8月27日の朝日新聞「折々のことば」から引用します。
「これはいい手だと思って指す手は、あまりいい手じゃないことが多いんですね。(羽生善治)」
いい手と思って指す手は、相手にしても狙いが明確なわけで、可能性の幅は広がらない。感覚的に確信のもてない手、ということはにわかに読みのきかない意外な手の応酬のほうが、将棋では深みのある名局になりやすいと、棋士は言う。人との語らいも思わぬ展開になる時が楽しい。
的を射た言葉だと思います。霧が晴れたような瞬間を感じる時がありますが、それは実は錯覚だった。逆にその勘違いによって後で苦しくなるという体験は誰もが持っているのではないでしょうか。
私たちは生きている限り立ち止まることはできない。いや立ち止まることができないということが生きているということなのかもしれません。
「これはいい手だと思って指す手は、あまりいい手じゃないことが多いんですね。(羽生善治)」
いい手と思って指す手は、相手にしても狙いが明確なわけで、可能性の幅は広がらない。感覚的に確信のもてない手、ということはにわかに読みのきかない意外な手の応酬のほうが、将棋では深みのある名局になりやすいと、棋士は言う。人との語らいも思わぬ展開になる時が楽しい。
的を射た言葉だと思います。霧が晴れたような瞬間を感じる時がありますが、それは実は錯覚だった。逆にその勘違いによって後で苦しくなるという体験は誰もが持っているのではないでしょうか。
私たちは生きている限り立ち止まることはできない。いや立ち止まることができないということが生きているということなのかもしれません。