2014年ノーベル物理学賞を受賞した名古屋大学名誉教授の赤崎勇さんたち3人の受賞式報告会が、2014年12月中旬に東京都内で開催された話の続きです。
1985年11月に名古屋大学教授だった赤崎さんは、「結晶性に優れた窒化ガリウムができれば、将来は青色LEDやレーザーができるだろう」などという当時の研究成果を、名古屋市の名古屋商工会議所で講演しました。これを聴講した豊田合成は新規事業シーズとして考え、赤崎さんに技術指導をお願いしました。
この豊田合成の動きと並行して、偶然、当時の文部科学省系の新技術開発事業団(現在は科学技術振興機構=JST)の担当者は、結晶系の優れた研究成果として注目し、赤崎さんに面会をお願いしていました。何回かの面会の際に、赤崎さんの研究成果を特許出願するようにお願いしたそうです。実際には、この研究成果の特許出願にはいくらか時間がかかったようです。当時は青色LEDの研究開発の本命とは考えられていなかったので、問題なく特許出願され、将来の武器になりました。
当時の新技術開発事業団の“目利き”担当者は、同組織が「委託開発事業」制度を持っており、この制度によって、赤崎さんの研究成果を基に青色LEDを事業化したいと考えました。
同担当者は赤崎さんに委託開発事業制度の中身を説明する一方、豊田合成にも実用化に向けた研究開発費は、新技術開発事業団が負担する制度になっていると説明したそうです。
この委託開発事業とは「委託先企業が、もし研究開発に失敗したら、その委託研究開発費は返却しなくてもいい制度である」と説明しました。この話を聞いた豊田合成は研究開発リスクは、同新技術開発事業団という“国側”が引き受けるという趣旨を理解しました。もし、研究開発に成功し、事業化した場合には、その際にかかった研究開発費を返却するという趣旨も理解したそうです。要は、豊田合成は国が研究開発リスクを負担するという同制度の趣旨を理解したそうです。
1987年から、名古屋大学と豊田合成は、委託研究事業として「窒化がリウム(GaN)青色発光ダイオードの製造技術」を開始します。この研究開発は1990年まで実施されます。委託研究費として、4年間で5億5000万円が支給されます。
赤崎さんが同委託事業制度によって、豊田合成と共同開発を始めると決断するまでには、約8カ月かかったそうです。「企業への技術指導に時間を取られるのは困る」と赤崎さんが悩んだからです。
実際に、共同研究が始まってからは、ゴムやプラスチックの成形技術には長けているものの、半導体技術は素人だった豊田合成の研究開発者に「半導体のイロハから教え、その事業化に向けて同社の社員を徹底して鍛えることに時間を割いた」と赤崎さんは振り返ります。
豊田合成に技術指導する一方、名古屋大学では青色LED実現の基盤技術となる窒化ガリウム系でpn結合という青色LED実用化のブレークスルー基盤技術を1989年にメドをつけます。そして、1995年に豊田合成は青色LEDを製品化します。
この当時を振り返って、赤崎さんは「当時の半導体事業を推進していた大手電機メーカーは、窒化ガリウムのpn結合ができていない段階では、共同開発に踏み切らなかったのは当然だろう」と解説します。
半導体の難しさと怖さを知らなかったからこそ、豊田合成はしゃにむに取り組んだようです。画期的なイノベーションは主流からではなく、傍流だからこそ、大胆な発想によって実用化ができるようです。
この研究成果が発表された当時でも、青色LEDといった青色発光素子の研究開発対象は亜鉛セレン(ZnSe)が主流で、その次に炭化ケイ素(SiC)を利用した研究開発が多かったのです。窒化ガリウムは最も傍流でした。
実は、カリフォルニア州立大学サンタバーバラ校教授の中村修二さん(当時は日亜化学)が窒化ガリウムを研究対象に選んだ理由は博士号の取得でした。 中村さんは以前の米国留学中に、博士号を持っていなかったことから、研究者として扱われなかった経験から、博士号を取りたいと強く思ったそうです。
博士号を取るためには独自の視点を持つ論文を書かねばなりません。既に多くの研究者が論文を書いている亜鉛セレンではなく、当時は傍流であまりデータがなった窒化ガリウムを選んだそうです。
まさに、辺境にあった研究開発テーマから革新的なイノベーションが産まれた実例になっています。そして、非半導体メーカーである豊田合成と日亜化学がその製品化に成功したことになります。想定外の企業が事業化に成功すると、その対応に窮するために、大成功を収めます。
1985年11月に名古屋大学教授だった赤崎さんは、「結晶性に優れた窒化ガリウムができれば、将来は青色LEDやレーザーができるだろう」などという当時の研究成果を、名古屋市の名古屋商工会議所で講演しました。これを聴講した豊田合成は新規事業シーズとして考え、赤崎さんに技術指導をお願いしました。
この豊田合成の動きと並行して、偶然、当時の文部科学省系の新技術開発事業団(現在は科学技術振興機構=JST)の担当者は、結晶系の優れた研究成果として注目し、赤崎さんに面会をお願いしていました。何回かの面会の際に、赤崎さんの研究成果を特許出願するようにお願いしたそうです。実際には、この研究成果の特許出願にはいくらか時間がかかったようです。当時は青色LEDの研究開発の本命とは考えられていなかったので、問題なく特許出願され、将来の武器になりました。
当時の新技術開発事業団の“目利き”担当者は、同組織が「委託開発事業」制度を持っており、この制度によって、赤崎さんの研究成果を基に青色LEDを事業化したいと考えました。
同担当者は赤崎さんに委託開発事業制度の中身を説明する一方、豊田合成にも実用化に向けた研究開発費は、新技術開発事業団が負担する制度になっていると説明したそうです。
この委託開発事業とは「委託先企業が、もし研究開発に失敗したら、その委託研究開発費は返却しなくてもいい制度である」と説明しました。この話を聞いた豊田合成は研究開発リスクは、同新技術開発事業団という“国側”が引き受けるという趣旨を理解しました。もし、研究開発に成功し、事業化した場合には、その際にかかった研究開発費を返却するという趣旨も理解したそうです。要は、豊田合成は国が研究開発リスクを負担するという同制度の趣旨を理解したそうです。
1987年から、名古屋大学と豊田合成は、委託研究事業として「窒化がリウム(GaN)青色発光ダイオードの製造技術」を開始します。この研究開発は1990年まで実施されます。委託研究費として、4年間で5億5000万円が支給されます。
赤崎さんが同委託事業制度によって、豊田合成と共同開発を始めると決断するまでには、約8カ月かかったそうです。「企業への技術指導に時間を取られるのは困る」と赤崎さんが悩んだからです。
実際に、共同研究が始まってからは、ゴムやプラスチックの成形技術には長けているものの、半導体技術は素人だった豊田合成の研究開発者に「半導体のイロハから教え、その事業化に向けて同社の社員を徹底して鍛えることに時間を割いた」と赤崎さんは振り返ります。
豊田合成に技術指導する一方、名古屋大学では青色LED実現の基盤技術となる窒化ガリウム系でpn結合という青色LED実用化のブレークスルー基盤技術を1989年にメドをつけます。そして、1995年に豊田合成は青色LEDを製品化します。
この当時を振り返って、赤崎さんは「当時の半導体事業を推進していた大手電機メーカーは、窒化ガリウムのpn結合ができていない段階では、共同開発に踏み切らなかったのは当然だろう」と解説します。
半導体の難しさと怖さを知らなかったからこそ、豊田合成はしゃにむに取り組んだようです。画期的なイノベーションは主流からではなく、傍流だからこそ、大胆な発想によって実用化ができるようです。
この研究成果が発表された当時でも、青色LEDといった青色発光素子の研究開発対象は亜鉛セレン(ZnSe)が主流で、その次に炭化ケイ素(SiC)を利用した研究開発が多かったのです。窒化ガリウムは最も傍流でした。
実は、カリフォルニア州立大学サンタバーバラ校教授の中村修二さん(当時は日亜化学)が窒化ガリウムを研究対象に選んだ理由は博士号の取得でした。 中村さんは以前の米国留学中に、博士号を持っていなかったことから、研究者として扱われなかった経験から、博士号を取りたいと強く思ったそうです。
博士号を取るためには独自の視点を持つ論文を書かねばなりません。既に多くの研究者が論文を書いている亜鉛セレンではなく、当時は傍流であまりデータがなった窒化ガリウムを選んだそうです。
まさに、辺境にあった研究開発テーマから革新的なイノベーションが産まれた実例になっています。そして、非半導体メーカーである豊田合成と日亜化学がその製品化に成功したことになります。想定外の企業が事業化に成功すると、その対応に窮するために、大成功を収めます。
外郎太郎さま
EGGMANさま
あかずきんさま
コメントをそれぞれにお寄せいただき、ありがとうございます。
日本の半導体産業がDRAMやLSIという本流で、世界の半導体事業を支配していた1980年代後半に、まったく独自の視点で窒化ガリウムの研究開発に没頭した赤崎さんたちは、独自の製品化に成功しています。
こうした独自製品を今後も日本企業が実用化できるのかどうかを考える契機に、今回のノーベル物理学賞受賞はなりました。
日本の半導体事業の行方がやや心配なのですが・・
時々話題になる青色レーザーは製品化されているのでしょうか。
豊田合成も最初の幸運を生かして、この分野で強硬な勢力にならないと、将来象は描けません。
それから約20年経ち、現在は日本の半導体事業は青息吐息です。
傍流で成功事例が出ても、本流で負け続けている原因は何なのか、日本の大手電機メーカーの事業戦略は何なのか、五里霧中です。
赤崎さんと天野さん(当時は大学院生)が1987年当時からの研究成果の上に、花開いたようです。豊田合成が製品化したのは1995年なのですか。
こうしてみると、ノーベル賞受賞まではずいぶん時間がかかっているのですね。
その当時の研究開発者も経営陣も、挑戦する気持ちが強かったのですね。
こうした企業が現在も出てくるように願っています!!