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スキージャンプ男子のレジェンドであるマッチ・ニッカネン(Matti Nykanen)氏が55歳で急死した。2019年2月4日、母国フィンランドのメディアが伝えた。
スキージャンプ界で史上最高の選手とされるニッカネン氏は、冬季五輪で計4個の金メダルを獲得した他、通算6度の世界選手権制覇と通算4度のW杯総合優勝を飾るなど、1980年代に圧倒的な強さを誇り、超人”鳥人”の名を欲しいままにした。
フィンランド放送協会(YLE)や地元誌などでは、ニッカネン氏が4日までに急死したと伝えた。死因については現時点で不明だが、YLEによれば同氏は2018年に糖尿病と診断されてたという。
ニッカネンは1982年に18歳にして初めてW杯総合優勝を達成し、母国フィンランドでは”生きる伝説”となっていた。
1984年のサラエボ大会で金と銀を獲得すると、4年後のカルガリーでは個人2勝と団体1勝を挙げ、3冠を達成した五輪史上初の男子選手となった。
しかし、引退後の約25年間ではアルコール依存症による友人や妻への暴行事件が何度も報道され、選手としての輝かしいキャリアに大きな傷がついた。2004年(41歳)には、酒に酔った上のけんかで友人をナイフで刺す殺人未遂事件を起こし、禁錮2年2月を言い渡される。
更に、保釈された僅か数日後には、5人目の妻のメルヴィさんに暴力を振い、再び逮捕。彼女に対しては、その後もナイフを突きつけ、揚げ句にガウンのひもで窒息させようとし、禁錮16月の判決を受け、2009年のクリスマスは獄中で過ごす事になった。
1991年の僅か28歳で現役を引退した後は、歌手に転向し、翌年にはアルバムが母国で大ヒットした。他にも、ナイトクラブで男性ストリッパーになったり、テレクラで働いたりもしていた。
こうした数々の騒動がありながらも、ニッカネン氏は母国の宝として敬われ、その破天荒ぶりは批判の声と同時に、世間の同情も引き寄せた(AFP)。
因みに、写真は母国フィンランドで製作された映画「Matti:Hell Is for Heroes」ですが、視聴回数は461,665回で2006年にフィンランドで最も視聴されました。この映画はNetflixで見れるみたいです。
鳥人伝説
ニッカネンに関しては、これ以外にも様々な鳥人伝説がある。
身体を前に投げ出す様にして飛び出す、”鳥人”と謳われた異次元のジャンプスタイルは、他の傑出した欧州勢でも真似出来なかった。
事実(V字スタイルが主流になった)今でも、欧州勢は非常に高い踏み出しで、上から落ちる様にして着地する。
しかし鳥人は違った。高くではなく前へ踏み出した。故に、本気で飛べば(平らな所に着地するだろう)身の危険から、飛んだ後にブレーキを利かせながら着地していたという逸話すらある。
つまり、ブレーキをかけながら跳んでも、無敵だったのだ。飛距離でも他の有力選手とは(明らかに手を抜いても)10Mは余裕で遠くへ飛んでいた。
当時のスキー協会は、当然ニッカネン封じを企む。”このままじゃ、少なくともここ10年は奴の時代だ”
そこで協会は、敢えて踏切(カンテ)速度が出る”危険なジャンプ台”の設計に取り組んだ。
ここ数年、滑空フォームや着地技術の進歩に加え、ユニフォームやスキー板の改良にジャンプ台の改造などにより、トップレベル選手たちにとって、K点(極限)越えは当り前になった。
つまり、(これ以上飛んだら危険とされる)K点を超えない限り、優勝は出来ない。
もはやK点は極限点ではなく、国際スキー連盟(FIS)は2004年にルールを変更。K点に代わり、”安全に飛べる最大距離”のL点を示す目安として”ヒルサイズ(HS)”が新たに導入された。故に、HSを越える選手が出ると、選手の安全の為にスタート位置を下げ、飛距離を抑える措置を取る。
因みに、今ではK点は”基準点”とされ、これ以上飛ぶと得点が加算される。ノーマルヒルでは95m、ラージヒルで125Mに設定されている。一昔前なら優勝できる飛距離だ。L点(HS)は同じく106M(ノーマル)と140M(ラージ)で、昔で言う”これ以上飛ぶと危険”な距離である。
つまり今では、このL点(HS)を飛ばないと優勝は出来ない。
北京五輪で日本勢初の金メダルを獲得した小林陵侑選手だが、追い風という不利な条件ながら(HS近くの)104.5Mを飛んだのを見た時、”あの鳥人ニッカネンがこのジャンプ台で飛んだら、どれだけの飛距離を出すのだろうか?”と思わず身震いした。
ニッカネンが活躍した時代、極限点は彼の為だけにあった。どんなにゲートを下げ、助走スピードを落としても、この鳥人だけは何食わぬ顔して、(今で言う)L点(HS)を余裕で越えた。それもブレーキを掛けながらである。
最後に〜鳥人であるために
この鳥人だが、カルガリー大会(1988)で冬季五輪史上初の三冠を達成したのを機に、勝ち星には恵まれなかった。
それもその筈、欧州各国は飛距離の出る(今の様な)ジャンプ台に改装していたのだ。
元々、”ジャンプで恐怖を感じた事は未だかつて一度も無い”と豪語してたニッカネンだが、とうとうキレた。
”オレを殺す気か?”
しかし、彼の訴えは聞き入れられない。
ニッカネンがアルコールに入り浸る様になったのもこの頃だと、私は思う(多分)。
その後の彼の生き様は、冒頭で紹介した通りである。
ジャンプ台では超人(鳥人)であった彼だが、人生では超人どころか、ごく普通の人間ですらなり得なかった。
ニッカネンは空を飛ぶ様に、シャンツェ(ジャンプ台)を跳んだ。まるで羽根を大きく伸ばしたイーグルみたいに滑空した。
人生でもそう望んだ筈である。しかし人生は空でもジャンプ台でもない。羽根を付けた飛ぶ鳥の様に、自由に舞う事は不可能なのだ。
(動力を使わずに)自力で空を飛ぶ事は、人類の無謀なる夢である。確かに、その夢に一番近づいたニッカネンだが、その夢の先には悪夢が待ち構えていた。
ニッカネンの鳥人としての野望はそこで潰えたのだろう。つまり、飛べなくなった鳥の野望は失望にすらなりえない。
もし、今の大きなジャンプ台でニッカネンが自由奔放に翼を広げていられたら・・・人生でも”鳥人”になってたかもしれない。
童顔の何処に、神をも恐れぬ勇気があったものかと、世界中が驚いてた事でしょうか。
偉人が晩年に酒や薬に溺れるというのはよくある事ですが、彼も定規で測った様に転落していきます。
”出る杭は叩かれるが、出過ぎた杭は叩かれない”と言いますが、彼の場合、出過ぎた杭が故に(スキー連盟から)叩かれました。
でも今から思うと彼のジャンプは天使の様に美しかった。何度見ても美しかったです。