marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(155回目)神学的なことに入りつつ・・・Ⅱ

2016-10-15 08:31:20 | 日記
◆世界のベストセラー聖書を読む◆ 
 聖書を読むと進めてきて、ヨハネ伝を読んできたけれど、だんだん脱線してきたなぁ。一通り、終わったみたいで・・・、僕にとって聖書を読むことは、むろん、何度も日々に関連書物の読むだろけれど。ヨハネ伝は福音書の中で最後に書かれ、そこから僕は新たにスタートしないといけないと考えているのだね。それから時代はくだり西欧の歴史はキリスト教をべースに歩んできたからね。すべての学問は、頂点に神様を知り、学ぶ神学というのがその位置を占めていましたからね。根っこは一つで、そこからすべてが派生してきたという考えが頑としてありましたから。よって以降の人が介在する物にはすべて神の栄光のため、神を知るため、神の似姿に創造された人間を知るため、神の天になるごとく地にもその業をなすために人がその考え得る仕組みを作る言葉を得られつつあること。しかも、そのために現在は善を維持するため悪をも用いてかもしれないという不条理のかなり危うい綱渡り状態であること、それは言われてみれば神は見ておられるぞという地上から天への帰還の常に備えをなせという緊張関係がますます高まりつつあると言うことだ。
◆話は飛ぶけど、昔、政治学者の丸山眞男さんが西欧はささら文化、日本はたこつぼ文化だなどと言われていたことがありましたね。”ささら”とは、お茶をたてる時、抹茶をちゃかちゃかやる小さな竹でできた刷毛のようなもの、それは手元が一つで先が細かく割れている、つまりそのまとめている部分が神学部、日本は隣は何をする人ぞの”たこつぼ”であるというのだな。西欧は一般教養の神学があったから、目線で言えば、そらを飛ぶ鳥さんに時折なって、自分の位置、世界の位置に置くことができるようになっていることだ。そして日々には蟻  さんの目線でしっかり仕事をなして行くといことだ。だから、一応先を見通すのでグローバル・スタンダードなんぞというものも考えられる訳です。日本は”たこつぼ”、自己中的に特化できて優れているが、世界からみれば自分の位置が解らないということが言われて来たのです。今はそのようなことはなくなりつつあるけれど、卑近な例、東京五輪や豊洲市場のことを運ぶ前のリスク管理の考えが全然なっていない。臭い物には蓋をする、のど元すぎれば熱さを忘れる・・・なのね。”目標は生命第一”とか何とか言えないのね。こういうところははっきり言って過去に何をかを学ぶアンカー(礎)がないからだと思うのだ・・・残念。新東京都知事は解っているから時折、横文字使うのね。西欧に習って大学をつくったときに日本では神学部にあたるところに富国産業のため工学部をつくったという話です。
◆では、聖書の民は今どうなのか? ユダヤ人は、結婚式のときグラスや皿を割るのね。今もそう。。。時折、グラスを誤って割っても記憶を呼びさまされたことに感謝するのね。その”覆水盆に帰らず”は喜びととるのだ。それはどこから来ていると思います?(日本聖書協会 新共同訳「聖書」から) 
「24:あなたたちはこのことを、あなたと子孫のための定めとして、永遠に守らねばならない。25:また、主が約束されたとおりあなたたちに与えられる土地に入ったとき、この儀式を守らねばならない。26:また、あなたたちの子供が『この儀式にはどういう意味があるのですか』と尋ねるときは、27:こう答えなさい。『これが主の過越の犠牲である。主がエジプト人を撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越し、我々の家を救われたのであると』と。」(出エジプト記第12章24~27節)
 神がモーセを通して語られたことを今もユダヤ人は決して忘れていないのです。・・・


ヨハネによる福音書(敷衍訳)(第4章43節-54節 役人の息子の癒し)

2016-10-14 07:49:36 | 日記
◆ヨハネによる福音書◆役人の息子の癒し(第4章43節~54節)八木誠一訳(1970年)
43-44:二日後イエスはその地をたってガリラヤに行った。イエス自身が、預言者は自分の故郷では認められない、と証言していた。実際、イエスがガリラヤに入ったとき、ガリラヤ人はイエスが祭りのおりエルサレムで行った奇蹟をみな見ていたので、イエスを歓迎した。ガリラヤ人も過越の祭りの時、エルサレムにいたのである。ガリラヤ人がイエスを歓迎したのはこのように奇蹟信仰のゆえである。これはまだ真の信仰ではない。
46:それでイエスはガリラヤのカナへ行った。これはイエスが水を酒に変えたところである。
さて、ガリラヤの分封守であるヘロデ・アンテパスの役人がいて、その息子がガリラヤ湖畔のカペナウムで重い病気にかかっていた。役人は、イエスがユダヤからガリラヤに来たと聞き、彼のもとに来て、「どうかカペナウムにまで下って来て、私の息子を癒してください」と願った。彼の子は死にそうだったからである。
48:そこでイエスは彼に言った。
 「君達は奇蹟や不思議を見なければ決して信じないのだ」。
49:すると役人はイエスに言った。
 「主よ、そういうわけではありません。どうか私の子が死なないうちにいらしてください」。
50:イエスは彼に言った。
 「見ないでも信ずると言うのか。それではひとりで帰りなさい。君の子はなおる」。その人はイエスの言葉を信じて帰った。
51:彼が山を下っているときに僕達が彼を迎えに来たのに出会った。僕達は言った。「御子息は治りました」。
52-53:それで快方に向かった時刻を尋ねてみると、前日の午後一時ころ熱がとれたということであった。それは、ちょうどイエスが役人に「君の子は治る」と言った時刻であった。こうして役人も彼の一家もみな信じた。
54:これはイエスが行った第二の徴であって、イエスはこれをユダヤからガリラヤへ来ておこなったのである。

 (<役人の息子の癒し>の章 おわり>・・・ 

世界のベストセラーを読む(154回目)神学的なことに入りつつ・・・

2016-10-14 00:00:27 | 日記
◆世界のベストセラー聖書を読む◆ 
今回もpure(純粋に)に求め続けようとする初心者の方は読まないでください。
インターネットで、今はキリスト教会のメッセージを聞いたり、内容はともかくも文字で読もうと思えば配信されている教会のメッセージも読むことができる。お金があれば、関連書物も特にキリスト教の専門書は高価なのだが腐るほどあるのだから買って勉強することもできるのだが、真にイエスのことを一般の人々に伝え、その人が自分の言葉で読めるようになり、自分の言葉でイエスと語られるようになることを目指そうとされるのであれば、知識を蓄え、その言葉の関連付けで悦に入る快楽よりも(そのような知識にはどうも胡散臭いのもあるから)よほど真実はなんなのか、聖書の時代状況はどのようであり、語る者(記者)の背景やその者の状況を知ること、つまりは自分自身という人間はどうかと類推して、話すと言うことは聞く相手もいる訳であり、聞く者が理解できるから解るように語られるのだという常識に立って考えることは重要なことと思われる。第一に我々はその時代にはいなかったのだから。そして2016年の時代に、時代背景、自分の個人的な背景をも無意識の上に影響されつつあるのであるという、そういう人間という生き物であることを十分理解しながら、今から2000年以上も前の話を読み、聞くのであるということを当然のこととして踏まえおかなくてはならないのではないかと僕は思う。
◆僕は何を言いたいのか。ここからびっくりのことを書くが「聖書は誤りなき神の言葉である」ということを胸を張って言わない方がいいと思うのだ。(むろん、間違っているということも胸を張って言わない)。こうことからスタートして、曲がりなりにも言葉で頑張って話すから、聞いていて本当にそうなの?と疑問を持っても尊い働きであるからということで遠慮してしまうというものだ。しかし、これだけ世俗化してしまったのでは、隠すところは無くなってきたな。むろん、神学校出ただけで、さらに深い勉強しなければ知らない人は知らないのでそれはそれでいいのであるが、どうもその胡散臭さは、時代におかれた人間は、どういう者か、どういう考えをするものか、風習、因習、伝統などを背景に当たりまえのように影響を受けて動いているのものであるということに無知であることから来ていると思うのだ。聖書を2016年の僕らが読み取る場合、それをすべてそのとおり(つまり2016年の考えでもって)解釈し、理解しようということ自体、無理なところがあるし、どのように解釈したら良いのか更に学んで見たく思うのが誰しもではないかと思う。ところが、そのことも気にかけずに、ある一つのしがらみに守られてするすると古びた知識を関連付けて、それはそれで知的快楽ではあるのだが、なぜか偉く深みがないというか、ああ、そこをお話の落としどころとされるのですか(心情的な面はどうも普遍のようで)・・・と言うのでははっきりって情けない、その道の方・・・。
◇その道の方にお尋ねください。きちんと答えられた方はよく読まれている方です。歴代誌下21章2節に間違いあります。なぜなんですか?と(答え→原文通りに訳されている聖書であれば、原典の記者が間違えて書いているので、そのまま掲載されていますというのが答え。もし、間違えていないと思われたら編集の時に修正したものでしょう日本語の翻訳時に。)その他、マタイ福音書18章11節はどうしてないのですか(これは解説書がありますから答えてくれます)・・・etc。
◆宗教改革から来年は500年、万人祭司とは、一人ひとりが、直接、イエスの言葉を自分の言葉で立ち、上を見上げて戦って残りの人生を全うすることを望むことです。それは、知識と自分の言葉を与えられたのは何にもまして感謝にたえないことなのではありますが、それから更にまだ先があって、再び、ひとりひとりの内面の霊的な準備が”常に喜べ、絶えず祈れ、すべてのことに感謝せよ”と整えられ、世俗的な言葉を使わせてもらうなら魂が”潔め”に向かい、しかも人類の考えの基が”イエスの言”をアンカーに持ちつつ、”天になるごとく地にもなさせたまえ”と進化して行くべくそれに関与しつつ、人手によらない神の基のシステム化、世界化が図られていかねばならにように思われるのです。・・・  

ヨハネによる福音書(敷衍訳)(第4章35節-42節 使徒と信徒)

2016-10-13 20:03:10 | 日記
◆ヨハネによる福音書◆使徒と信徒(第4章35節~42節)八木誠一訳(1970年)
35:イエスは続ける。
 「この世では種まきから収穫まで数ヶ月の期間があり、しかもしばしば播く人と刈る人は別人なのである。しかし私は君達に告げるが、目をあげて見てご覧、向こうからやって来るスカルの人々の群れは黄ばんで借り入れを待っているではないか。今はもう、刈る人には労働の報いがあり、彼は永遠の生命にいたる実を集めるのである。だから播く人と刈る人、すなわち宣教の言葉を基礎づける者とこの言葉を告知する者とは、同時に喜ぶのである。
37:しかもこの場合、『播く人と刈る人は別人だ』という言葉も普通理解されるのとは別の意味で本当なのである。私は、君達が自分の労働38:の産物ではないものを刈り入れるために、君達をつかわす。労したのは別の人々である。そして宣教の言葉を告知する者は、先立つ人々の労苦の実を刈り入れるのだ」。
39: さてその町のサマリア人が沢山、「あの人は私のしたことをみな言い当てた」という女の言葉ゆえにキリストを信じた。そこでサマリア人はイエスのもとに来て、彼らのところにとどまるよう頼んだので、彼はサマリア人のところに二日間とどまった。
4-41.42:そしてもっと沢山の人々がイエスの言葉を直接に聞いて彼を信じた。この人々は女に言った。
 「私達はもうあなたの言葉ゆえに信じているのではない。自分で聞いて、そしてこの方こそほんとうに世の救い主だということを確認したのだ」。
 キリストを告知する人は必要である。しかしその人の言葉を聞いた信徒は、自分でキリストに接することができる。そして信徒はもはや使徒の言葉によってではなく自分でキリストこそ救い主であることを確認しなくてはならい。・・・

 (<使徒と信徒>の章・・・終わり)  ・・・                                                                                                                                                                                                                                                                                           

ヨハネによる福音書(敷衍訳)(第4章31節-34節 人の存在を支えるもの)

2016-10-12 22:07:38 | 日記
◆ヨハネによる福音書◆人の存在を支えるもの(第4章31節~34節)八木誠一訳(1970年)
31-32:そうこうしている間に弟子達は、「先生、おあがり下さい」と食物をすすめた。イエスは言った。
 「私には君たちの知らない食物がある」。
33-34:そこ弟子達は互いに論じて「誰かが食物を差し上げたわけでもないのに」と言いあっていると、
イエスは彼らに言った。
 「 私の食物とは、私を世につかわした方の御心を行ない、命ぜられた業を遂行することである」。
神の御意を行うというイエスの在り方、そうした彼の行為が彼の存在を構成するのである。そして、神とキリストとの関係は、キリス ト と 信徒の関係に類比的なのであるから、この言葉は信徒の存在を支える者をも語っている。まず、存在があって,そこから行為が発するのではなく、真理に規定された真理に即するという在り方(行為)が人の存在を構成し、彼の生命を支えるのである。

 (<「人生の存在を支えるもの> の章おわり > ・・・