とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

一人称小説としての『こころ』(『こころ』シリーズ⑪)

2018-11-28 14:17:31 | 『こころ』
 夏目漱石の『こころ』を授業で扱いながら考えていることを書き続けているシリーズである。最近、一番考えるのはこの小説が一人称小説であることである。登場人物のひとりの視点による小説となっている。ただし、この小説は語り手が途中で交代している。「上」と「中」は東京帝大を卒業したばかりに青年であり、「下」は「上」と「中」においては「先生」と呼ばれていた男である。しかも「下」はその「先生」の遺書であり、「語り」というより文章である。書かれている内容は、時間的には「上」や「中」よりも昔である。一筋縄ではいかない小説である。

 さて、直感的に感じているのは「一人称小説」であることが、この小説においては重要であったのではないかということである。一人称小説では語り手の心理は描くことはできる。しかし、それ以外の人物の心理は推測するしかない。推測というよりも勝手な妄想に陥ってしまうことのほうが多い。しかも、次第に語り手の心理でさえ本当にそれが真実なのかがわからなくなってくる。

 心理描写というのは、後から考えたつじつま合わせにしかすぎない。この小説でも本当に「私」がそう考えていたのか、後から自分と折り合いをつけるためにつじつま合わせを心理たのかがわからないことが多い。つまり「こころ」はどんどん迷宮に陥るのである。

 なぜこの小説のタイトルが『こころ』なのか。その仕掛けが「一人称小説」だったのではないかと考えている。
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『こころ』は同性愛の小説なのか(『こころ』シリーズ⑩)

2018-10-12 15:14:44 | 『こころ』
 夏目漱石の『こころ』は同性愛を題材にした小説だという説がある。これはかなり説得力がある。

 そもそも「私」が「先生」と出合ったのは海水浴場であった。肉体を見せる場所である。「私」と「先生」の出会いに同性愛的な気持ちがあったのではないかと感じられてもしょうがない。しかも不思議なことに「先生」は西洋人の男と一緒にいた。他の日本人はできるだけ肉体を隠す姿だったのに対して西洋人の男は「猿股」だけを身につけ海水浴をしていた。「先生」とその西洋人も同性愛的な関係だったのではないかと疑わせる。もしそうでなければ、どうして海水浴のシーンを最初に出す必要があったのだろうか。それだけ読者にインパクトを与える場面である。

 「先生」とKの関係はさらにあやしい。Kと「先生」は愛し合っていたのではないか。もちろん潜在的な愛という可能性もあるし、あるいは「先生」の遺書は二人の愛を隠そうとする「先生」の嘘であったとも読み取ることができる。

 「先生」はKを愛していた、しかし、Kは静を好きになってしまった。嫉妬に狂った先生はKの裏切りに怒り、Kから静を奪い取った。Kは自殺をして「先生」は愛のない結婚を送ることになった。これはこれでつじつまが合うような気がする。

 我々の世代は同性愛に対するタブー感が強いのだが、これは儒教的な教えが強い太平洋戦争前後の世代だけのもののような気もする。江戸時代も明治もわりと同性愛に関してはタブー視されていない。最近はLBGTとして積極的に認めようという風潮も生まれている。『こころ』の同性愛についてはもっと真剣に検討してみてもいいテーマなのかもしれない
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夏目漱石『こころ』の授業(『こころ』シリーズ⑨)

2018-01-06 17:33:55 | 『こころ』
 高校の現代文の授業の定番『こころ』の授業実践のレポートです。

 『こころ』はどうやってもわりとうまくいく教材ですが、私はただ普通に授業をするよりも、より自主的に読むためにはどうすればいいかを考え、グループ発表型の授業にしています。ひとつのグループがひとつの章を受け持ち、教師の代わりに授業をするというものです。これは伝統的に行われている手法なので、実践している方も多いのではないかと思いますが、私なりにアレンジして実践しています。新学習指導要領の提唱する「主体的、対話的な深い学び」のためには、いい実践ではないかと考えています。

【授業の方法】
 生徒が教師となって授業をする。

 ・4人1組の班をつくり、班に1章ずつ割り振り、授業をしてもらう。

 ・班に割り振られるのは、現代文の教科書に載っている下の40章から48章まで。授業の前までに計画的に読書させ、一度通読させている。(本校の生徒の場合、これがけっこう苦労する。宿題に出し、要約させたり、内容にかかわるクイズを出したり、読ませる工夫をいろいろしている。)

 ・授業の内容は、与えられた章から問題を2つ出し、それについて班で意見を出してもらい、最終的に解答を導き出す。

 ・授業をする班は、文章をよく読み、問題となるところを見つけて、それに対する予想されるいくつかの答えと正解を準備しておく。

 ・問題を作るときのポイント
  ○すぐに答えのでるような問題ではなく、簡単には答えのでないような問題を考える。
  ○しかし、根拠を持った解答を用意できるようなものを作る。
  ○解答例を作るときは必ず根拠を明確にすること。
  ○予想される他の答えを二つは用意しておくこと。
  ○根拠のある新解釈を評価したい。

 ・授業が始まったら、班のメンバーが全員黒板の前に立ち、授業を進行する。
  ①章の朗読
  ②問題の提示
  ③各自で考える時間3分
  ④班で考える時間3分
  ⑤各班から答えを募る。討議
  ⑥教師役の班が最終的な正解を板書し、質問を受け付ける。
  ⑦振り返りをして終了。

【留意点】
 この授業をする以前から、グループ学習は頻繁に行い、グループで協力することに慣れさせておきました。もちろん小学校、中学校でもグループ学習には慣れていると思われます。以前よりもグループでの活動には抵抗がないように思われます。

 また、人前で話すことも計画的に行ってきました。人前で話すことは苦手な生徒もいると思いますが、最近の生徒はあまり物おじしませんし、露骨にいやがる態度にはなる生徒はいません。生徒なりに活動できるようです。

 まったく意見がでないことがあることを危惧し、授業全体を通して1人1回の発言を義務付けました。しかし、結局発言しなかった生徒もいました。生徒の自主性を待つべきだったのかもしれませんし、このあたりはどうしたらいいのかまだわかりません。
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「覚悟、-覚悟ならないこともない。」(『こころ』シリーズ⑧)

2018-01-01 15:48:18 | 『こころ』
 夏目漱石の『こころ』の授業で気づいたことを書き残します。

 Kの「覚悟」とはどういう意味だったのか。これは『こころ』の授業での定番の発問です。いくつかの考え方がでてきます。普通に考えられるのは以下の3点です。

 ①「お嬢さん」をあきらめる覚悟
 ②「お嬢さん」への恋につきすすむ覚悟
 ③自殺する覚悟

 「先生」は最初は①だと考えたのだと思います。その時は自分の恋敵になるKが「お嬢さん」をあきらめてくれると考えたのだから「先生」は余裕があります。しかし、その後Kが居直り強盗のように感じられ、②ではないかと勝手に疑い始めます。疑心暗鬼が自身の心を侵し始め、「先生」は動揺するのです。「先生」はKの「こころ」が読めません。それと同時に自分自身の「こころ」も制御できないのです。

 そして「お嬢さん」と「先生」が結婚することになったことを知ったKは間もなく自殺します。その時点で③ではないかとも考えられます。Kは道のためには「すべてを犠牲にする」ことを信条としていました。ストイックな生き方を自分で選んで生きていたのです。しかし、恋をしてしまった自分自身の「こころ」を制御できなくなってしまったのです。とすれば、Kの自殺の原因は、そんな自分の弱さに絶望して為ではないかとも考えられるのです。

 考えれば考えるほど、Kの心は読めませんし、「こころ」を制御できないという意味では「先生」は自分の「こころ」さえもわからないのです。そこにこの作品の大きなテーマがあるのではないか。

 オーソドックスな普通の読み方ですが、この部分を抑えておくことは必要なことです。

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「お嬢さん(静)」は先生をどう思っていたのか(『こころ』シリーズ⑦)

2017-11-21 18:04:02 | 『こころ』
 夏目漱石の『こころ』の授業をしています。昔からどうしても気になることがあります。それは次のセリフです。

「本人が不承知のところに、私があの子をやるはずがありませんから」

 これは「先生」が「奥さん」に「お嬢さん(静)」との結婚を申し込んだときの「奥さん」の言葉です。この言葉はお嬢さんは「先生」との結婚を願っていたことを示しているものと思われます。

 「先生」はKに対する疑心暗鬼からあせって、「奥さん」に「お嬢さん」との結婚を申し出たのです。しかし、このセリフを聞くと、あせる必要はなかったはずであり、一番喜ぶべきセリフであったはずです。同時にKに対する罪悪感を生み出す重大なセリフでもあるはずなのです。ところがそれがあっさりと紹介されているだけであり、その後の「先生」も感動も後悔もありません。しかもこのあと散歩に出た「先生」はKのことを考えていなかったと告白しています。これは一体どういうことなのでしょう。

 この部分の違和感はわたしをずっと苦しめています。授業をしながら今年も考えてみたいと思います。
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