とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

「それをやめるだけの覚悟」(『こころ』シリーズ⑥)

2017-11-02 18:50:45 | 『こころ』
高校生に夏目漱石の『こころ』の授業をしている時に気がついたこと。下の42章。

 お嬢さんへの恋を告白したKがどうしたらいいか相談に来たKに対して、「先生」は「精神的に向上心のないものは馬鹿だ。」と言い放つ。この言葉は以前Kから言われたものである。しかし実は「先生」自身がお嬢さんを好きだったために、Kにお嬢さんをあきらめさせるために策略的に言った言葉だ。

 さて、Kはこの言葉に追い詰められていく。自分の言葉によって追い詰められていくのは一番つらいことだ。人間は自分を裏切りたくないからだ。追い詰められたKは「もうその話はやめよう」と「先生」に言う。しかしそれに対して「先生」は「君の心でそれをやめるだけの覚悟がなければ、一体君は君の平生の主張をどうするつもりなのか。」と追い打ちをかける。ひどい男だ。

 問題はここの「それ」とは何かということだ。普段読み飛ばしてきたが、生徒に指摘されてわからなくなった。なんとなく思い込みで「お嬢さんへの恋」と考えてきたが、話の流れから考えると「話を続けること」ととるべきではないか。しかし「話を続けること」と考えると文の意味が通らなくなる。

 あきらかにここで「先生」は言葉の意味を捻じ曲げてしまったのだ。ここに冷静さを欠いた「先生」の姿があらわれているとも言える。生徒に指摘されたところだがおもしろい発見だ。
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「下36章の読解」(『こころ』シリーズ⑤)

2017-10-04 06:38:25 | 『こころ』
 夏目漱石の『こころ』を考えるシリーズ。
 いよいよ授業をしながら考えていく。生徒が教師役をする授業をする予定だが、最初に教師主導でやり方を示す。その題材として36章を取り上げ、問題を作成してみた。

問題 ①「幸いなことにその状態は長く続きませんでした。私は一瞬間の後に、また人間らしい気分を取り戻しました。」について。
「私」にとってKの告白は自分の人生を左右するほどの重大な事件でした。だからそこ「一つの塊」になってしまったのです。それほど重大な事件に遭遇したのに、「その状態」が「長く続かなかったのはなぜでしょう。」根拠をもって答えなさい。

(解答)先生はKの告白を無意識うちに予期していたから。

(根拠)三十三章でお嬢さんとKが一緒に外出していたことに気づき冷静さを失っている。

(解説)お嬢さんとKが好意を持っていたのではないかという疑念を、先生はすでに持っていたはずである。三十三章ではお嬢さんとKが一緒に外出していたことに気づき冷静さを失っている。また三十五章では歌留多でKに加担するお嬢さんに冷静さを失っている。Kとお嬢さんの関係を警戒し、常に様々なことを心の中で用意していたのは明らかである。だから、ショックを受けつつも、すぐに冷静を取り戻すことができたのである。

 この章の二段落目に「私の予覚はまるでなかった」と書いているが、これはおかしい。Kがお嬢さんを好きになることは十分予想できはずである。それなのにそれを認めようとしなかったのが先生の弱さである。自分の都合のいいように物事を解釈しようとしているところが読みとれる。

問題②「相手は自分よりも強いのだという恐怖の念が兆し始めたのです。」について、
Kに対して「恐怖の念」が兆すほどになったのはなぜか。根拠をもって答えなさい。

(解答)Kはすべてのことに対して命がけであったのに対して、先生は財力には余裕があり、生活の苦労をする必要がなく、恋愛においても命がけにはなれなかった。よってKには勝てないと思ったから。

(根拠)先生は生活に苦労しなくてもよかった。それに対してKは先生の援助がなければ生きていけるかもわからないほどの状態であった。先生はKのように命がけでいきていくことはできなと思ったはずである。

(解説)先生はKに対する劣等感があったと考えられる。ではその劣等感の正体とは何か。先生は自分の家を捨てたとは言え、まだ財産が十分過ぎるほどあり生きていく分には何の苦労もなかった。それに対して、家も財産もKはすべてを捨てている。先生にとっては生活と学問は別物ととらえていいし、恋愛も生活や学問と別物ととらえてもいい。それに対してKにとっては生きていくことがすべてであり、学問も生活もすべてひとつのものなのだ。そこに恋愛が入り込めば、恋愛は生死をかけた戦いになるはずである。このように考えれば先生にとっての劣等感とは、自分が苦労しなくても生きていけるという、苦労を知らなくともすむという甘い環境にあると言える。


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「『真実』の相続人」(『こころ』シリーズ④)

2017-09-13 08:08:46 | 『こころ』
 夏目漱石の『こころ』を考えるシリーズ。
 石原千秋氏の「『こころ』で読み直す漱石文学」を読みながら、感じたことを書き残しておきます。その4回目。

 第4章は「『真実』の相続人」。筆者はここで『こころ』から少し離れて、漱石は遺産相続の物語を繰り返し書いたことを指摘します。そしてその相続を3つのレベルで整理します。

 第1のレベルは『家督相続』です。漱石の小説を読んでいると、主人公はほとんど働いていません。なんらかの財産を持っているからです。そしてそこには金銭的な遺産相続が働いていることが多い。筆者はそれを丁寧に説明します。現代の人間が漱石の小説を読むとき一番感じるのは、お金の感覚の違いです。なぜ先生は働かないのか。うらやましくもあり、非現実的にも思えてしまいます。その問題を筆者は指摘しているのです。そしてそこには明治という時代の家督の相続というテーマが隠れていることを指摘します。現在で「家」の問題は残っていますが、当時の日本においては「家」は法律よりも優先される制度です。現代から見ればおかしく思える「家」の制度も、その時代に生きていた人間にとっては「当たり前」のもので疑問に感じることはあまりないはずです。漱石はその制度の中にいながら、その制度の違和感を描き出していたのです。

 第2のレベルは「趣味」の相続です。家督を相続する長男は、文人趣味も相続すべきだという漱石の意向を筆者は指摘します。「先生」の文人趣味は資産をもつ名家の長男で会ったから受け継いだものだと指摘しているのです。

 そして第3のレベル。これが「真実」の相続です。先生は青年に「真実」を受け継いでもらおうと遺書を残したのです。そしてフーコーを引用し、近代においては「性に関わる言説」が「真実の言説」であると主張します。その結果「先生」は「青年」に「女性に関する性的な謎」を遺したと指摘するのです。

 おもしろい指摘です。「先生」が「青年」に「真実」を相続しようとしたというのは確かにその通りだと思います。ただし、それが「性」に限っていいのかというのは、まだ納得はいきません。家制度から自由平等な社会への移行が近代なのだとしたら、自由平等の社会の象徴が自由恋愛であり、「性」だという意味で、近代は「性」の時代であるという考え方もわからなくもないのですが、もっと違う何かもあるような気もするのです。ここはもう少し考えてみたいところです。

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「静は何を知っていたのか」(『こころ』シリーズ③)

2017-09-09 15:38:03 | 『こころ』
 夏目漱石の『こころ』を考えるシリーズ。石原千秋氏の「『こころ』で読み直す漱石文学」を読みながら、感じたことを書き残しておくその3回目。

 第3章は「静は何を知っているのか」。ここでは筆者は「上」、「中」おける「私」である青年と静の関係について考察しています。そして青年は「先生」の死後、静と結婚し子供を作ったのではないかと推測します。私にはこの筆者の論理はかなり無理があるように思われます。状況証拠を無理やりこじつけて物語を構成しなおしたようにしか考えられません。

 確かに、「上」における静の様子を読む限り、「先生」と静の夫婦関係はかなり不思議なものであったようです。お互いに愛し合っていながら、しかし「先生」はこころの奥底まで打ち解けることはない。Kの自殺がその原因であったのだから、結婚してからずっとそのような調子であったのです。静はかなりのことを感じていたのではないかと思われます。だから、「先生」の死後、青年が静と結ばれる可能性もあるのではないかとは思います。「先生」が遺書を青年に送ったのも、静のことを託したいという思いがあったと考えることもできるでしょう。

 しかし、その読みは小説の解釈の幅を広げてくれるというだけで、確証のあるものとするにはあまりに無理があります。先生が青年の人生をそんなに狭い範囲にとどめておこうとしているとは思えません。

 先生は明治の精神とともに死ぬしかなかった。しかし青年には新しい時代の新しい世界で生きなければならない。私からは離れなければいけない。そう先生は伝えたかったとしか思えない。それが自然な読みであるように私には思えます。
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「いま青年はどこにいるのか」(『こころ』シリーズ②)

2017-09-01 07:51:00 | 『こころ』
 夏目漱石の『こころ』を考えるシリーズ。石原千秋氏の「『こころ』で読み直す漱石文学」を読みながら、感じたことを書き残しておく2回目です。

 第2章は「いま青年はどこのいるのか」。ここでは筆者は「上」、「中」おける「私」である青年について考察しています。筆者は青年は「先生」に対して批判的であり、自分が先生を乗り越える物語を語ったというのが、この『こころ』という小説の題材になった手記なのだと結論付けます。

 その根拠は次の通りです。先生は乃木大将の死んだ理由が解らないと遺書に書いています。そして青年に自分の自殺した理由がわからないだろうとも書いています。ところが青年は上四で「先生の亡くなった今日になって、始めて解ってきた」と書いているのです。それは青年が「先生」を乗り越えたということを意味しているというのです。

 それでは青年は何が「解った」のでしょうか。実は先生は「たったひとり」で死んでいくのですが、実はひとりではなく静という策略家がいて、ふたりで生きていたということが解ったと筆者は主張します。それが「解った」ことで青年は先生を超えることができたというのです。

 ここでの筆者の説明は重箱の隅をつくようなところがあり、私には無理があるように感じられます。しかし、「先生」の問題が青年に引き継がれていき、それが円環のなかにで繰り返されていくというのはこの小説の構造上の重要なテーマであり、青年は「先生」を乗り越えなければ、永遠に「先生」の苦しみは続くのです。ですから筆者の主張も納得できるところもあります。

 再度よく考えてみたいと思います。
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