本の読み方の設計図。

本の構造を明らかにしていく。
論拠・主張

論証=事例、引用。

精神的麻酔 : その後@21

2006-02-15 00:00:00 | その後
アイ・マイト・ビー・ロング(ライブ・レコーディングス)
レディオヘッド
東芝EMI

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なんとも甘美な音楽なのだろう。
レディオヘッドの音楽を聞くたびにそう思う。
とても、不健康なメロディーではある。
たとえていうならば、痛みに耐えるために体に施す麻酔を精神に施しているという感じ。
苦しい気持ちの時にこのレディオヘッドの音楽を聞くと不思議と苦しみ、それが和らぐ。

歌詞の内容もなんともいえないものだ。
このアルバムの1番目の曲の歌詞は次の通り、

1.THE NATIONAL ANTHEM
everyone みんな
everyone around here     ここにいるみんな
everyone is so near     もうちょっとのところで  
is holding on.        なんとかふんばってる

everyone           みんな
everyone around here     ここにいるみんな
everyone has got the fear  みんな何かが怖い
is holding on.        なんとかふんばっている

holding on.         ふんばっている

というものだ。

不健康かもしれない。
常に精神的に健全なうらやましい人には無縁なミュージシャンであろうレディオヘッド。
精神的にやられながらもなんとかやっていくそんな人には必要なミュージシャンだ。
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圧力 : その後@20

2006-02-14 00:00:00 | その後
重力の中で圧力に支えられ宙に浮く
ただ、
押しつぶされることもなく
体の中からの圧力

真空上にされた体内
真空状態の頭脳

もだえることもなく
喜ぶこともなく、
ただ、押しつぶされることもなく
存在を浮かさている・・・

決して安定された状態に身をおけない
この真空状態の存在
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word : その後@19

2006-02-13 06:00:00 | その後
単純な言葉なんてひびかないそう思っていた
でも今は強く思う
ただ、あなたへの愛しているという気持ちで世界を染められたなら
どれだけ、
気が楽になるだろうかと・・・
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without you : その後@18

2006-02-12 00:00:00 | その後
ただ、君なしですごした日はなかった
僕たちが出会ってから、
いつも、僕たちは一緒だった
離別
僕が最も望まない結果だった
いつもは元気をくれるお気に入りの音楽を聞いていると
妙に涙がこみ上げてきた
まだ、寒さの残る
残冬・・・

しんしんと
涙は降り積もり
こころを枯らしていく
孤独はもういい

君の笑顔
君のやらかいほっぺ
離れるという言葉が頭の中を思い浮かぶただそれだけで
涙が出てくるのには十分だった・・・
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indonesian blue : その後@17

2006-02-11 00:00:00 | その後

すべてをもたらすもの

ときどき思う
自分の存在を
オレンジの奥に漂う蒼色を
輝き増す
その夕闇を
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大気 : その後@16

2006-02-10 06:00:00 | その後
繰り返しとかれる言葉
遊離する自分からの存在たち
たとえそれが悲しみに満ちていたとしても
自分という不即不離の軸は絶えず自分であり続ける。
朝靄に似た、ただよいを思わす自分という軸
大気の中にて自分という軸は絶えず何かしらの存在をひきつける。
悲しみ、不安定さ、それらの不の感情を乗り越えた上での安定。
自分という軸は常に自浄作用を繰り返し健常を取り戻そうとする。

朝靄の大気の中で聳え立つ美しき山のように
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ねじれ : その後@15

2006-02-09 12:00:00 | その後
ねじれ
そう、
わたしは
ねじれの
その
なかを
いきています
のぞんでいないねじれと
のぞんでいるねじれ
あらゆるいみを
背負い
わたしは
ねじれをいきる。
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黒泪 : その後@14

2006-02-09 00:00:00 | その後
幸せというものの形
そんなものは分かっている
どうすればそれを求められるかということもわかっている。
ただ、生きるということは
幸せさえ求めていればいいというものではない
幸せは、不幸せの黒い泪を流した次の瞬間に訪れる。

  続章 ~ 隠蔽

人は隠蔽する。
隠蔽することが心地よいから。
暴き出されることによって不快感が訪れるなら隠蔽しようではないか。
隠蔽というものは決して完全なる幸せというものを保証しはしない。
隠蔽されたその姿はふつふつと、不安という名前のい泪を湧きあがらせていく。
泪は棘を持つこともある。
ちくちくと暴き出されもしないその不安は体を蝕んでいく・・・
蝕んで行く
蝕みは不快という名の絆で存在する。
暴き出されることよりはましな形での不快という形で
泪は私たちを守る。
守る。
守るという言葉では正当ではないほどの形でまもる。

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untitled : その後@13

2006-02-05 00:00:00 | その後
生命の源泉
自己のたゆたう空間
未来永劫へと、
絶え間なき過去へのつながりへとあゆなす
自己という一点
私は生かされています

不確かながらも
あなたへの愛を感じながら
この自己という一点へとつながっていく生命への一点を
悪というものを滅却せんと欲しながら、
ただ愛という行為を真に近づけたいという衝動に駆られながら

私は生きていきます
あなたという私を支える不変の原理に支えられながら
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雨彗(雪) : その後@12

2006-02-04 00:00:00 | その後
ただ美きをもとめ
ただきよらかなるものをもとめ
私はいた

君といると
美きを感じ
きよららかな思いになる

すべてを合一し
無に転じさせてくれる
雨彗・・・
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枇杷(びわ) : その後@11

2006-02-03 00:00:00 | その後
いかなる色彩が存在せよ
枇杷(びわ)の持つ色は絶望を許さない。
強い光彩を放っていなくとも、
枇杷色はたった独り意識の奥深くから
私たちを孤独から強烈な使命感に駆られて救い出そうとする。
私たちには、絶望ということは許されていない。
そのことを、枇杷色は懸命に私たちに知らせようとしている。
忘れないで欲しい、どれだけ希望を失いそうになっても、
それだけ私たちを浸す水溶液がどす黒くにごりそうになったり、
薄い水色の倦怠に駆られたとしても、
枇杷色である、私たちの本質は。

実存の孤独に不条理に襲われたり、
実存の有限さゆえの不安感に駆られたりすることはあろう・・・
しかし、
枇杷という私たちの本質は、私たちを浸す水溶液に枇杷色の希望を満たそうとしている。
私たちを浸すという底なし沼のような水溶液の奥底から、
枇杷色の閃光は弱弱しくとも、力強く、私たちを絶え間ないオレンジ色の世界へと導こうとしている。

枇杷色の底力は、いまも私たちをオレンジの世界に導こうと渇望している。
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花 : その後@10

2006-01-30 00:00:00 | その後
誰も言葉戯そびなどしていない
根を張り巡らせ、それを強固にしていきたい
そんな想いで必死に共に咲く花を求めて逝く
極端に醜い
そんな花などない
自分の根に遭わない根に出会い、
困惑をしてしまった健気なという意味で合一の花。

共に咲く花がないということはない。
ただ、花は時に腐敗臭を漂わせる・・・
根は腐らせてはいけない
その初歩的な魅惑に駆られ、
空白感を味わう

just when I am with you, I can feel happiness.
since we were same flower...
before we became our figure,we had bloomed together...
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使命感に対する考察 : その後@9

2006-01-29 00:00:00 | その後
使命感。
英語で天職とは、callingなどともいわれるようだ。もしくは、vocationともいわれるようだ。
callingに関しては、あえて解説するまでもなく「呼び声」というような含意。
vocationは、何か特定のものに関して、自分が向いていると感じるような意識の状態。
いいかえれば、二つとも、使命感という意識に結びつく。
英語での、元来での意味での天職とは、宗教的に神から呼び求められているものというもの、自分がその声に対してこたえていこうという意志を働かせるものという意味合いがある。

しかし、神というものがニヒリズム的な時代状況にあるにせよ、そうでないにせよ、私たちとしては、どこに、どこへ導かれているのかということは容易にはわかりえない。その様な状況下において、いかにわれわれは自らの使命感というものを知りえるのであろうか?もしくは、知りえるということは可能といえるのであろうか?このことに対する答えは、サルトル的な様相を帯びることとなる。いわゆる、二律背反的な意味合いを持ってしまうということだ。
われわれは、使命感を知りえることはできないが、感じることはできる。
というのが、おおむね妥当な回答であろう。

つまり、神はわれわれに啓示を与えてくれはしない。しかし、われわれは、ここでも、対自-即自の神性というようにも述べたように、自ら自己の存在の根拠を形づくることが求められている。という意味では、自分で使命感というものは作ることができる。callingが作られうるという概念自体はおかしい気がする。それもそうだろう、呼ばれているという状態は、第三者的な意味合いが含まれるのであろうから。しかし、これは、対自-即自の神性という概念からしても、さほど難解な概念ではない。
使命感を作るというよりは、こういう方向に、私は向いている、callingな状態であると、vocationを感じていくというのが、使命感の本質的な様態であるといえる。

自分自身の使命感というものが、なにであるかということを確信することが難しいにしても、自分がこういうものに向いているのではないだろうか?自分はこれがしたいんだと発心することは可能であろう。この発心、その使命感を信じるということが、使命感というものに導かれうるための要諦であるといえる。
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穴 と 呼びかけ。 : その後@8

2006-01-28 00:00:00 | その後
存在と無 下巻

人文書院

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【穴という概念】

サルトルは、人間存在にとって人生とは、「かなりの部分は、いろいろな穴を塞ぎ、いろいろな空虚を見たし、象徴的に充実を実現し確立するために過ごされる。」(『存在と無』1115頁)というように述べている。
このことは、われわれが、「満たされない」とか、「むなしい」とか、「空虚な感じがする」などというようなことを考える上で、も相互的に参照しうるし、同じように、あの養老孟氏が、

「若い人やフリーターは自分にあう仕事がないと不平を言う。しかし、自分は能力が高いのに、こんな仕事しか与えられないと愚痴るのは間違いだ。自分探しなどと言う考え方を教え込んだ大人の責任でもある。
  世の中が自分に合う仕事を用意しているなどと考えてはいけない。仕事とは世の中に開いている穴。穴の大きさをニーズという。穴を埋めると周囲の人が迷惑しなくなり、それなりのカネをもらえるようになる。それが仕事というものだ。」 (「日経新聞」2006年1月16日12面より)

というように、それを社会というシチュエーションにも応用しうる概念だ。加えて、ここでは、引用はしないが、最近ニュースなどでも、なにか、過失を行ったという意味合いで、「穴を開けた」というようなふうにも応用できる概念だ。

【穴と人間存在】

穴、というからには、養老氏がいうようにそれは与えられうる形を伴ったものでもないし、あらかじめ満たされているものでもない。サルトルは、ここでも何度も述べてきた対自-即自という概念を引き合いに出し、
「対自は、即自の単なる無化より以外のものではない。対自は、『存在』のふところに、存在の一つの穴として、存在する」(1124頁)
というように述べる。このことは、対自の即自へのアプリオリな無化作用というこれまでみてきた概念を想定すると、穴へのアプリオリな、挿入の可能性というように言い換えることができる。
穴という満たされて否状態であるがゆえに、挿入により、満たされることが必要となる。

【対他的な穴】

サルトルは、一般的には、禁忌されうるであろう言い方で、よりダイレクトに、
「女の性器の猥褻さは、すべての口のあいたものの猥褻さである。それは他の場合にすべての穴がそうであるように、一つの『存在-呼び求め』である。それ自身において、女は、侵入と溶解によって自分を実存充実へと変化させてくれるはずの、外からやってくる一つの肉体を呼び求める。また、逆に、女は自己の条件を、一つの呼び求めとして感じる。(中略)なるほど、女の性器は、口である。しかも、ペニスをむさぼり食う、貪欲な口である。」(1116頁)
というようにも述べている。
ここでの、記述に対しては、フロイト的な解説も、ハイデガーとの関連という観点からでも解説は可能であろう。
しかし、ここでは、その叙述を原理としてだけみていこう。
サルトルがいわんとしていることは、先の対自-即自存在のこととの関連から明らかになる。われわれは、多かれ少なかれ、空虚感に苛まれて生きている。それは、満たされることを条件とする。そのことで、実存充実へとわれわれは導かれることが可能となる。ということである。

満たされえぬ存在であるがゆえに、満たされることを対他存在として求める。そのモデルがここでみられるわけである。逆に言うと、この議論は、先に挙げた養老氏の引用についての議論へと膨らんでいくこととなる。

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アメール(amer)の泉 【寓話】 : その後@7

2006-01-27 00:00:00 | その後
アメールはいつも森の中を歩いていた。アメールは、探していたドゥース(doux)という名前の果物を。
彼はいつも歩き疲れると、森の茂みの中にある小さな泉の前で考えをめぐらせるために立ち止まることが習慣になっていた。
アメール少年は、その泉の水を眺めるのが習慣となっていた。
アメール少年がその泉を眺めているときあたかも彼は、泉の中に自分の存在が吸いとられていくように感じることがあった。

「この水はいったい・・・」

アメール少年はいつもそれから先にその問いを進めることができなかった。

「僕は歩いている・・・」

アメール少年は、普段自分が、ほかの連中より美しくありたいと強く思っていると感じていた。
アメール少年は、許せなかった。
自分を、こうやっていく当てもなく、森の中を歩き続けさせるこの森以外の自然を。
森以外の自然。
森以外の自然も間違いなく自然であったし、森であった。
それが、森でなく、森であるという、少なくとも、アメール少年が歩くことができないという意味での森であるという意味で、それは、アメール少年にとってはもはや森ではなかった。
彼は、どこかにドゥース(doux)という名前の果物があるということは知っていた。
彼は、それがどこか海の向こうの別の国から来た果物であるということも知っていた。
生みの向こうの別の国、彼にそれがどこの国かということは、まったく検討すらつかなかった。

というのも、彼が唯一確実といえることは、海の向こうというのは、あくまでのこの森の向こうということであり、その海の向こうという場所においても、そこは所詮森にすぎないということだけであった。

彼が、このドゥース(doux)という果物について知らないこと。
それは、今彼が止め処なく、探しているということからも、あまりに多い。
ほとんど彼はそのことについて何も知らないといってもいい。
その中でも、彼が徹底的に知らないというのが、
それが、douxというスペルなのかdouceなのかということである。
それが、海の向こうの言葉であるということで、彼はおよそその言葉を音でしか把握していなかった。
ドゥース。
それは少なくとも、果物であるということは彼にとっては確実なことであった


彼は、森の中にあるいろいろな果物に見えるものに気を掛けた。
彼は、そのドゥースという果物を探すということに関してほとんど狂信的でさえあった。
彼は実は、その果物似にた果物を食したことがあると思っていた。
しかも、ほんとうのところをいうと、何度も何度もそれに似たなにか別な果物を食したことがあると思っていた。

「どうしてだろう・・・」

彼は、それでも、それがただドゥースに似たものであるとしか感じれなかった。

何故そう感じるかは彼自身まったく検討つかなかった。
ただ、彼が追い求めているそれとはちがう。
そう直感するだけであった。
どこか、熟していすぎるという直感であったり、
どこか、甘すぎるという直感であったり、
あまりに硬質な枝にぶら下がっているとうう直感であったり、
彼が歩く森の中の木々をやたら怒り発たせすぎるという直感であったり、
なにゆえか、黄色く不気味な樹液をその木々が発し、なんとも嗚咽を覚えさせる芳を発せさせるというようなそんな気分であった。

アメール少年は、とにかくそのドゥースに似た果物を見つけたら、
自分のものに一度してみたいという欲求に突き動かされた。
正直なところをいうと、それはドゥース少年自身の自発的な考えということではなかった。
ドゥース少年を取り巻く森の木々たちが、彼をそういう気分に駆り立てるのであった。

「失敗するだろう」

彼はいつもそのドゥースに似た果物に対するときいつもそんな気分を味わっていた。
それでも、彼はその果物を食してみたいという衝動は抑えられなかった。
最初の内は彼はただその果物をふつうに口に入れるだけであった。

「失敗するだろう」

そういう強い気分に苛まれるようになった彼は、果物の食べ方を工夫しようと考えるようになっていた。彼の考えによると、自分がドゥースを探し出せないのは、食べ方を間違っているからではないかという気持ちがあったからだ。

「それにしても、どの果物もどうしてこれほどにうまいのだろう。
その艶といい、その味わいといい、房といい・・・」

アメール少年は、正直ドゥースという彼が本当に捜し求めている果物自体が見つからなくてもいいという考えさえ日々持っていた。
どの果物も、うまいからだ。
だが、一つ大きな問題を彼は抱えていた。

アメール少年が、ドゥースではない、その果物を食べるときはよいのだが、食べたそのしばらく後になんともいいがたい苦味が彼のしたの上に沈殿するのであった・・・

「ああも、甘くうまかった果物がどうしてこの味を毎回残すのであろう・・・」

彼が、本当のドゥースという果物があるという希望を見出したのは、そんなところからであった。

彼が、途方にくれたとき、いつも来るのが、この森の中にある泉であった。
水はよい、透明だから。澄んでいるから。

泉はきれいだ。
そういう想念はいつも、彼の

「この水はいったい」

という想いを起こすことになるだけであった。
ドゥースという概念が彼の頭の片隅においてあるかぎりにおいて、その水のおくそこに、ドゥースの幻影を彼はみてしまうのだ。

「どうして、おれは、こんな果物に取りつかれなきゃいけないんだ・・・」

彼は、その泉が濁って逝くのをみるにつけそんな気分を催した・・・
泉は静かだ。
あたかも、森の中を歩く人々が、その気分を嘲りといってみたり、挫折と言い習わしているのに近い気分を彼も感じた。
彼は、そういう気持ちを懸命に否定しようと試みたが、結局は無駄な試みに終わるということは、彼は知っていた。
それは、彼も、どれだけ背伸びをしてみようにも、他の人々と同じように森の中を歩くドゥースの幻影を追う人々にすぎないのだから・・・

泉の濁り。
上から他の原因によりもたらされたり、アメール少年自身がもたらしたり、
美しさを他の人より、求めたいと願っているアメール少年にとっては耐え難いことであった。
泉の濁り、
結局彼はそれにより、ドゥースという果物を捜し求めるという旅を続けなければならないということを宣告されるだけであった。
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