体に立ち向かうバトンは別の数学者に渡される事になる。

 チェコのカトリック司祭だったボルツァーノ(1781-1848)も、権力を敵に回し、神学上進歩的な立場をとったが為に、皮肉にもガリレオと同じ道を辿った。
 彼の著書である「無限の逆説」は、彼の死から2年後だったが、この革新的なアイデアも注目される事はなかった。
 ボルツアーノは”永遠とはどちらの方向にも伸びる無限の時間”と考え、神と時間の考察から無限のパラダクスを発見する。
 彼は、連続体にぎっしりと詰まってる数も可算無限集合と同様の性質を持つのではないかと考えた。
 例えば、2つの区間として0と1の定義域と0と2の値域とを考え、簡単な関数y=2x上で、[0,1]の実数xを[0,2]の実数yに1対1で対応できる事を証明した。
 つまり、整数などの離散的な数ではなく、実数などのベタ塗りの数でも、ある閉区間内ではx軸もy軸も要素数は同じなのだ。

 このボルツアーノの”連続体無限を纏め上げてるのは連結性だ”との主張(仮説)は、かのドイツの天才数学者リーマンに受け継がれ、無限の考察の舞台はやがてベルリンへと向かっていく。

 長くなりすぎたので、今日はここで終了です。
 次回は、リーマンやワイエルシュトラスが眺めた無限について述べたいと思います。



4 コメント

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宇宙は無限に膨張している (平成エンタメ研究所)
2022-07-28 09:46:54
む、難しい……!
でも最後まで読み通しますので、残り2話?楽しみにしております。

無限ということでは、無限に膨張するする宇宙のことを思い出しました。
その宇宙も「無」そして「ビッグバン」から始まった。

一方、物質も原子、粒子など無限に小さくなっていく。

そして人間の心も無意識世界は、無限に深く広がっている。

宇宙も物質も人間も実は同じ所で繋がっているのかもしれませんね。
宇宙も物質も人間も同じ物理法則に支配されている。
それを数学者たちは「神の意思」と考えたのかもしれません。
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エンタメさん (象が転んだ)
2022-07-28 12:14:01
長く堅い記事に、最後までお付き合い頂いて恐縮です。

言われる通り
宇宙は無限なんですが、膨張と収縮を繰り返しながら更に無限に膨張するというカントール的に言えば、非可算的な無限ともいえますね。
一方で、オイラーに言わせれば、自然界の多くは比較的単純な数学の法則で書き表せるとしてます。勿論、書き表せないものも無数に存在するんですが・・・

”(無限の)宇宙も物質も人間も同じ所で繋がってる”筈ですが、カントールの連続体仮説では”繋がってない”と予想しました。
しかし後にこれは覆され、今では証明も反証もなされてはいません。

ガウスが言う様に、数論(代数学)ではこうした曖昧な問題って幾らでも存在するんですよね。
数学者はこうした迷宮入りの難題を1つ1つ辛抱強く解き明かしていくんですが、難題も無限に広がっていく。
ある意味、神の領域を超えて(悲しいかな)狂気に収束してるのかもしれません。

そういう意味では、数学には神の慰めが必要かもですね。
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カントールの謎 (#114)
2022-07-30 07:42:36
多分
4話では終わらんね
集合論は奥が深いし
矛盾に満ちてるから
リーマンの謎と同じく
カントールの謎って感じで
長くなりそうな気配 
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#114さん (象が転んだ)
2022-07-30 09:00:00
まさしく、その通りになりそうです。

カントールの対角線論法に関しては納得済みでしたが、連続体仮説に行くまでの過程が実に凄い。神秘的すらをも超えている。
予想してた以上に、神の領域を超えちゃってますね。
カントールの謎というより、カントール自ら導き出した悪夢って感じです。
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