marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(159回目)とにかく神様と永遠に生きたいⅢ が・・・

2016-10-26 18:33:55 | 日記
◆世界のベストセラー聖書を読む◆ 今回、少し理屈っぽい・・・のでごめんちゃいな
”真理はあなた方を自由にする”・・・いいぞ、いいぞ! でもちょっと待って、その前の言葉気になるな。”自分を信じたユダヤ人達に言った”とあるでしょ。こういう文言があるところが、聖書は一筋縄でいかんのよ。第一、その道の方も、いい言葉は言うけどこういう気に障る言葉の解説は、まず説教では長々としないものなのね。決して悪い意味ではなくてですね。イエスが、僕ら日本人に言うところの(一応)、「そうだいい言葉だ」というところの解釈にも、そのまんまではなく、僕が今まで書いてきたところの先理解としての知識が必要というか、深い意味を知ればますますその言葉も絵空事でなく事実の歴史としてあったほうが目から鱗(これパウロの言葉なのよ)なのだということが分かってくるのね。だから、この言葉だけではなくてね、聖書を読むと、僕なんぞは何で何でと、つぎつぎ思うので、少し畏れっぽくもっと知ってみたいと思うのね。一番の理由はですね、表題にあるとおり、きっともっとわくわくするすごい感動的なドラマが次から次と切れない泉のようにその世界では永遠に体感しつつ過ごせるだろうなと思ってしまっている訳なのだね。僕の今すんでいる地方でも、あの時代多くの人たちが殉教した歴史があるの。殺されるのに喜んで死んでいったんだって(ちょっと誇張があるだろうけど)・・・。僕はその秘密とやらを本当に知りたいと願ってるんだ。そんでは・・・
◆何でヨハネ伝からなの? それはね、僕、思うのだけれど。ちょっとでいいから、そこらの教会の少し難しそうなことを書いてあるチラシ、(おそらく部外秘 ←←こういうのは教会にはないけど)を見るとね。「信仰とはなんぞや・・・」「我らは何を信じるか」などという言葉が書いてあったりするのね。もっとも難しい神学書などには(書店にもこのようなドメスチックなのはない)むろんないけど。素直にイエスを信じたらいいのではないの?と僕なぞは思ってしまうのだけれどね・・・。(僕もそうなったから感謝ではあるがキリスト者は多弁ではあるな。)
◆それはね、僕が思うに、今を生きるイエス、将来へ歩むイエスの言葉を第一に考えないで、過去のイエス(とくに、これが僕がいう”しがらみ”なのだが)たとえば、マタイ伝なんかの書いた著者(or集団)の時代背景、個人の(集団の)状況のしがらみを引きずって読んでしまうからなのではないかと思ってしまうのね。確かにイエスの言葉は、普遍性がありそうだ、しかし、著者によって、同じような内容でも書き表され方が異なっているではないか、すこし受けとりニュアンスが違って読めたりする。ここには、今の僕らが読み切れない時代的、著者の置かれた状況とは違う(当然だと思うが)ことから来る齟齬があるからだと思うのよ。(実は、これね胸張って、それはそうですと言うその道の方があまりというか、そこまで言い切ってしまう方がほとんど不思議なことにいないのね。みなさんすべて、内容ともかくすべてがありがたい言葉だと思われているからそこまで言わないのね、きっと。)
◆これ実は大きな障害になっていると思うのだな。素直にイエスを信じよとする人には、それらの著者のしがらみは障害、むしろ恐れを生じさせていると思うのね。自分は罪人だとさらに追い打ちかけると、わからないこと(つまり先理解の知識がないから)いっそう恐縮する。・・・んではもともと(僕が言うところの)自分は、どこにいるのよ、その自分の言葉の基は・・・と考えてしまうのだ。特にこの国には「無私の精神」というのはあるからね。こいう人はたぶんに内面的には多弁なのだね。強い自分があるのだな。(そういえば昔、小林秀雄という一世風靡した評論家がこんな題名の随筆がありましたね。)かなり遅かりしだが、これからは自分をしっかり自分の言葉で言えることが重要だ、むろんイエスに向かっても・・・。御心のままに・・・という前にイエスが、「自分の足で立ちなさい」と言われているのだ。そこがともあれ重要なのだ。前の回にも書いたけれど、僕らが氷山で荒海という人生を必死こいて生き抜いているその重心に対してイエスは「私につながっていなさい」と今も語っているんだな。その重心から聞こえてくる、反応しようとする言葉が僕が言うところの”自分の言葉で読む”ということなのである。・・・今回は力んでしまった。・・・ 

世界のベストセラーを読む(158回目)とにかく神様と永遠に生きたいⅡ

2016-10-25 21:14:16 | 日記
◆世界のベストセラー聖書を読む◆
自己紹介に”すべてのしがらみから解放されて永遠の命を与える神の言葉をひとりひとりのものに!”と書いてありますでしょ。そんでよく考えてみるとね、僕などはとてもひねくれてるから 結局、”よい意味”でも、聖書を読むことは、先理解していることがらがないと読む気持ちにもならないということがあるでしょ。つまりきっかけ。”すべてのしがらみ”というもの・・・。それは何なのよということを考えるのね。
◆”悪い意味での先理解”というのは何なのさというとね・・・だれでも感ずると思うんだけれど、宗教は必ずというか、盲信というやつとか、どこかの怪しげな団体とか、誰それの教祖様なんていうのが、そぞろ恐ろしいじゃないかという類の人としては、当たり前のような常識感覚ね。昔ありましたよ・・・今もあったりして、だから詳しくは書かないでおこう。その中には、少しいい意味のもあるけどよく分からないというのがあるのね、これらも、僕の言う”すべてのしがらみから解放されて・・・”の部類に入るのね。しかし、メンタルな部分というのは悪魔がつけいるから難しいね、ミイラ取りがミイラになったりするから、この辺はあまり深入りしない方がいいいな。
◆さて、そんな時イエスの言葉を思い出すべし。「真理はあなた方を自由にする」おおなんと、聖書のどこだったかいなと目の前の、口語訳聖書をぱっと開いたら、そら目の前にこの言葉が飛び込んできたではないか。ずっと今まで読んできたヨハネ伝第8章31~32節
(31節)イエスは自分を信じたユダヤ人達に言われた。「もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうに私の弟子(でし)なのである。(32節)また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」。 この言葉は人気あるのよとても。んで、迷ったら、イエスのこの言葉を自分の言葉でとらえるべし・・・。そこには、イエスしか浮かんで来ないというのが正解。もし、なんらかの自己卑下するような苦いイメージが浮かんできたら、まあ、それが自分にまとわりつく嫌なイメージと思いこんで欲しい。”すべてのしがらみから解放されての一つだ”からかなぐり捨てよ。
◆来年はプロテスタント開祖マルチン・ルターさんの宗教改革から500年。彼がなんと言ってもイエスの言葉を一人一人のものにとがんばった人だった、万人祭司というのを言われたのだ。彼(イエス)を信じた(契約した)すべての人が直接、イエスからお言葉をいただき(読めて)ともに人生を生き、地上の生涯を終えてもその約束によって、彼と永遠の住まいに共に生きるということなのだ。さて、あなたはこれを信ずるか・・・なのだ。イエスを救い主(キリスト)と信ずること。クリスチャンがおまじないのように言う”アーメン”ということば「確かに信じます」という言葉なのだ。このとき、過去のイエスを信じているのか、未来のイエスを信じているのか、今のイエスを信じているのか・・・。
◆それで書いてきたけど、過去であれば一番最後に書かれたヨハネ伝からスタートしなさい(今のイエスと未来のイエスを信じなさい)と言われていたのがルターさんなのだ。それ以前の共観福音書を無碍にするという意味ではない。むろん旧約聖書も。けれど、肝心要はヨハネ伝に書かれているということなのだ。そのあとは、パウロの手紙ロマ書を読めと・・・。(「新約聖書への序言」から)
◆なんで? 同じこと書くけど、人の言葉というのはむなしく消えていくものなの、どんな言葉でも・・・。そこでヨハネさんは一番長生きしたから、イエスの業(神様しかできない奇蹟)にふれた死からよみがえったラザロやその他の人々と暮らした可能性大なのだ。つまり実証した(目で見て、手で触れた)人だったからなのだ。これほど確かなことはあるまいということなのだな。このように、イエスを生きていてイエスをキリストと信じた人は死ぬことがない、また、眠りから覚めて天国でみんなと再会し永遠に生きるということを確信したのだな。どうです・・・。あなたも”すべてのしがらみから自由にされてアーメンの(真実の)広い世界に触れて見ませんか・・・

世界のベストセラーを読む(157回目)とにかく神様と永遠に生きたい

2016-10-24 22:43:04 | 日記
◆世界のベストセラー聖書を読む◆ 
ずっと書いてきて、やっぱどんどん難しいことを書いていってしまうではないかと憂慮し初心に戻ろうと思うのだ。僕の心から願っていることは、偉そうにというか、誰でもが とにかくずっと天地創造の(パラダイスにおられる)神様と永遠に生きたいなと思っていることなんだな。そんだけ~なのだ。
イエスという方がそう述べているからなんだ。私を信じなさいと言ったからなのだな。んで、だれもが自分には天国に入ることは、わからんというか、そもそもそれがどういうところかしっかり分からんのでモヤットして人生を送っていることなんだな。それなら、まだしも人生悩んだりするからな、とくに若者よ人生に悲観するな(もし、あなたがそうならばであるけど)、絶対に死んだりするなよ(もし、あなたがそうならばであるけれど)。とにかくイエスという人に早く会え!! それにしても、ストレートにいかない、いろいろしがらみの考えがいろいろ沸いてくるでしょう。それなのだな、実は神様が一番はじめに私のほかに神があってはならない、偶像を作ってはいけないよという戒めは、すべてのしがらみからの脱出だ、最後は古い自分からもね・・・。ずっと、ヨハネ伝を読んできた。今までの回を読んでちょうだいね。
◆イエスに会うとね、人が生きるのに永遠に続き流れている普遍的な音楽でいうと低音がずーと響いて流れているいうような考えがあって永遠の住まいにというか世界というか、その方向に向かう流れがあって・・・そういうどっしりした自分の中の流動的な何かに載るというイメージなのね。むろん、会話がないといけないけれど、それはイエスご自身となのか、聖書からの声なのか、あるいはいろいろ関連の諸々の書物であるのかいろいろだけれども、いつもとにかく私につながっていなさいと彼(イエス)は言っているからね。そこで、僕はイメージとしてこんなこと考えた。
◇僕らは、大きくとも小さくともとにかく氷山だ。それは沖に流されていく。流されるのは人生という大海だ。きれいな海原だけではなく、いろいろゴミも流れてくることも、泥水になることも、陽に照らされ、暴風雨にもさらされ、けれどその固まりの重心は小さくなっても変わらない。そして最後はすべてなくなる(死を迎える)。けれどその重心は地上における魂の重心でもあったから、信じていた天の世界に昇って帰って行くというイメージなのだ。そして、僕個人は、真の僕自身になって、すべてのしがらみを脱ぎ捨てて天のパラダイスに永遠に生きていくというイメージなのだ。それにしても、事実きょう、今生きている僕は偉く疲れてしんどい、頭もそんなに冴えていない。なんだこのていたらくな肉体は!と考える。最後に自分自身から脱出する(死ぬ時)としてもだ・・・。そこでだ、都合のいいようにというか、イエスが僕の不完全のために十字架にかかられたということなのだ、信ずることなのだと。それがパスポートなのね、天国に入るための。それが新しい約束、契約だから新約(聖書)なのだ。
◆ところで、その道の方のお話聞いていくとね、自分をゆだねなさいとか、空っぽにしなさいとかのメッセージに出会うことがあるでしょう! いつも思うけど、これ危ないと思うのね。そのあとの基点がしっかり話されず、きちんと了解され意識(つまりこれが 自分の言葉で読む)ということなのだが僕が言うのは。自分の言葉で読む これ、結構むずかしいと思うのね。氷山が溶けたら重心までどこか消滅するというのではね・・・。イエスに会うことは、真のPUREなしっかりした自分に出会うようにしてくださることなのよ。本当に! 自分のアイデンテティーがしっかりすることなのです。すっきりすることなのだ。だから、イエスは、「自分の足で立ちなさい」と言われる訳なのだ。イエスは問う「治りたいのか」と。僕らは「見たら分かるじゃないか」と居直っているのではないのかしら。その辺のメンタルな自問も緻密にイエスの声として、ささやかな声を聴いてみることが必要と思われれるのね。・・・

ヨハネによる福音書(敷衍訳)(第5章9~18節 律法の根底にあるもの)

2016-10-22 22:18:50 | 日記
◆ヨハネによる福音書◆律法の根底にあるもの(第5章9~18節)八木誠一訳(1970年)
9-10:しかしそれはちょうど安息日で、仕事は一切律法によって禁止されている日であった。それでユダヤ人達は病気がよくなった人に言った。
 「今日は安息日である。だから担架を担いで歩くのは違法である」。
11:その人は彼等に答えた。
 「私の病気を治してくれた方が、『担架を担いで歩け』と命じたのです」。
12:ユダヤ人達は尋ねた。「お前に『かついで歩け』と言った人は誰だ」。
13:ところが病気をなおしてもらった人は、それが誰だか知らなかった。イエスは、その場の群衆を避けて、立ち去ったからである。
14:そのあとイエスは神殿でその人をみつけて言った。
 「どうだ。なおったではないか。もう罪を犯してはならない。もっと悪いことになるといけないから」。
15-16:その人は行ってユダヤ人達に「私を癒したのはイエスです」と告げた。それでユダヤ人達は、安息日にそういうことをしたかどで、イエスを迫害しはじめた。
17:イエスは彼等に答えて言った。
 「私の父は今に至るまでずっと働き続けていらっしゃる。だから私も働くのだ」。 
 イエスは神の業はやめた(創世記2・2以下、出エジプト記 20:11 31:17)が、世をたもち、また審く業は続けていることを指して言ったのである。そしてキリストの啓示の業は同時に世に対する審きにほかならない。ゆえにキリストの働きは安息日だからといって止むことはなく、人も安息日だからといってその働きを受けないということはない。
18:しかしユダヤ人には、イエスの言葉は冒涜に聞こえる。イエスは安息日を破ったばかりではなく、その理由として、自分を神と等しくするからである。だからユダヤ人はますますイエスを殺そうと思った。しかし、イエスが神と等しいということは、ユダヤ人が誤解するように、神を無視して自分が神にとって代わるということではなく、全く反対に、彼が神に服従している限り、彼の業は神の業であるということになるのである。しかし神への服従というのは、律法の文字面だけを知って神のリアリティそのものを知らない彼等にとっては、理解できることではない。だから律法の根底にあるものに即して行為したイエスに対するユダヤ人の憤激は、そのまま彼等の不服従を示すことになるのである。

 (<律法の根底にあるもの>の章) ・・・終わり  






















ヨハネによる福音書(敷衍訳)(第5章1~9節 ベテスダ池での癒し 第6章60~71節は後に)

2016-10-20 20:26:36 | 日記
◆ヨハネによる福音書◆ベテスダ池での癒し(第5章1~9節)八木誠一訳(1970年)
5-1:そののち、ユダヤ人の過越の祭があり、イエスはエルサレムにのぼった。さて、エルサレムの北側の羊の門の近くに、ヘブライ人の言葉でベテスダと呼ばれる池があった。そこには五つの回廊があった。回廊には大勢の病人-盲人や手足の利かない人や痩せ衰えた人-が横たわっていた。
6:その中に38年間も患っている人がいた。イエスはその人が横になっているのを見て病気が長いのを知り、彼に言った。
 「丈夫になりたいか」。
7:病人は答えた。
 「主よ、水が動いたときに私を池に入れてくれる人がいないのです。私が行く前に他の人が入ってしまうのです」。
 その池は間歇泉だったのである。(もっとも間歇泉として知られていたのは、実はエルサレム東南のシロアムの池で、ここの記事には混同があるのかも知れない。)そして水が動くのは天使が下って来て水をかき回すのであって、そのとき真っ先に水に入った者はどんな病気でも治ると言われていた。
8:しかし、イエスは病人に言った。
 「起き上がり、担架をかついで歩け」。
9:するとたちどころにその人の病はなおり、担架を担いで歩き始めた。

 (<ベテスダ池での癒し>の章 終わり)・・・