とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

村上春樹「鏡」について①

2022-09-12 20:47:14 | 村上春樹
1.序論

 村上春樹は日本を代表する作家になった。そもそもがそれほどの作家なのかも私にはまだよくわからない。しかしおもしろい小説をたくさん書いているので、村上春樹の高い評価が固まっていくのではないかと期待できる。

 その際、村上春樹のどういう点が評価されるのだろう。まだそれは明確になっていない。

 村上春樹の評価が定まらない中で、教科書には載っている。しかし初期の短編がほとんどで、なんなのかよくわからない小説だらけなのだ。

 「鏡」も教科書に載っている。しかしこれを教科書に載せる意味がよくわからない。村上春樹は日本を代表する作家であり、教科書に掲載することに妥当性を感じる一方で、どのように読むか指針がまるでない中で教材になることに疑問にも感じる。指導書を読んでもどのように授業で扱うべきか判然としない。そもそこ指導書の解説がきちんと読み取っているのかが疑問に感じるのだ。

 今回「鏡」の読み方の一例を提示ししてみたい。

 続く


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『羊をめぐる冒険』1「君自身の問題」

2021-12-11 10:01:33 | 村上春樹
 村上春樹の『羊をめぐる冒険』を読んだ。今回が3回目である。1回目はこの本が出版されたころ、つまり30年以上前である。2回目は2年ほど前。読むうちに作者の仕掛けが見え始め、そしてテーマが見え始め、考えが深まっていく。さらに深く読んで読み解いていきたい。途中経過としていくつかの点を書き留めておく。

 妻と離婚することになり、「僕」は次のように言う。

 「結局のところ、それは君自身の問題なんだよ。」

 このセリフは自分の問題と考えようとしない現代人のことを描いているように思われる。
 
 この世の中で起きているあらゆることは「自分」の問題であるのだ。しかしそれを「自分」の問題とは考えようとしない。ましては離婚は夫婦ふたりの問題なのだ。離婚でさえ自分の問題であることを避ける。それが現代人なのだ。

 村上春樹がこの小説を書いていた時代、世の中は「しらけ」ていた。世の中の雰囲気に流され、楽に生きていくことが「正しい」生き方だった。自分の問題を避けているような気がした。「自分」を失っているのだ。それは現代まで続いている。

 『羊をめぐる冒険』は自分を取り戻す物語なのではないかという仮説を立ててみたい。
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間宮中尉の手紙(『ねじまき鳥クロニクル 第2部予言する鳥編』を読みました。その1)

2021-01-28 17:27:48 | 村上春樹
 村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル 第2部予言する鳥編』を読みました。心に引っかかったところを書いておきます。その1回目。

 第2部に入ると「僕」の妻が姿を消します。同時に様々な謎の中に「僕」は導かれていきます。

 「僕」は妻の兄の「綿谷ノボル」と会います。もともと「綿谷ノボル」と「僕」は相性が悪かったのですが、ここでもやはり「僕」は「綿谷ノボル」の言動にうんざりします。

 「僕」は「下品な島」の話を始め、「僕はあなたを見ていて、その下品な島の話をふと思い出したんです。」と言います。そして次のように続けます。

「ある種の下品さは、ある種の淀みは、ある種の暗部は、それ自体の力で、それ自体のサイクルでどんどん増殖していく。あしてあるポイントを過ぎると、それを止めることは誰にもできなくなってしまう。たとえ当事者が止めたいと思ってもです。」

 「僕」の言う下品さは、私には「権力」に思われました。つまり綿谷ノボルは「権力」のメタファーのように思われます。

 困難なことを成し遂げようと思えば権力があれば便利です。ですから人は権力を求めます。しかし権力は人間を歪め、世界を歪めてしまいます。一度出来上がった権力は暴走してしまい、手に負えなくなるのです。国家の暴走が始まり、戦争に向かいます。ここは権力のいびつさを語っている場面のように感じられます。
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間宮中尉の長い話(『ねじまき鳥クロニクル 第1部泥棒かささぎ編』を読みました。その3)

2021-01-24 08:22:30 | 村上春樹
 村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル 第1部泥棒かささぎ編』を読みました。心に引っかかったところを書いておきます。その3回目。

 第1部の最後は「間宮中尉の長い話」です。間宮中尉というのは「本田さん」とノモンハン事件のあった満州とモンゴルの国境付近で、とある作戦に参加させられ危険な目にあいながら、「本田さん」とともに奇跡的に生還した人物です。「本田さん」は「僕」とクミコの結婚を後押しした人で、予知能力がある人です。

 間宮中尉は「本田さん」からの遺書を受けとり、「僕」のもとへ形見分けに訪れます。そこで戦争時代の思い出を語ります。

 ナラトロジーの視点で言えば、この語りは、「僕」の一人称語りに入れ子型で取り入れられた一人称語りになります。

 間宮中尉の語りはこの小説で異質です。戦時中の体験談であり、非常に重く厳しい内容です。人間の皮を剥ぐシーンなどは、読んでいて気持ち悪くなります。

 この中でやはり注目してしまうのは井戸のシーンです。井戸が伏線としてあったからです。井戸が何を表しているのか。読者は井戸がこの小説の解くカギとなっているような気にさせられます。間宮中尉はロシアの将校に見つかり、カラ井戸に放り込まれます。間宮中尉は死を見つめながら井戸の底にいます。結局「本田さん」が間宮中尉を助けて帰国することになります。この井戸のシーンは何か大きな意味を求めざるを得ません。
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内容のないロジック(『ねじまき鳥クロニクル 第1部泥棒かささぎ編』を読みました。その2)

2021-01-11 11:31:39 | 村上春樹
 村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル 第1部泥棒かささぎ編』を読みました。心に引っかかったところを書いておきます。

 「私」の妻の兄は「綿谷ノボル」と言います。その綿谷ノボルについて「僕」は次のように言います。
 
 綿谷ノボルはそういう意味では知的なカメレオンだった。相手の色によって、自分の色を変え、その場その場で有効なロジックを作り出し、そのためにありとあらゆるレトリックを動員した。レトリックの多くは基本的にはどこかからの借り物であり、ある場合にはあきらかに無内容だった。(中略)大多数の人間がどのようなロジックで動くものかを実によく心得ていた。それは正確にはロジックである必要はなかった。それはロジックに見えればそれでいいのだ。大事なことは、それが大衆の感情を喚起するかどうかなのだ。

 「綿谷ノボル」のような意味のない人間が、今の世の中どれだけ多いか。そしてそういう人物が権力を持つような世の中です。かれらは自分が「知性」を持っていると考えています。不思議な自信を持っているのです。

 無意味なロジックに気づき、本当のロジックを持たなければなりません。勇気をもって戦わなければならないときもあるのです。
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