2017年10月21日に発行された日本経済新聞紙の朝刊の文化欄に掲載された「私の履歴書 20 斉藤惇 『カネボウ』」編をやや複雑な思いで拝読しました。
この10月の「私の履歴書」の筆者になった斉藤惇(あつし)さんは、日本取引所グループの前最高経営責任者をお務めになった人物です。
日本経済のバブル崩壊によって、日本の大手企業の数社は経営が危うくなり、それに対処する目的で2003年4月に産業再生機構が発足します。その社長に斉藤惇さんは就任します。
この『カネボウ』編は、産業再生機構にとっての最初の大型案件になったカネボウの話です。日本経済新聞紙の朝刊のサブ見出しは「日本的経営 目の当たり」です。
日本経済新聞紙のWeb版である日本経済新聞 電子版の見出しは「斉藤惇 20 カネボウ」と、単純化されたものです。

当時のカネボウは化粧品部門を花王と統合することで、当面の苦境を乗り切ろうとしていたそうです。その程度の危機感だったようです。
早速、産業再生機構の社長として、当時のカネボウ社長だった帆足隆氏に面会すると、「産業再生機構に支援されると、経営責任を問われるか」と聞いてきます。後になって考えると、粉飾決算が明るみに出た時のことが念頭にあった質問だったようだったと、振り返っています。
1897年に創業し、戦後の事業の多角化で成長を遂げたカネボウは日本的な経営を体現していました。独自の労使協調路線はかっては強みでしたが、次第に「意思決定の遅さという弊害を伴った」と解説します。
斉藤惇さんは「先輩のやったことを否定できないので、古い事業が積み重なり、雇用調整につながる事業の撤退や縮小が難しかった」と分析しています。
各地のカネボウの拠点に足を運ぶと、地元選出議員のつながりから、事業の撤退や縮小が難しく、機動的な事業の再構築ができない状況でした。
産業再生機構の支援を受けたのを期に、並行して過去の決算を再調査したところ、旧経営陣による2150億円もの粉飾が判明します。
その結果、東京証券取引所はカネボウの上場廃止処分を下します。この時は、斉藤惇さんは「東証のこの措置には釈然としないものが残った」と感じたそうです。
実は、産業再生機構がカネボウの支援を決めた時に、カネボウの決算が怪しいという噂があり、カネボウ担当のアナリストの紹介を頼むと「カネボウは粉飾の可能性が高いので、まともに分析する・・」との声が返ってきます。
この点では、こうした情報が流れているのであれば、市場管理者としての東京証券取引所の役割とは何かという疑問を持ったそうです。東京証券取引所がカネボウを早く指導していれば・・の思いだったようです。
日本の大手企業は地域などのしがらみを持ち、事業の再編が難しい状況に陥っている企業のありました。時代の変化の速さに追従できない経営者が多かったようです。
閑話休題。この2017年10月21日の中面には「家電産業失速 平成の30年」という一面を使った解説記事が載っています。1989年4月27日に松下電器産業グループの創業者の松下幸之助氏が死去しました。その後には、日本の家電企業は凋落を始めます。
当時の松下電器産業グループ(現在のパナソニックグループ)はテレビとビデオテープレコーダーの製品販売以降は、世界を席巻する新しいヒット商品を産み出せず、その後のデジタル技術対応に遅れていったと解説しています。
当時の日本の大手企業の多くは、既存の産業秩序を根底から覆す“破壊的イノベーション”を産み出せなかったとします。
この点では当時、松下電器産業グループのライバルだったソニーも似たような製品開発を続けたと述べています。
この点では、日本の主な大手企業などを再生する仕事に就いた斉藤惇さんの分析は気になります。
産業再生機構のカネボウの次の大型案件は、もっと大型案件のダイエーの再生でした。この内容は、日本企業の自己再生能力の欠如が分かる内容です。
この10月の「私の履歴書」の筆者になった斉藤惇(あつし)さんは、日本取引所グループの前最高経営責任者をお務めになった人物です。
日本経済のバブル崩壊によって、日本の大手企業の数社は経営が危うくなり、それに対処する目的で2003年4月に産業再生機構が発足します。その社長に斉藤惇さんは就任します。
この『カネボウ』編は、産業再生機構にとっての最初の大型案件になったカネボウの話です。日本経済新聞紙の朝刊のサブ見出しは「日本的経営 目の当たり」です。
日本経済新聞紙のWeb版である日本経済新聞 電子版の見出しは「斉藤惇 20 カネボウ」と、単純化されたものです。

当時のカネボウは化粧品部門を花王と統合することで、当面の苦境を乗り切ろうとしていたそうです。その程度の危機感だったようです。
早速、産業再生機構の社長として、当時のカネボウ社長だった帆足隆氏に面会すると、「産業再生機構に支援されると、経営責任を問われるか」と聞いてきます。後になって考えると、粉飾決算が明るみに出た時のことが念頭にあった質問だったようだったと、振り返っています。
1897年に創業し、戦後の事業の多角化で成長を遂げたカネボウは日本的な経営を体現していました。独自の労使協調路線はかっては強みでしたが、次第に「意思決定の遅さという弊害を伴った」と解説します。
斉藤惇さんは「先輩のやったことを否定できないので、古い事業が積み重なり、雇用調整につながる事業の撤退や縮小が難しかった」と分析しています。
各地のカネボウの拠点に足を運ぶと、地元選出議員のつながりから、事業の撤退や縮小が難しく、機動的な事業の再構築ができない状況でした。
産業再生機構の支援を受けたのを期に、並行して過去の決算を再調査したところ、旧経営陣による2150億円もの粉飾が判明します。
その結果、東京証券取引所はカネボウの上場廃止処分を下します。この時は、斉藤惇さんは「東証のこの措置には釈然としないものが残った」と感じたそうです。
実は、産業再生機構がカネボウの支援を決めた時に、カネボウの決算が怪しいという噂があり、カネボウ担当のアナリストの紹介を頼むと「カネボウは粉飾の可能性が高いので、まともに分析する・・」との声が返ってきます。
この点では、こうした情報が流れているのであれば、市場管理者としての東京証券取引所の役割とは何かという疑問を持ったそうです。東京証券取引所がカネボウを早く指導していれば・・の思いだったようです。
日本の大手企業は地域などのしがらみを持ち、事業の再編が難しい状況に陥っている企業のありました。時代の変化の速さに追従できない経営者が多かったようです。
閑話休題。この2017年10月21日の中面には「家電産業失速 平成の30年」という一面を使った解説記事が載っています。1989年4月27日に松下電器産業グループの創業者の松下幸之助氏が死去しました。その後には、日本の家電企業は凋落を始めます。
当時の松下電器産業グループ(現在のパナソニックグループ)はテレビとビデオテープレコーダーの製品販売以降は、世界を席巻する新しいヒット商品を産み出せず、その後のデジタル技術対応に遅れていったと解説しています。
当時の日本の大手企業の多くは、既存の産業秩序を根底から覆す“破壊的イノベーション”を産み出せなかったとします。
この点では当時、松下電器産業グループのライバルだったソニーも似たような製品開発を続けたと述べています。
この点では、日本の主な大手企業などを再生する仕事に就いた斉藤惇さんの分析は気になります。
産業再生機構のカネボウの次の大型案件は、もっと大型案件のダイエーの再生でした。この内容は、日本企業の自己再生能力の欠如が分かる内容です。