初めて腕時計を買ってもらったのは、中学の時。SEIKOで、文字盤がブラック。かっこよかった。親父は「見にくいぞ!」と常識的でナンセンスなアドバイスくれたのを覚えている。息子のセンスの良さに驚くところだったのだ。自分で買った時計は3、4個くらいだろう。人生で使う時計の数は知れている。だから少しくらい高くても、と思ってる人もいるだろう。私は違う。収入は限られている、欲しいものは無限だ。時計ごときに趣味性を発揮するゆとりはない。いくら豪華な時計付きブレスレットでも自分で作ったもんでもないし、自慢にはならんでしょう。かざりじゃないのよ時計は、と納得させる。
ソーラーで電波時計が出たら買いたいと思っていた。5、6年前にカシオからでた。デザインも重さも大きさも価格も手ごろだった。我が家の時計はほとんど電波時計だ。それほど几帳面な性格ではないが、時計には求める。テレビがアナログだったときNHKの時報と電波時計を見比べながらカウントしたものだ。ピッ、ピッ、ピッ、ピーン。テレビは今もアナログだった。時報はなくなった。デジタルだと合わないらしい。デジタルも不自由なものだ。
せっかちだからか、単調な同じ動作をするとき、気がついたらなぜか数を数えてる。数えても意味ないのに、なぜか数える、あるいは読む。トイレのTOTOの文字、パンツのメーカーのロゴを何度読んだことか。家電のマニュアルをトイレに置いとけばゆっくり出来るかも。一度に2つのことが出来ると単純にうれしい。同居者によると、非常にいらだつ。同感である。
たぶんすいてたのだろう、数分早く着いた電車に乗り遅れたことがある。遅れることはあっても早まるというのはどうか。腹立たしい。空いてる市内電車の運転手と車掌が、速く走れたと自慢げに話し合っていた。それは、客を出来るだけ乗せないで走ったということだろう。ったく、何が自慢になるか分からない。時計の話だった。今持ってる動く腕時計は1個。文字盤はもちろん黒だ。5年の時が時計自体にも刻まれている。全く美しい。