◆世界のベストセラー聖書を読む◆ 今回、少し理屈っぽい・・・のでごめんちゃいな
”真理はあなた方を自由にする”・・・いいぞ、いいぞ! でもちょっと待って、その前の言葉気になるな。”自分を信じたユダヤ人達に言った”とあるでしょ。こういう文言があるところが、聖書は一筋縄でいかんのよ。第一、その道の方も、いい言葉は言うけどこういう気に障る言葉の解説は、まず説教では長々としないものなのね。決して悪い意味ではなくてですね。イエスが、僕ら日本人に言うところの(一応)、「そうだいい言葉だ」というところの解釈にも、そのまんまではなく、僕が今まで書いてきたところの先理解としての知識が必要というか、深い意味を知ればますますその言葉も絵空事でなく事実の歴史としてあったほうが目から鱗(これパウロの言葉なのよ)なのだということが分かってくるのね。だから、この言葉だけではなくてね、聖書を読むと、僕なんぞは何で何でと、つぎつぎ思うので、少し畏れっぽくもっと知ってみたいと思うのね。一番の理由はですね、表題にあるとおり、きっともっとわくわくするすごい感動的なドラマが次から次と切れない泉のようにその世界では永遠に体感しつつ過ごせるだろうなと思ってしまっている訳なのだね。僕の今すんでいる地方でも、あの時代多くの人たちが殉教した歴史があるの。殺されるのに喜んで死んでいったんだって(ちょっと誇張があるだろうけど)・・・。僕はその秘密とやらを本当に知りたいと願ってるんだ。そんでは・・・
◆何でヨハネ伝からなの? それはね、僕、思うのだけれど。ちょっとでいいから、そこらの教会の少し難しそうなことを書いてあるチラシ、(おそらく部外秘 ←←こういうのは教会にはないけど)を見るとね。「信仰とはなんぞや・・・」「我らは何を信じるか」などという言葉が書いてあったりするのね。もっとも難しい神学書などには(書店にもこのようなドメスチックなのはない)むろんないけど。素直にイエスを信じたらいいのではないの?と僕なぞは思ってしまうのだけれどね・・・。(僕もそうなったから感謝ではあるがキリスト者は多弁ではあるな。)
◆それはね、僕が思うに、今を生きるイエス、将来へ歩むイエスの言葉を第一に考えないで、過去のイエス(とくに、これが僕がいう”しがらみ”なのだが)たとえば、マタイ伝なんかの書いた著者(or集団)の時代背景、個人の(集団の)状況のしがらみを引きずって読んでしまうからなのではないかと思ってしまうのね。確かにイエスの言葉は、普遍性がありそうだ、しかし、著者によって、同じような内容でも書き表され方が異なっているではないか、すこし受けとりニュアンスが違って読めたりする。ここには、今の僕らが読み切れない時代的、著者の置かれた状況とは違う(当然だと思うが)ことから来る齟齬があるからだと思うのよ。(実は、これね胸張って、それはそうですと言うその道の方があまりというか、そこまで言い切ってしまう方がほとんど不思議なことにいないのね。みなさんすべて、内容ともかくすべてがありがたい言葉だと思われているからそこまで言わないのね、きっと。)
◆これ実は大きな障害になっていると思うのだな。素直にイエスを信じよとする人には、それらの著者のしがらみは障害、むしろ恐れを生じさせていると思うのね。自分は罪人だとさらに追い打ちかけると、わからないこと(つまり先理解の知識がないから)いっそう恐縮する。・・・んではもともと(僕が言うところの)自分は、どこにいるのよ、その自分の言葉の基は・・・と考えてしまうのだ。特にこの国には「無私の精神」というのはあるからね。こいう人はたぶんに内面的には多弁なのだね。強い自分があるのだな。(そういえば昔、小林秀雄という一世風靡した評論家がこんな題名の随筆がありましたね。)かなり遅かりしだが、これからは自分をしっかり自分の言葉で言えることが重要だ、むろんイエスに向かっても・・・。御心のままに・・・という前にイエスが、「自分の足で立ちなさい」と言われているのだ。そこがともあれ重要なのだ。前の回にも書いたけれど、僕らが氷山で荒海という人生を必死こいて生き抜いているその重心に対してイエスは「私につながっていなさい」と今も語っているんだな。その重心から聞こえてくる、反応しようとする言葉が僕が言うところの”自分の言葉で読む”ということなのである。・・・今回は力んでしまった。・・・
”真理はあなた方を自由にする”・・・いいぞ、いいぞ! でもちょっと待って、その前の言葉気になるな。”自分を信じたユダヤ人達に言った”とあるでしょ。こういう文言があるところが、聖書は一筋縄でいかんのよ。第一、その道の方も、いい言葉は言うけどこういう気に障る言葉の解説は、まず説教では長々としないものなのね。決して悪い意味ではなくてですね。イエスが、僕ら日本人に言うところの(一応)、「そうだいい言葉だ」というところの解釈にも、そのまんまではなく、僕が今まで書いてきたところの先理解としての知識が必要というか、深い意味を知ればますますその言葉も絵空事でなく事実の歴史としてあったほうが目から鱗(これパウロの言葉なのよ)なのだということが分かってくるのね。だから、この言葉だけではなくてね、聖書を読むと、僕なんぞは何で何でと、つぎつぎ思うので、少し畏れっぽくもっと知ってみたいと思うのね。一番の理由はですね、表題にあるとおり、きっともっとわくわくするすごい感動的なドラマが次から次と切れない泉のようにその世界では永遠に体感しつつ過ごせるだろうなと思ってしまっている訳なのだね。僕の今すんでいる地方でも、あの時代多くの人たちが殉教した歴史があるの。殺されるのに喜んで死んでいったんだって(ちょっと誇張があるだろうけど)・・・。僕はその秘密とやらを本当に知りたいと願ってるんだ。そんでは・・・
◆何でヨハネ伝からなの? それはね、僕、思うのだけれど。ちょっとでいいから、そこらの教会の少し難しそうなことを書いてあるチラシ、(おそらく部外秘 ←←こういうのは教会にはないけど)を見るとね。「信仰とはなんぞや・・・」「我らは何を信じるか」などという言葉が書いてあったりするのね。もっとも難しい神学書などには(書店にもこのようなドメスチックなのはない)むろんないけど。素直にイエスを信じたらいいのではないの?と僕なぞは思ってしまうのだけれどね・・・。(僕もそうなったから感謝ではあるがキリスト者は多弁ではあるな。)
◆それはね、僕が思うに、今を生きるイエス、将来へ歩むイエスの言葉を第一に考えないで、過去のイエス(とくに、これが僕がいう”しがらみ”なのだが)たとえば、マタイ伝なんかの書いた著者(or集団)の時代背景、個人の(集団の)状況のしがらみを引きずって読んでしまうからなのではないかと思ってしまうのね。確かにイエスの言葉は、普遍性がありそうだ、しかし、著者によって、同じような内容でも書き表され方が異なっているではないか、すこし受けとりニュアンスが違って読めたりする。ここには、今の僕らが読み切れない時代的、著者の置かれた状況とは違う(当然だと思うが)ことから来る齟齬があるからだと思うのよ。(実は、これね胸張って、それはそうですと言うその道の方があまりというか、そこまで言い切ってしまう方がほとんど不思議なことにいないのね。みなさんすべて、内容ともかくすべてがありがたい言葉だと思われているからそこまで言わないのね、きっと。)
◆これ実は大きな障害になっていると思うのだな。素直にイエスを信じよとする人には、それらの著者のしがらみは障害、むしろ恐れを生じさせていると思うのね。自分は罪人だとさらに追い打ちかけると、わからないこと(つまり先理解の知識がないから)いっそう恐縮する。・・・んではもともと(僕が言うところの)自分は、どこにいるのよ、その自分の言葉の基は・・・と考えてしまうのだ。特にこの国には「無私の精神」というのはあるからね。こいう人はたぶんに内面的には多弁なのだね。強い自分があるのだな。(そういえば昔、小林秀雄という一世風靡した評論家がこんな題名の随筆がありましたね。)かなり遅かりしだが、これからは自分をしっかり自分の言葉で言えることが重要だ、むろんイエスに向かっても・・・。御心のままに・・・という前にイエスが、「自分の足で立ちなさい」と言われているのだ。そこがともあれ重要なのだ。前の回にも書いたけれど、僕らが氷山で荒海という人生を必死こいて生き抜いているその重心に対してイエスは「私につながっていなさい」と今も語っているんだな。その重心から聞こえてくる、反応しようとする言葉が僕が言うところの”自分の言葉で読む”ということなのである。・・・今回は力んでしまった。・・・