こー「く」→「く」るいざきさんだーろーど(狂い咲きサンダーロード)
この世で最も嫌悪するもの。
それは、いきがっているアンちゃん。
現在では関西発の「イキっている」という表現のほうが浸透しているのかな、とにかく大嫌い。
「自分、最強。」みたいな感じで街を歩くアンちゃんを見ると、背後から蹴り飛ばしたくなってくる。
チンピラのことではなく、その予備軍というか。
自称「○○連合」みたいな、まぁほとんど名指しだが、それがどうしたのかって思う。
タトゥーを否定するものではないが、左腕に十字架のタトゥーが入っていたり、それを強調する感じで腕まくりしていたり。
大抵は浅黒く、ガムをクチャクチャと噛む。
たぶん、いじめられた過去も関係しているのだろう、
だからボクシングが大好きでも、昭和のいじめっこの印象が未だ残る亀田長男を好きになれなかったりする。
メンチ切ってそれに勝って、なにが生まれるっていうんだい? みたいな。
・・・という考えの持ち主だから、キャラクターの面白さは理解出来ても、世代的に「バッチリ」はまるはずの『ビー・バップ・ハイスクール』は、漫画版も映画版も「それほど」乗れなかった。
映画版とか、いま観ると、そーとー笑えるんだけれどね。
仲村トオルの歌の下手さ加減とか、ミポリンの安っぽい感じとか。
じゃあ不良、ヤンキー映画と呼ばれるもの全般がダメかというと、そんなことはない。
とくに『狂い咲きサンダーロード』(80)は、気が触れているほどに純度の高い反体制的なヤンキー映画で、その点において貴重であるし、どんな物語でも突き詰めることをしていれば、観るもののこころに刺さるのだ―ということを証明した傑作だと思う。
監督は、当時の名前で石井聰亙。(現在は石井岳龍)
岳龍(がくりゅう)と改名しようが、映画小僧のあいだでは聰亙(そうご)さんのままだろう、そのくらい、このひとの80年代は熱かった。
おそらく本人は気にしているであろう、身長の低さがいい。
いや馬鹿にしているんじゃなくって、そういうひとが、これほどのパワフルな映画を創ってしまうのだよと。
台詞はあってないようなもの。
だから言語は無関係、日本語が分からなくてもこのアナーキーさは通じる・・・ってことで、本作は軽やかに日本を飛び出し、世界中の映画小僧たちを歓喜させたのだった。
そりゃそうだ、コノヤロー! だのバカヤロウ! だのいって殴り殴られ、バイクを暴走させ、銃を撃ちまくる「だけ」の映画なのだもの。
「だけ」っていうのは貶すときに多用されることばだが、なにかに純化・特化したものに対する褒めことばとしても有効で、この映画がまさにそうである。
石井聰亙は、日大芸術学部に在学していたころから頭ひとつ抜きん出ていた。
76年のデビュー作『高校大パニック』から84年の『逆噴射家族』(漫画家の小林よしのりが脚本を担当)まで物語も作風も一貫しており、いい意味で成熟しないというか、その尖った、尖りまくった感性が当時の映画小僧たちを熱狂させたのである。
ちなみに一世風靡セピアの代表曲『前略、道の上より』のPVも担当していて、それを知ったうえでこのPVを観ると、「あぁ、なるほどな」と思えるのではないだろうか。
90年代以降―その作風だけで捉えれば静謐な感じにはなっているけれど、
ときどき「俺は変わってないよ」といいたげな描写があって、かつてのファンはそれに気づき、ニヤリとするのだよね。
あすのしりとりは・・・
くるいざきさんだーろー「ど」→「ど」くとるまぶぜ。
…………………………………………
本館『「はったり」で、いこうぜ!!』
前ブログのコラムを完全保存『macky’s hole』
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明日のコラムは・・・
『シネマしりとり「薀蓄篇」(38)』
この世で最も嫌悪するもの。
それは、いきがっているアンちゃん。
現在では関西発の「イキっている」という表現のほうが浸透しているのかな、とにかく大嫌い。
「自分、最強。」みたいな感じで街を歩くアンちゃんを見ると、背後から蹴り飛ばしたくなってくる。
チンピラのことではなく、その予備軍というか。
自称「○○連合」みたいな、まぁほとんど名指しだが、それがどうしたのかって思う。
タトゥーを否定するものではないが、左腕に十字架のタトゥーが入っていたり、それを強調する感じで腕まくりしていたり。
大抵は浅黒く、ガムをクチャクチャと噛む。
たぶん、いじめられた過去も関係しているのだろう、
だからボクシングが大好きでも、昭和のいじめっこの印象が未だ残る亀田長男を好きになれなかったりする。
メンチ切ってそれに勝って、なにが生まれるっていうんだい? みたいな。
・・・という考えの持ち主だから、キャラクターの面白さは理解出来ても、世代的に「バッチリ」はまるはずの『ビー・バップ・ハイスクール』は、漫画版も映画版も「それほど」乗れなかった。
映画版とか、いま観ると、そーとー笑えるんだけれどね。
仲村トオルの歌の下手さ加減とか、ミポリンの安っぽい感じとか。
じゃあ不良、ヤンキー映画と呼ばれるもの全般がダメかというと、そんなことはない。
とくに『狂い咲きサンダーロード』(80)は、気が触れているほどに純度の高い反体制的なヤンキー映画で、その点において貴重であるし、どんな物語でも突き詰めることをしていれば、観るもののこころに刺さるのだ―ということを証明した傑作だと思う。
監督は、当時の名前で石井聰亙。(現在は石井岳龍)
岳龍(がくりゅう)と改名しようが、映画小僧のあいだでは聰亙(そうご)さんのままだろう、そのくらい、このひとの80年代は熱かった。
おそらく本人は気にしているであろう、身長の低さがいい。
いや馬鹿にしているんじゃなくって、そういうひとが、これほどのパワフルな映画を創ってしまうのだよと。
台詞はあってないようなもの。
だから言語は無関係、日本語が分からなくてもこのアナーキーさは通じる・・・ってことで、本作は軽やかに日本を飛び出し、世界中の映画小僧たちを歓喜させたのだった。
そりゃそうだ、コノヤロー! だのバカヤロウ! だのいって殴り殴られ、バイクを暴走させ、銃を撃ちまくる「だけ」の映画なのだもの。
「だけ」っていうのは貶すときに多用されることばだが、なにかに純化・特化したものに対する褒めことばとしても有効で、この映画がまさにそうである。
石井聰亙は、日大芸術学部に在学していたころから頭ひとつ抜きん出ていた。
76年のデビュー作『高校大パニック』から84年の『逆噴射家族』(漫画家の小林よしのりが脚本を担当)まで物語も作風も一貫しており、いい意味で成熟しないというか、その尖った、尖りまくった感性が当時の映画小僧たちを熱狂させたのである。
ちなみに一世風靡セピアの代表曲『前略、道の上より』のPVも担当していて、それを知ったうえでこのPVを観ると、「あぁ、なるほどな」と思えるのではないだろうか。
90年代以降―その作風だけで捉えれば静謐な感じにはなっているけれど、
ときどき「俺は変わってないよ」といいたげな描写があって、かつてのファンはそれに気づき、ニヤリとするのだよね。
あすのしりとりは・・・
くるいざきさんだーろー「ど」→「ど」くとるまぶぜ。
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明日のコラムは・・・
『シネマしりとり「薀蓄篇」(38)』
喧嘩上等モノとか