chapter#9 死という意義
「私たちの最も深刻な恐れは、自分の力が足りないということではない。
私たちの最も深刻な恐れは、自分にあまりにも力がありすぎるということだ。
私たちが一番おびえているのは、自分の光であって、自分の闇ではない。
私たちは自問する。この自分に、輝しくて、華麗で、有能で、すばらしい人間である資格などあるのだろうか、と。
だが実際には、そういう人間であって当然ではないか。
貴方はこの宇宙が生んだ子供だ。
卑小な人間を演じていても世の中の役に立たない。
周りに不安を抱かせないように縮こまって生きていたら、誰にも光を与えられない。私たちは宇宙の栄光を明らかにするために生まれる。
そして、その栄光は私たちの中にある。一部の人の中にあるのではなく、すべての人の中にある。
そして私たちが自分を光り輝かせるとき、
私たちは知らず知らずのうちに他の人にも同じことを許している。
そして私たちが自分自身の恐れから解放されるとき、
私たちの存在は、自ずとほかの人も解放する。」
-マリアン・ウィリアムソン
ボクは、こんな言葉も以前ある本で読んだことがある。
「死というのは、体が上質な回復時間を求める究極の形なのだ。」
人が生きていく中でおそらく、最も醜いのは、その場で立ち止まってしまうという行為だろう。思考停止状態というか、あきらめ状態というか、人という存在は自分の価値を過小に評価する傾向があるのだろう。
過去に目を向け、甘美な香りに酔いしれ、現実という厳しさの中で足止めを食らう。
でも、そう考えてみると、現在から未来にかけては、過去よりより後退して耐え難いものになっていくということにならないだろうか?
過去は甘美ということは、現在は未来つまり、未来から見た過去という視点で見ると、少しはましなものということになる。
つまり、よりましなものとしての過去を乱立させるということは、その逆で、よりましでない未来を淫らに建設していってしまうことになる。
前の章で僕は死んだといった。
つまり、この章での以前読んだ本の言葉で言うと、決してボクは死んでいない。
死んだと自覚できるうちは少なくとも生きている。
ここでの死んだという意味はというと、ボクを構成していた一部がなし崩し的に崩れたという意味に他ならない。
今回の小説の主人公になろうとしているボクのケースで言うと、これまで、うぬぼれにまみれ、人生を序章から、次の章に移そうとしていたボクから、若さゆえのうぬぼれという感情が死んだということになろう。
世間的に見ると、健全な自信と、不健全とされるうぬぼれの差異はきわめて見出しづらい。どちらも本人の内的な感情に大きな差はあれ、外部からその見極めは難しいからだ。
ボクから、うぬぼれという感情は破壊されてしまったとしても、けっしてボクから、自信はなくならない。
なぜなら、ボクをなんとか、物語を書こうという勇気をわかせ、次の章を切り開いていこうとするその一部の大きな部分をなすものが自信という感情であるからだ。
周りの人間をこれまでの僕のように、コケおろしてしまうのは、僕という一人の人物の中からうぬぼれという感情が薄れてしまった今、非常に醜く感じてしまう。
しかし、ボクは自信を持って生きていくことに代わりはない。
生きていくうえで、おそらく幸せをつかむ上でひとつの重要な一因となるのが、自分に自信があるかということだろう。
未来をつくるものは、苦しいときでも、一歩を踏み出そうとすることを許す自信という媚薬だろう。
死んださばのような目をかなぐり捨て、目の下のクマを取り、第一部「まくあけ」へとそろそろ歩みを進めよう。
「私たちの最も深刻な恐れは、自分の力が足りないということではない。
私たちの最も深刻な恐れは、自分にあまりにも力がありすぎるということだ。
私たちが一番おびえているのは、自分の光であって、自分の闇ではない。
私たちは自問する。この自分に、輝しくて、華麗で、有能で、すばらしい人間である資格などあるのだろうか、と。
だが実際には、そういう人間であって当然ではないか。
貴方はこの宇宙が生んだ子供だ。
卑小な人間を演じていても世の中の役に立たない。
周りに不安を抱かせないように縮こまって生きていたら、誰にも光を与えられない。私たちは宇宙の栄光を明らかにするために生まれる。
そして、その栄光は私たちの中にある。一部の人の中にあるのではなく、すべての人の中にある。
そして私たちが自分を光り輝かせるとき、
私たちは知らず知らずのうちに他の人にも同じことを許している。
そして私たちが自分自身の恐れから解放されるとき、
私たちの存在は、自ずとほかの人も解放する。」
-マリアン・ウィリアムソン
ボクは、こんな言葉も以前ある本で読んだことがある。
「死というのは、体が上質な回復時間を求める究極の形なのだ。」
人が生きていく中でおそらく、最も醜いのは、その場で立ち止まってしまうという行為だろう。思考停止状態というか、あきらめ状態というか、人という存在は自分の価値を過小に評価する傾向があるのだろう。
過去に目を向け、甘美な香りに酔いしれ、現実という厳しさの中で足止めを食らう。
でも、そう考えてみると、現在から未来にかけては、過去よりより後退して耐え難いものになっていくということにならないだろうか?
過去は甘美ということは、現在は未来つまり、未来から見た過去という視点で見ると、少しはましなものということになる。
つまり、よりましなものとしての過去を乱立させるということは、その逆で、よりましでない未来を淫らに建設していってしまうことになる。
前の章で僕は死んだといった。
つまり、この章での以前読んだ本の言葉で言うと、決してボクは死んでいない。
死んだと自覚できるうちは少なくとも生きている。
ここでの死んだという意味はというと、ボクを構成していた一部がなし崩し的に崩れたという意味に他ならない。
今回の小説の主人公になろうとしているボクのケースで言うと、これまで、うぬぼれにまみれ、人生を序章から、次の章に移そうとしていたボクから、若さゆえのうぬぼれという感情が死んだということになろう。
世間的に見ると、健全な自信と、不健全とされるうぬぼれの差異はきわめて見出しづらい。どちらも本人の内的な感情に大きな差はあれ、外部からその見極めは難しいからだ。
ボクから、うぬぼれという感情は破壊されてしまったとしても、けっしてボクから、自信はなくならない。
なぜなら、ボクをなんとか、物語を書こうという勇気をわかせ、次の章を切り開いていこうとするその一部の大きな部分をなすものが自信という感情であるからだ。
周りの人間をこれまでの僕のように、コケおろしてしまうのは、僕という一人の人物の中からうぬぼれという感情が薄れてしまった今、非常に醜く感じてしまう。
しかし、ボクは自信を持って生きていくことに代わりはない。
生きていくうえで、おそらく幸せをつかむ上でひとつの重要な一因となるのが、自分に自信があるかということだろう。
未来をつくるものは、苦しいときでも、一歩を踏み出そうとすることを許す自信という媚薬だろう。
死んださばのような目をかなぐり捨て、目の下のクマを取り、第一部「まくあけ」へとそろそろ歩みを進めよう。