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るー「ぷ」→「ぷ」ろれす(ぷろれす)
ミル・マスカラス
前田日明
ロード・ウォリアーズ
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スタン・ハンセン
ザ・グレートカブキ
以上、自分の好きなプロレスラー5人。
プロレスラーにとって、許せない現代用語がひとつあるという。
「台本、ありき。」のいさかいが生じた際に使われる「これはプロレス」という表現。
まぁ分からんでもない。
使うほうも、使われてイヤな思いを抱くほうも。
「ちょうどいい」んだよね、表現として。
分かり易いし。
でも、「所詮は台本あり。なんでしょ」と評されることの多いプロレスラーにしてみれば、バカヤロウ! ってなるのも分かる。
台本は決着のみ。 ということが多く、その過程は即興? なのだから。
自分は小学生のころプロレスの熱狂的なファンになり、それは中学生までつづいた。
けれども高校生のころには、プロレスのことが大嫌いになった。
「台本、ありき。」であることを知ってしまったから。
30歳を過ぎたあたりで、また「そこそこ」好きになったのだが、自分が専門とする総合格闘技(MMA)とプロレスを混同するひとに出くわすと、未だイライラしてしまう。
「だから!」といいながら解説をするのだが、でもしょうがないことでもあるのだよね。
たとえば去年大晦日の『RIZIN』。
年に1度か2度くらいしか格闘技を観ないというひとが、この日のテレビ中継に触れたらどうだろう。
柔術の王者であり、このところMMAの成長が著しいギャビ・ガルシアの相手がプロレスラーの堀田祐美子で。
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結果は当然のようにギャビの快勝、
ギャビはこのリングがMMAであることを理解しているから、試合後のマイクで相手を称えた。
けれども堀田のセコンドを務めた神鳥忍は、このリングがMMAであることを理解していない。
試合後も相手を挑発し、それが「場に、あっている」と思い込んでいた。
地続きと解釈されることは、なんとも思わない。
けれども「同じ」と解釈されてしまうのは、どんなもんかな、、、と。
・・・・・いかんいかん、映画の話だった。
さて野球やサッカーの映画に比べてボクシングの映画が多いのは、リングとスクリーンのサイズに「それほどの差異がない」から、、、というのが持論なのだが、
では、どうしてプロレスの映画が少ないのか? という問いに対し、誰もが納得する答えを持っていない。
なぜなんだろうね。
力道山の伝記映画は創られたが、パッとしなかった。
猪木の伝記なんて3部作にしなければならないほどボリューミーになるだろうし、
ブロディのイキザマもドラマチックだと思うのだが。
オリジナルだってそうだ。
有名なのは・・・
ピーター・フォークの『カリフォルニア・ドールス』(81)、
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日本映画では『お父さんのバックドロップ』(2004)、
そしてミッキー・ロークの『レスラー』(2008)くらいじゃないか。
観客がかぎられてしまうから・・・と考えたが、それはボクシングも同じか。
やっぱり「ガチンコ、ではない」「スポーツではない」という解釈のされかたが、ネックになっているのかなぁ。。。
※歴史的価値の高い、プロレス→MMAの煽りV
ここでドアーズを流すセンスは、さすがだなぁ!
あすのしりとりは・・・
ぷろれ「す」→「す」き。
…………………………………………
明日のコラムは・・・
『ためられない、とめられない』
ミル・マスカラス
前田日明
ロード・ウォリアーズ
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スタン・ハンセン
ザ・グレートカブキ
以上、自分の好きなプロレスラー5人。
プロレスラーにとって、許せない現代用語がひとつあるという。
「台本、ありき。」のいさかいが生じた際に使われる「これはプロレス」という表現。
まぁ分からんでもない。
使うほうも、使われてイヤな思いを抱くほうも。
「ちょうどいい」んだよね、表現として。
分かり易いし。
でも、「所詮は台本あり。なんでしょ」と評されることの多いプロレスラーにしてみれば、バカヤロウ! ってなるのも分かる。
台本は決着のみ。 ということが多く、その過程は即興? なのだから。
自分は小学生のころプロレスの熱狂的なファンになり、それは中学生までつづいた。
けれども高校生のころには、プロレスのことが大嫌いになった。
「台本、ありき。」であることを知ってしまったから。
30歳を過ぎたあたりで、また「そこそこ」好きになったのだが、自分が専門とする総合格闘技(MMA)とプロレスを混同するひとに出くわすと、未だイライラしてしまう。
「だから!」といいながら解説をするのだが、でもしょうがないことでもあるのだよね。
たとえば去年大晦日の『RIZIN』。
年に1度か2度くらいしか格闘技を観ないというひとが、この日のテレビ中継に触れたらどうだろう。
柔術の王者であり、このところMMAの成長が著しいギャビ・ガルシアの相手がプロレスラーの堀田祐美子で。
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結果は当然のようにギャビの快勝、
ギャビはこのリングがMMAであることを理解しているから、試合後のマイクで相手を称えた。
けれども堀田のセコンドを務めた神鳥忍は、このリングがMMAであることを理解していない。
試合後も相手を挑発し、それが「場に、あっている」と思い込んでいた。
地続きと解釈されることは、なんとも思わない。
けれども「同じ」と解釈されてしまうのは、どんなもんかな、、、と。
・・・・・いかんいかん、映画の話だった。
さて野球やサッカーの映画に比べてボクシングの映画が多いのは、リングとスクリーンのサイズに「それほどの差異がない」から、、、というのが持論なのだが、
では、どうしてプロレスの映画が少ないのか? という問いに対し、誰もが納得する答えを持っていない。
なぜなんだろうね。
力道山の伝記映画は創られたが、パッとしなかった。
猪木の伝記なんて3部作にしなければならないほどボリューミーになるだろうし、
ブロディのイキザマもドラマチックだと思うのだが。
オリジナルだってそうだ。
有名なのは・・・
ピーター・フォークの『カリフォルニア・ドールス』(81)、
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日本映画では『お父さんのバックドロップ』(2004)、
そしてミッキー・ロークの『レスラー』(2008)くらいじゃないか。
観客がかぎられてしまうから・・・と考えたが、それはボクシングも同じか。
やっぱり「ガチンコ、ではない」「スポーツではない」という解釈のされかたが、ネックになっているのかなぁ。。。
※歴史的価値の高い、プロレス→MMAの煽りV
ここでドアーズを流すセンスは、さすがだなぁ!
あすのしりとりは・・・
ぷろれ「す」→「す」き。
…………………………………………
明日のコラムは・・・
『ためられない、とめられない』
女子高校生プロレス
小嶋陽菜さんにとって最後のAKB48でセンターで歌っている曲が主題歌で
がいらっしゃいまして決して台本ありき(悪い
言い方だと八百長)とは言わなかった。
でも歳取るとエルボーやドロップキックはきつか
った、アメリカ行ったら三度笠に下駄履いた格好
させられたに笑えました。