むらきよしろ「う」→「う」らじみーる・なぼこふ(ウラジミール・ナボコフ)
聞かれたわけでもないのに何度も主張していることのひとつに・・・
自分は、社会的に(たぶん)許される範囲内のロリコンである、、、というのがある。
つまりペドフィリア(=小児性愛、児童性愛)ではないよと。
小学生で疼くことはないが、中学生だったらOKみたいな。
挑発的なエロスより、
まだ、自身の性的魅力に気づいていない―そんな、無防備さからくるエロスのほうにグッとくる。
好きなAV女優は「みんなそんな感じ」だし、女子のファッションも「そんな感じ」なのが好き。
いつごろから?
ずっと前からそうだった、、、ような気がする。
ロリコンはロリータ・コンプレックスの略だが、このことばは「ハンバート・コンプレックス」のほうが適切なのかもしれない―という意見がある。
「エディプスコンプレックスがエディプス王に由来することば」であることに倣えば、
少女に特別な感情を抱くコンプレックスは、小説『ロリータ』の主人公ハンバートが抱えたもの。
だから、ハンバートに愛された少女の名前を冠するのはおかしい、、、というわけ。
確かにそうだが、もう根づいたことばであるし、ロリータという響きは(結果論のような気もするが)インパクト大だからね、もう修正は不可能だろう。
『ロリータ』の生みの親が、ウラジミール・ナボコフ。
ロシア出身の作家で、沢山の作品を残した―のだが、これ一作で語られることの多いひと。
実際、自分も『ロリータ』しか読んだことはない。
下宿先で知り合った少女にこころを奪われる大学教授の物語・・・ぜんぜん危険でもないしエロくもない、というのが率直な感想ではあるものの、
ロリータに「近づくために」母親である未亡人と結婚しようとしたり、
確かにちょっと常軌を逸しているのかもしれない、そういった内容が問題視され、度々発禁処分を受けた問題作として有名である。
やや逸れるかもしれないが、軽薄な80年代(でも、好きな時代だよ)では許された『およしになってねTEACHER』(おニャン子)が、エンコーやワイセツ教師の大量発生により現代ではNGっぽくなっているのにちかい―つまり、時代も関係しているのかと。
それでも都知事あたりはいうのかね、小説の『ロリータ』は許せても、それをコミックにしてみたらダメだと?
さて映画版の『ロリータ』は、61年と97年に制作されている。
前者はキューブリックが、後者はエイドリアン・ラインが映画化。
ともに成功作とはいい難いが、監督としては申し分がないというか、このふたり以外は創っちゃいけないのでは・・・と思えるほど、スキャンダラスということばが相応しい監督である。
甲乙をつけるとすれば、演出力に関係なく、ロリータ役の女優(ドミニク・スウェイン…トップ画像)で後者の勝ち。
キューブリック版は、ロリータに魅力がなさ過ぎた。
自分の友人にロリータ系の女子が居て、いまでも「頑張れば」同年代なのに20代前半に見える。
付き合う男は50代くらいばかりで、みなロリコンなのかと思うが、そんなジイサンと97年版の『ロリータ』を観たそうだ。
彼女曰く「ロリータはカラッポの人間として描かれていて失望したけれど、ハンバートを抱きしめたくなった」。
なるほど。
愛情を注ぐ男ばかりでなく、受けるほうの「少女」にも「その気」があるということなのか。
こうしたテーマを語るのは、常に「すれすれ」だ。
完全に「向こう側」にいってしまうと児童ポルノの問題と直結するし、
でも「向こう側にいきそうでいかない」ところに文化があったりもする。
「自分はロリータか否か」を判断するリトマス試験紙として、とりあえず映画『エコール』(2004)と、AV女優のつぼみをプッシュしておこう。
※でもポスターや予告編などは、さすがキューブリックという感じ。
次回のしりとりは、
うらじみーる・なぼこ「ふ」→「ぶ」るーたす
…………………………………………
本館『「はったり」で、いこうぜ!!』
前ブログのコラムを完全保存『macky’s hole』
…………………………………………
明日のコラムは・・・
『「知っているよ」、とはいえません。』
聞かれたわけでもないのに何度も主張していることのひとつに・・・
自分は、社会的に(たぶん)許される範囲内のロリコンである、、、というのがある。
つまりペドフィリア(=小児性愛、児童性愛)ではないよと。
小学生で疼くことはないが、中学生だったらOKみたいな。
挑発的なエロスより、
まだ、自身の性的魅力に気づいていない―そんな、無防備さからくるエロスのほうにグッとくる。
好きなAV女優は「みんなそんな感じ」だし、女子のファッションも「そんな感じ」なのが好き。
いつごろから?
ずっと前からそうだった、、、ような気がする。
ロリコンはロリータ・コンプレックスの略だが、このことばは「ハンバート・コンプレックス」のほうが適切なのかもしれない―という意見がある。
「エディプスコンプレックスがエディプス王に由来することば」であることに倣えば、
少女に特別な感情を抱くコンプレックスは、小説『ロリータ』の主人公ハンバートが抱えたもの。
だから、ハンバートに愛された少女の名前を冠するのはおかしい、、、というわけ。
確かにそうだが、もう根づいたことばであるし、ロリータという響きは(結果論のような気もするが)インパクト大だからね、もう修正は不可能だろう。
『ロリータ』の生みの親が、ウラジミール・ナボコフ。
ロシア出身の作家で、沢山の作品を残した―のだが、これ一作で語られることの多いひと。
実際、自分も『ロリータ』しか読んだことはない。
下宿先で知り合った少女にこころを奪われる大学教授の物語・・・ぜんぜん危険でもないしエロくもない、というのが率直な感想ではあるものの、
ロリータに「近づくために」母親である未亡人と結婚しようとしたり、
確かにちょっと常軌を逸しているのかもしれない、そういった内容が問題視され、度々発禁処分を受けた問題作として有名である。
やや逸れるかもしれないが、軽薄な80年代(でも、好きな時代だよ)では許された『およしになってねTEACHER』(おニャン子)が、エンコーやワイセツ教師の大量発生により現代ではNGっぽくなっているのにちかい―つまり、時代も関係しているのかと。
それでも都知事あたりはいうのかね、小説の『ロリータ』は許せても、それをコミックにしてみたらダメだと?
さて映画版の『ロリータ』は、61年と97年に制作されている。
前者はキューブリックが、後者はエイドリアン・ラインが映画化。
ともに成功作とはいい難いが、監督としては申し分がないというか、このふたり以外は創っちゃいけないのでは・・・と思えるほど、スキャンダラスということばが相応しい監督である。
甲乙をつけるとすれば、演出力に関係なく、ロリータ役の女優(ドミニク・スウェイン…トップ画像)で後者の勝ち。
キューブリック版は、ロリータに魅力がなさ過ぎた。
自分の友人にロリータ系の女子が居て、いまでも「頑張れば」同年代なのに20代前半に見える。
付き合う男は50代くらいばかりで、みなロリコンなのかと思うが、そんなジイサンと97年版の『ロリータ』を観たそうだ。
彼女曰く「ロリータはカラッポの人間として描かれていて失望したけれど、ハンバートを抱きしめたくなった」。
なるほど。
愛情を注ぐ男ばかりでなく、受けるほうの「少女」にも「その気」があるということなのか。
こうしたテーマを語るのは、常に「すれすれ」だ。
完全に「向こう側」にいってしまうと児童ポルノの問題と直結するし、
でも「向こう側にいきそうでいかない」ところに文化があったりもする。
「自分はロリータか否か」を判断するリトマス試験紙として、とりあえず映画『エコール』(2004)と、AV女優のつぼみをプッシュしておこう。
※でもポスターや予告編などは、さすがキューブリックという感じ。
次回のしりとりは、
うらじみーる・なぼこ「ふ」→「ぶ」るーたす
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本館『「はったり」で、いこうぜ!!』
前ブログのコラムを完全保存『macky’s hole』
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明日のコラムは・・・
『「知っているよ」、とはいえません。』
成長期の少女達しか愛せない男性・・・・・
少女が大人になってしまったら 愛する対象ではなくなる
そうした男性を愛してしまった女性を主人公にしていっそホラーでも書けそうです
成長期の少年達にしか興味が湧かない女
それを何と呼ぶのかは知りませんが・・
一月で5キロは不健康すぎるのでは??
尋常では無いレベルだっせ!!
自由でしょうね。
法律に触れない限りだけど法に触れてまで
のめり込む人も、異性の凄いとこですね。
エロ教師にエロ警官。。。
増えてきているのか?
それとも、隠し切れなくなってきただけなのか?
性癖は自由だけど、どうなんでしょう????
エロ画像で仕事と退職金を棒に振るバカ警官。
子どもを毒牙にかけるエロ教師。
税金泥棒以外の何ものでもない。