小学4年生あたりで「映画って、いいな」と思うようになり、
中学生で映画ファンを自称、
高校になると映画小僧であると自覚するようになった自分。
上京して以降は、劇場での鑑賞数が100を切ったことがない。
・・・というのが自慢というか誇りといえば誇りなのだが、
「それだけ観ていると、どんどん忘れていかない?」と問われることがある。
「自分にとって面白い作品は、よく覚えているよ。その逆の、モノスゴつまらない作品も同様」
「つまらない作品も?」
「つまらな過ぎると、覚えているものだよ」
「へー。忘れる作品って?」
「真ん中あたりの出来のもの。そういうものから、次々と忘れていく」
たとえば、わが神スコセッシの『グッドフェローズ』(90)は、ビデオも含めて50回を超える鑑賞数で「隅々まで」覚えているが、
あれだけ? 大嫌いな『稲村ジェーン』(90)は、きっちり観たのはいちどだけなのに、
やっぱり「隅々まで」覚えているのだった。
そういうもの、なのである。
ただ出来不出来に関係なく、監督や俳優の名前を忘れがちにはなった。
昔は「誰だっけ、えーーーと」などと考え込むことさえなかったはずなのに、いまは「しょっちゅう」そういうことが起こる。
たとえば先日は、トッド・ソロンズとトッド・ヘインズがどっちがどっちだか分からなくなって困った。
田畑智子と多部未華子が「ごっちゃ」になって頭を抱えた。
そういうことがないように―と始めたのが、我流の「俳優列伝」だったはずなのに。
トシかなぁ、、、などとはいってはいけない。
淀川センセーは、70を過ぎても幼少のころに触れた映画について「はっきり」覚えていた。
映画について書くということは、日常生活で大事なことを忘れても、映画についてだけは忘れてはいけないってことだろう。
少しでも暇な時間が出来たら、『ロードショー』の付録だった「スター名鑑」を眺める。
そうやって自分は、俳優や映画のタイトルを覚えていたんじゃなかったっけか。
AV流してアレをソレするのも大事だが、初心を忘れていたかもしれないな・・・と、淀川センセーの解説を観るたびに思うのだった。
…………………………………………
明日のコラムは・・・
『にっぽん男優列伝(305)前田吟』
中学生で映画ファンを自称、
高校になると映画小僧であると自覚するようになった自分。
上京して以降は、劇場での鑑賞数が100を切ったことがない。
・・・というのが自慢というか誇りといえば誇りなのだが、
「それだけ観ていると、どんどん忘れていかない?」と問われることがある。
「自分にとって面白い作品は、よく覚えているよ。その逆の、モノスゴつまらない作品も同様」
「つまらない作品も?」
「つまらな過ぎると、覚えているものだよ」
「へー。忘れる作品って?」
「真ん中あたりの出来のもの。そういうものから、次々と忘れていく」
たとえば、わが神スコセッシの『グッドフェローズ』(90)は、ビデオも含めて50回を超える鑑賞数で「隅々まで」覚えているが、
あれだけ? 大嫌いな『稲村ジェーン』(90)は、きっちり観たのはいちどだけなのに、
やっぱり「隅々まで」覚えているのだった。
そういうもの、なのである。
ただ出来不出来に関係なく、監督や俳優の名前を忘れがちにはなった。
昔は「誰だっけ、えーーーと」などと考え込むことさえなかったはずなのに、いまは「しょっちゅう」そういうことが起こる。
たとえば先日は、トッド・ソロンズとトッド・ヘインズがどっちがどっちだか分からなくなって困った。
田畑智子と多部未華子が「ごっちゃ」になって頭を抱えた。
そういうことがないように―と始めたのが、我流の「俳優列伝」だったはずなのに。
トシかなぁ、、、などとはいってはいけない。
淀川センセーは、70を過ぎても幼少のころに触れた映画について「はっきり」覚えていた。
映画について書くということは、日常生活で大事なことを忘れても、映画についてだけは忘れてはいけないってことだろう。
少しでも暇な時間が出来たら、『ロードショー』の付録だった「スター名鑑」を眺める。
そうやって自分は、俳優や映画のタイトルを覚えていたんじゃなかったっけか。
AV流してアレをソレするのも大事だが、初心を忘れていたかもしれないな・・・と、淀川センセーの解説を観るたびに思うのだった。
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明日のコラムは・・・
『にっぽん男優列伝(305)前田吟』