marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

ヨハネによる福音書(敷衍訳)(第6章36~51節、6章59節 生命のパンⅡ)

2016-10-19 21:06:55 | 日記
◆ヨハネによる福音書◆生命のパンⅡ(第6章36節~51節、6章59節)八木誠一訳(1970年)
・・・前回より続く
36-37:しかし私がかつて『君達は私の業を見ても解さず、私をも信じない』と言ったとおりなのだ。実は父が私に下さる者が私のところに来るのである。私を信ずるのは人の勝手ですることではない。とはいえ、もちろん信仰は強制でもない。それは人の自由な判断である。
38:すなわち、自由な決断自体が神の賜物なのである。だから自由な決断によって私のもとに来る者を私は決して拒否しはしない。このような決断によって私のもとに来る者を私が拒否するいわれはない。私は、私の勝手を行うためではなく、私を使わした方の御意を遂行するために天から下ってきたのである。
39:私を使わされた方の御意とは、父が私に下さったもののうち、誰をも私が滅びに到らせないこと、これなのである。私の父は、子が何であるかを見て信ずる者が永遠の生命を持つことを欲したもうのである」。
41:するとユダヤ人は、イエスが「私こそが天から下ってきたパンである」と言ったので、イエスのことで文句を言い始めた。
42:「なんだ。この人はヨセフの子イエスではないか。私達はこの人がどんな両親から生まれたかちゃんと知っているぞ。それなのにこの人はどうして『私は天から下ってきた』などと言うのだ」。
 ユダヤ人は、語っているのがイエスとして受肉したロゴスであることをわきまえない。ユダヤ人はロゴスの存在と働きとに全く盲目なのである。
43:イエスは答えて彼等に言った。
 「ぶつぶつ言うのはやめなさい。もっとも、君達が文句をいうのももっともではある。この世は真理の存在と働きを知らないのだから仕方がない。私を使わした父が引き寄せるのでなければ、誰も自分から私のもとに来て、私を父をあらわす者と認めることはないのだ。それは預言者にも、『終末の時には誰でもが神から教えを受ける』(イザヤ書54:13)と記してあるとおりである。父から聞きまた学ぶ者が私のところに来るのである。とは言っても、誰かが私を素通りして、私ぬきに神を見た、などというのではない。神のかたわらにいる私だけが神を見、それを世にあらわすのである。私を信ずる信仰自体が神から贈られたものであり、この決断によって私を信ずる者は、私を通して神を見、こうして信仰自体が神から与えられたことを確認するのである。
47:私は君達に真理を告げるが、以上のようなわけで、私を信ずる者が永遠の生命を受けるのである。
48-50:私が生命のパンなのである。君達の先祖は荒野でマナを食べたが結局みな死んでしまった。しかし天から下った真のパンとは、これを食べた者は決して死に到ることはない、というものなのだ。私が天から下った、人を生かすパンなのだ。このパンを味わう者、すなわち自分の配慮でもって自分を生かそうとするのではなく、私を信じて私に生かされる者が永遠に生きるのである」。
59:イエスは以上のことをカペナウムの会堂で教えた際に語ったのであった。

 (<生命のパン>の章 終わり) ・・・ 

ヨハネによる福音書(敷衍訳)(第6章22-51節、6章59節 生命のパンⅠ)

2016-10-18 20:38:02 | 日記
◆ヨハネによる福音書◆生命のパンⅠ(第6章22節~51節、6章59節)八木誠一訳(1970年)
22:翌日のこと、対岸に残っていた群衆は前日の夕方岸辺には小舟が一艘しかなかったことを知っていた。
23:さらにまた、イエスは弟子達と一緒に舟に乗らず、弟子達だけが漕ぎ出したのも知っていた。それなのに、イエスはそのあたりに見あたらなかった。ちょうどそこへ、ティベリアから数艘の小舟が、イエスが感謝の祈り 24:を捧げて奇蹟を行った場所の近くへきたので、イエスも弟子達のいないのを確かめた群衆はその小舟に乗って、イエスを探しながらカペナウムまで漕いで来た。そして湖のこの側でイエスを見つけると驚いて彼に尋ねた。
 「先生、いつここに来られたのです」。
26:イエスはその問いには答えず、むしろ群衆がイエスを尋ね歩く動機を問題にして言った。
 「私は君たちに真実を告げる。君達は私が行った徴の真の意味を理解したから私を尋ね歩いているのではない。私が与えたパンを食べて満腹したからにすぎないのだ。
27:かりそめに生命を与えるにすぎない食物のためではなく、永遠の生命にいたらせる食物を得ようと努めなさい。これは『人の子』私が君達に与える食物である。父なる神が『人の子』にこの権を委任したのだ」。
28:人々はそこで彼に言った。
 「それでは神の御心にかなう業を行うためにはわたし達は何をしたらよいのでしょう」。
29:イエスは答えて彼等に言った。
 「神の御心にかなう業とはすなわち神が世につかわされた方を信ずること、このことである」。
30:そこで人々は彼に言った。
 「あなたは『私を信じなさい』とおっしゃるが、それではどんな奇蹟を見せて信じさせようとなさるのですか、あなたはどんな働きをなさるのですか。
31:モーセの場合はこうでした。モーセが天からマナを降らせたので、私達の先祖は荒野でマナを食べました。『神は天からのパンを彼等に与えて食べさせた』(詩編78:24、出エジプト記16:4、16:13-15)と書いてある通りです。あなたもモーセ同様の奇蹟を行うとでもいうのですか」。
32:そこでイエスは彼等に答えた。
 「私は君達に真実を告げる。君達に天からパンを与えるのはモーセではない。私の父が天から君達に真に生命を与えるパンを下さるのだ。神が与えるパンとは、天から下って世に生命を与える者のことである」。
34:そこで人々は彼に言った。
 「主よ、どうか私達にいつもそのパンを下さい」。
35:イエスは彼等に言った。
 「私が生命のパンなのである。私のもとに来る者は決して飢えることがなく、私を信ずる者は決して渇くことがない

 ・・・つづく 

世界のベストセラーを読む(156回目)神学的なことに入りつつ・・・Ⅲ

2016-10-17 20:38:38 | 日記
◆世界のベストセラー聖書を読む◆
アメリカ大統領候補、トランプとクリントンのやじ合戦は、数年前に言われた「アメリカ・マインドの終焉」が本当に露骨になってきたものだと言えますね。
◆アメリカの神学者ラインホールド・ニーバーの「アメリカ史のアイロニー」(大木英夫、深井智明訳 2002年6月29日初版1印)を再読。
先回155回目に書いた”善を維持するために悪をも用いる”という皮肉。必然的にそうなってしまわざるを得ない現在、悪はひそかに隠れていたが、表にとうとう行き場がなくなって出てきたという気配を思ってしまう。この書物は決して古くなく、キリスト教ピューリタンが作った国、アメリカを読めば今後のいくすえが推察できるというものだ。96回目に書いた「冷静さを求める祈り」はこのニバーの祈りであり、それを紹介したのがニーバーのもとで博士論文を書いた最後の学生、神学者大木英夫さんである(ご健在)。生きておられるイエスの父なる神、信ずる者への啓示、霊的日々の促し。自分の言葉で会話すること。

◆「アメリカ史のアイロニー」の一部を紹介します。

 いかなる価値あることも、人生の時間の中でそれを完成することはできない。それゆえひとは”希望”によって救われねばならない。いかにまことに美しく善きことであっても、目に見える歴史の現実の中でそれを明白に実現することはできない。それゆえひとは”信仰”によって救われねばならない。いかに有徳な者であっても、ひとのなすことは、ただひとりだけでは達成することはできない。それゆえにひとは”愛”によって救われるのである。たとえわれわれから見て有徳な行為であると思えるものであっても、われわれの友人あるいは敵から見ればそれは有徳だとは感じられないものなのである。それ故にわれわれは”赦し”という愛の究極的な形によって救われねばならないのである。(p102)
                                                   ・・・

ヨハネによる福音書(敷衍訳)(第6章14節-21節 湖を渡る)

2016-10-17 20:28:00 | 日記
◆ヨハネによる福音書◆湖を渡る(第6章14節~21節)八木誠一訳(1970年)
14:そこで人々はイエスが行った奇蹟を見て、「この人こそほんとうに世の終わり現れる預言者だ」と言った。イエスは人々が来て、彼をつかまえ、王にしようとしているのを知り、ひとりだけで再び山に退いた。
16-17:夕方になると、イエスの弟子達は湖畔に下って、小舟に乗り、湖の対岸のカペナウムに向かった。あたりがすっかり暗くなってもイエスはまだ彼等のところに来なかった。
18-19:強い風が吹いて湖は荒れていた。数キロ舟を漕ぎだして湖の中ほどに来たとき、弟子達はイエスが湖の上を歩いて小舟の傍らに近づいたのを見て、恐れた。
20:イエスは彼等に言った。
 「私だ。怖がることはない」。
21:それで彼等はイエスを小舟に乗せようとしたが、その間もなく小舟は目的地に着いてしまった。

ヨハネによる福音書(敷衍訳)(第6章1節-13節 供食の徴)5章は後に

2016-10-16 22:31:26 | 日記
◆ヨハネによる福音書◆供食の徴(第6章1節~13節)八木誠一訳(1970年)
(※)第4章からいきなり第6章に入りましたが、学問的調査により、時系列的には後に挿入されるのが正しいだろうということでそのように読んで、イエスと弟子たちはそのように行動したであろうということを踏まえて、その時間どおりに節を並び替えられた内容の第5章が後になって出てきます。ヨハネさんを今まで読んできて、どうもヨハネさんのいた共同体の人々はより詳しく、話を編集したりしたのであろうということが推察できましたが、それを時間的に解体すれば、時系列的にこれから述べるような行動が正しいだろうということになるだろうということです。以降、聖書の章が飛んでいたり、削除されたりしているのはそういう理由となります。では、

6/1-2:こののちイエスはティベリア湖とも呼ばれるガリラヤの湖の向こう岸へ渡った。大勢の群衆が岸をあるいて彼の後を追った。彼等はイエスが病人に行った数々の奇跡を見ていたからである。
3-4-5:イエスは山にのぼり、弟子達と一緒に座った。ユダヤ人の過越の祭が近づいていた。イエスは眼を上げて大勢の群衆がイエスのところに集まって来るのを見、ピリポに言った。
 「どこからかパンを買って来てこの人達に食べさせたらよいだろう」。
6:イエスはピリポを試すために言ったのであって、自分ではこれから何が起こるか知っていたのである。
6-7:ピリポは彼に答えて言った。
 「二百デナリ(十数万円)のパンでも、配ったら少しずつにもならないでしょう」。
8:するとイエスの弟子の一人、シモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った。
9:「この青年が大麦のパン五個と魚二匹を持っていますが、これだけ人がいたのではどうしようもありません」。
10:イエスは言った。
 「この人達を座らせなさい」。
その場所には草が茂っていた。それで男だけでも五千ほどの人が座った。
11:イエスは青年のパンをとり、家長が食前の前にするように、感謝の祈りをささげ、座っている人々に分けた。魚も同様にして欲しいだけ分け与えた。
12:人々が満腹したとき、イエスは弟子達に言った。
 「パンの残りを集めて無駄にならないようにしなさい」。
13:彼等が集めてみると、大麦のパン五個を大勢の人が食べた残りが十二のかごにいっぱいになった。

 (<供食の徴>の章 終わり) ・・・