本の読み方の設計図。

本の構造を明らかにしていく。
論拠・主張

論証=事例、引用。

秘匿 :その後@6

2006-01-24 00:00:00 | その後
秘匿。
それは、私がそれに深く関与する上で秘密としなければいけない概念。
私が、それを気に掛ける故に秘匿としなければいけない概念。
もはや、もし、私がそれに気を掛けないというならば、それが秘匿たることになんら意味はない。
私という概念は放棄された。
より厳密に記述をするならば、私という概念はなお更新され続けている。
それゆえ、「いま」という発生しは消え去り続ける中を生きる「私」というメディアは、「私」を持たない。
それゆえ、秘匿は解放された・・・

written at 2006-01-27 01:25
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<私>の可能性 ③ :その後@5

2006-01-22 00:00:00 | その後
存在と無 下巻

人文書院

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以下に述べることは、卒論提出時には、頭脳的な疲労の蓄積ということもあり、詩的できなかった、『実存主義とは何か?』の中におけるサルトルの議論との接合を試みることになる。ここでの対自-即自の神性というのは、これまで述べようとして、まだそこまで解釈が進み切れていなかった故に、述べれていなかったサルトルの対自-即自という概念の一つの極地であるということができる。

【即自存在 神格化。そのモラル論的意味あい】


 ここまでで、対自-即自存在のまなざし論における相互性というものを見てきたわけだが(同じく、ここでは未述)、重要な点はようやくここまで述べて論じることが可能になった。対自が、自らの即自存在を告げ知らせるということは、どういうことであろうか?このことが、本論で対自-即自存在ということに関して最も述べるべきことであろう。

 あらゆる人間存在は、彼が存在を根拠付けるために、また同時に、それ自身の根拠であることによって、偶然性から逃れでているような即自すなわち宗教では神と名づけられている自己原因者を、構成するために、あえて自己を失なうことを企てるという点で、一つの受難である。それゆえ、人間の受難は、キリストの受難の逆である。なぜなら、人間は、神を生れさせるために、人間としてのかぎりでは、自己を失うからである。 (『存在と無』1119頁)

人間存在は、神となる。対自-即自の究極的な原理は、自ら、を自らの無化により根拠付ける、自己原因を、自ら構成するということである。ということは、「存在は存在をしか生みだすことができない。」 (同,84頁)という『存在と無』最初での命題に照らし合わせて考えると、この自己原因、もしくは、神性としての対自-即自存在というものは、サルトルモラル論の偉大なるマニフェストであるともいえる。神なき時代において、神がなくとも、われわれは、意味を見出すことができる、それゆえ、無化ということこそ挫折することがあれども、われわれは絶望することはない。

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(以下、卒論にては未述)

 より、厳密に、このサルトルの対自-即自による人間存在の神聖化という概念は、私たちは、自らの根拠を自らで打ち立てうる、それゆえ、つねに、無化作用を施すことでつねにある程度挫折すべき存在であるといえる。つねに挫折すべき無様な神の模倣者。神なき時代において神を模倣するという荒唐無稽な離れ業を成し遂げるわけだから、成し遂げれないわけだから、私たちは万事挫折する。
 しかし、この挫折は、輝かしい挫折である。私は神ではないという意味で神である。私が神であるという意味合いと同じ意味合いにおいて、周囲の人間存在も神である。
 このことは、サルトルが、『実存主義とは何か?』において、「私の行動は人類全体をアンガジェする」とか「自分自身の選択によって人類全体をアンガジェする」といっていることの真意が宿っている考えであるといえる。神が、絶対者であり、超越者であるならば、その行動は全体的であり、絶対的で超越的であるというのは、それほど奇異な考えではないだろう。しかし、私たち人間存在は、「それがあるところのものであり、あらぬところのものである」という即自存在的な意味合いでの神である。
 そのことにより、絶対的であり、絶対的でない、という選択をひび行う。それは、自分ではなく、他者に対しても同じことである。これ以上の解釈は敢えてほどこそないが、このことがサルトルのモラル間のもっともコアな部分であるといえる。真性を帯びた人間存在として生きる私たち、それがモラルを導き出す<私>可能性ということだ。
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<私>の可能性 ② : その後@4

2006-01-21 00:00:00 | その後
ニヒリズム―その概念と歴史〈上〉

理想社

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次には、サルトルの神そのものに対する考えということとその周辺について見てみよう。
例によって、卒論からの引用に加筆修正という形で論を進めていこう。

【二ヒリズムとしてのサルトル的対自―即自への神性の可能性】

 再度『ニヒリズム』という書物からの引用となるが、岩波氏は、フィヒテの言葉として、

  神のようなものを信じないで、人はまともでありうるだろうか。答え。ありうる。(というのは、この問いにおいては、疑いもなく、理論的信仰が問題となっているからである。)無神論者は宗教を持ちうるか。答え。もちろん持ちうる。(高潔な無神論者について次のように言いうる彼は、口で否定するのと同じ神を心で認めているのである。) (『ニヒリズム』125頁)

というものを挙げている。この言葉は、まさしくサルトルの対自-即自存在の神性への肯定というものをいい表しうる表現であるといえる。サルトルは、神自体を信じているわけではない、敢えて再度似たいような箇所を引用することは煩わしく思われるかもしれないが、サルトルは、神ということに関して、

  おれは嘆願した。おれはしるしを求めた。おれは天にメッセージを送った。答えはなかった。天はおれの名前も知っちゃいない。いつもいつもおれは神の眼になにでありうるのかを問うてきた。今答えがわかった。無だ。神はおれを見てやしない。神はおれのことなど知りもしない、おまえは頭の上のこの空虚が見えるか。この空虚が神だ。おまえは扉にあいたわれめが見えるか。それが神だよ。おまえは地に空いた穴を見るだろう。それが神だ。沈黙が神だ。不在が神だ。神とは人間の孤独のことだ。存在していたのは、おれだ。 (J-P・サルトル,生島遼一(訳)『悪魔と神』新潮社,1951,267頁)

というようにその著作の中で述べている。いみじくもこれまで述べてきた人間存在間でのまなざし論とは(ここでは未述)、神の不在の中でこそ行われる。この引用からも暗示されていることではあるが、神というものを、即自というものにおいてではなく、私たち人間存在というものをその本質として提示してくれるものである。しかし、神というものはない。不在である。
 それゆえ、サルトルは、人間存在を信じる。この『悪魔と神』でのニヒリズム的な状況を克服するためのサルトルの人間存在論。それは、先に挙げたフィヒテでの価値観のコペルニクス的展開とでもいう状態が挙げられる。ただ、一見コペルニクス的に正反対にその神という概念が捻じ曲げられてしまったようにも見えるサルトルにおける対自‐即自の神性というものは、実は、まさに本来的な宗教観を指しているといえる。神というものに対しての表象は、しばし絶対者であったり、超越者であったりというように言い表される。絶対であり、超越をするものならばそれを感じることは不可能ではないだろうか?
そのことは、次の例を見ることでなお、理解されうるであろう。
*これは、次のサイトからの引用である「インドの6人の盲人と象,マルチメディア/インターネット事典,URLhttp://www.jiten.com/dicmi/docs/k2/14173s.htm 」

 南インドの海遊漁民タミール族の「6人の盲人が象を触って、それぞれ触ったところによって異なった全体像を想像した」ということわざで、米国の詩人John Godfrey Saxe(1816-1887)が現代英語に翻訳して、実際に触っても、全体を見ることができなければ、それぞれが触った部分から勝手に全体を想像することになり、理解は10人10色であるという「ことわざ」として世界中に知られるようになった。
 
というものである。神というものは、人間存在という盲人にとっては、象のようにその規模がまったくちがう故にそのあるがままの姿を捉えられない。逆にいうなら、捉えようがないものであるから、途方にくれるというのは、人間存在にとって、あるべき姿なのである。たとえそれがニヒリズム的であったり、無神論的な態度あっても、それは、フィヒテがいうがごとく、たとえ、理論的な信仰にとどまるにしても、自然な形で、「神を心で認めている」というような、逆説的でありながら本来的であるという姿となるのである。ましてや、私たちは、当たり前であるが、宗教的な意味での神というものを、この象の例に比するまでもなく、触ることなどできもしない。

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<私>の可能性 ① : その後@3

2006-01-20 00:00:00 | その後
ニヒリズム―その概念と歴史〈上〉

理想社

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ここでは、私という概念の可能性を探求して行きたい。1/25日に提出した卒業論文での議論をさらに拡張させ、今を生きる私たちに応用するという試みがこの「<私>の可能性 」である。このブログでのジャンルが、ビジネスの中のスキルという区分となっているのも、哲学というものを実生活に役立てるという、役立ちうるということを証明しようという私のライフワークのマニフェストである。

さて、以下、卒業論文での議論に加筆修正を施したものである。
まずは、サルトルという人物の哲学思想が、いかに、今を生きる私たちに応用されうるかということを見る前に、今と時代の気分をみておこう。

【ニヒリズム、神なき時代を克服するサルトル思想】

 サルトルが対自-即自をして自己原因者たらしめるにいたった神なき時代の実相というものを見ていこう。サルトル自身は、「1848年。王政の瓦解によって、ブルジョワジーは自分をも守ってくれた『覆い』を奪い去られる。一挙に<詩>は、その伝統的な二つのテーマ、すなわち<人間>と<神>とを失う。」 (J-P・サルトル,平井啓之,渡辺守章(訳)『マラルメ論』中央公論社,1983年,27頁)というように、1848年の二月革命によりナポレオンが大統領として即位したことを「神なき時代」の幕開けとして捉えているようだが、ここでは、哲学の範疇でそれを捉えられればと思う。
 
 【ニヒリズムの概念】

先の(ここも、次以降のブログを参照人されたい)サルトルの「神なき時代」の引用から見えることはどういうことであろうか?神なき時代が意味するところは、これまで頼りにしてきた価値観が崩壊を意味するということはいうまでもない。「神の喪失はニヒリズムの問題を提起する。その根底には根拠の喪失がある。根拠の喪失をさらに遡れば、究極根拠のとしての神の喪失、神の死がある」(岩波哲男『ニヒリズム-その概念と歴史』(上)理想社,2005年,65頁)というように、対自-即自存在としての人間存在が自ら神性を打ち立て、自己原因者たりえなければならない原因としては(このことに関しては、ここでは、次のブログを参照されたい)、根拠の喪失としての神の喪失がある。


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死:その後@2

2006-01-19 00:00:00 | その後
人間は、性的な経験に小さな死を求め
その地を求めるというのは、
バタイユの言説だが、
死という概念は、人生において、
肯定的にも捉えうる。

すべての終わり。
私という存在の終焉。
死すべきと想定した上での死の不在。
終焉の不在。
終焉という縁から転げ落ちるという意味での真の死ではなく、
人生という私の創り出した概念の中における虚構としての死。
縁ではなく、再生としての死。
再生としての死わたしたちは、いま死を操りうる存在としてここに在る。

written at 2006.1.27.am.1:18
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その後:その後@1

2006-01-18 00:00:00 | その後
その後
その後・・・
「その」という概念のあとに措かれる「後」
「その」の「前」を意識して上での概念
その後
前を否定しているわけでも、肯定しているわけでもない。
その「前」と「後」の絶え間ない断絶・・・
私という媒体は、いま「その」を境にその「後」に身を移していくこととなる。


written at 2006.1.27am1:12
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