とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

なぜか『孤独のグルメ』

2018-04-17 07:55:43 | TV
 『孤独のグルメ』という番組にはまってしまった。原作・久住昌之さん、作画・谷口ジローさんによる漫画をドラマ化したもののようだが、私はマンガは読んだことがない。内容は個人で輸入雑貨商を営んでいる井之頭五郎が、仕事の合間に立ち寄った店で食事をする様を描くだけである。

 前半はちょっとした仕事の話。事件が起こるわけでもなくたいした内容ではないが、なんとなく主人公の心が多少揺れているのがわかる。その仕事がひと段落つくと「腹が減った。」と井之頭五郎が近くの店を探し始める。そしてその時の気分にあった店を発見し入店する。後半は店の中で自分のその時の気分にあったものを注文し、ただ食べる。それだけのドラマである。何がおもしろいのかと言われるとよくわからない。しかし私ははまってしまった。

 一人で見知らぬ店で飯を食べるということに、私が憧れがあるのかもしれない。しかしなかなか初めての店には入りにくいし、たとえ入ったとしても、周りの視線がや雰囲気が気になって心が落ち着かない。自分は金を払うお客なのに、どうしても神経質になってしまってかえって疲れる。だから、ラーメン屋などを除けばめったにひとりで外食することはない。ところが井之頭五郎は堂々としている。周りの客や従業員が時々は絡んでくることもあるが、基本的にはひとりの世界に浸っている。もしかしたら、私は孤独を楽しむことができる井之頭五郎に憧れているのかもしれない。

 ドラマでは実在する店が出てくるので、やっぱりそこに行きたくなる。不思議なドラマだ。
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『半分、青い。』はいいドラマだ

2018-04-15 08:27:38 | TV
 『半分、青い。』はいい。北川悦吏子さんの脚本がいい。さまざまなところで工夫がなされており、リアリティを維持しながらドラマがしっかりと展開しているからだ。

 例えば、松雪泰子が「すすめ」を生む場面。松雪泰子が、腎臓が弱いというハンデがあり、そのことが出産の危険性を感じさせ、出産場面にリアリティを与えている。そして松雪泰子と原田知世が同じ日に出産する。ふたりは対比的に描かれている。時にはお互いに対する嫉妬心が表に出てくる場面がある。しかしふたりが友人としてお互いを必要としていることがふたりの演技によって示されるので、リアリティのある微妙な人間関係を感じることができる。

 糸電話のエピソードもノスタルジックであり、リアリティを感じる。できるだけ長い距離と思って実験したことは多くの人がやっていることではないか。川を渡ってという所まではあまりに長すぎであるが、この長すぎがドラマを生む。渡し舟がまだあった時代、そこに橋がかかり渡し舟が消えていく。時代の変化を描きながら、亡くなった祖母と、祖母を失った祖父と三途の川を超えて糸電話で話をさせてあげたいというエピソードは、それだけで涙をそそる。

 よくできている脚本だからこそ役者さんの演技は自然にいいものになり、表情一つですべてを物語っている。

 今期の朝ドラは本当に毎日楽しみだ。
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さよなら安倍一族

2018-04-10 22:24:49 | 政治
 愛媛県の中村時広知事は学校法人「加計学園」の獣医学部新設計画をめぐり、安倍晋三首相の秘書官だった柳瀬唯夫経済産業審議官が「首相案件」などと述べたと記されているという面会記録について、担当職員が「備忘録」として作成していたことを認めた。

 こんなにも証拠が出てきて、それでも安倍晋三氏がこの国の首相として開き直っていられることに失望を感じざるを得ない。こんなにウソで固められた政府、もうダメに決まっているだろう。それなのにまだごまかそうとしているのだ。なんという総理だろう。こんな人間がこの国のトップなのだ。私は安倍晋三に対する憤りよりも、日本という国の程度の低さに絶望を感じてしまう。こんな国の国民であるという自分が情けない。日本人であることに恥じるしかないのだ。冷静に考えれば1億人分の1の責任なのかもしれないが、しかし、全責任は自分にある、そう考えてしまうのだ。それが国民というものだろう。こんなクソみたいな首相を誕生させたのは我々国民なのだ。この罪悪感から早く逃れたい。必死な願いだ。

 安倍晋三さん、あなたが本当にこの国を救いたいのならば、これ以上はあなたが総理ではいけません。総辞職してください。これ以上がまんできません。
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ハリルホジッチ監督解任は納得しがたい

2018-04-09 08:20:51 | スポーツ
 ハリルホジッチ監督が解任されるというニュースが流れている。確実な報道のようである。内部で何かがあったのかもしれないが、はたで見ている限りこの解任は理解しがたい。

 現在、日本のトップ選手は海外に出ている。しかし、海外のチームで安定してレギュラーとして活躍している選手はそれほど多くない。時々は活躍しているニュースはでるが、ではそれがその国のリーグで大きく評価されるほどのものかというとそれほどでもない。日本人選手の個々の力は、世界のレベルから見ればそれほどでもないというのが現状なのだ。

 だとすれば組織力を高める必要があるわけだが、海外にいる選手はなかなか招集できない。このような状況で監督の力量に過度に期待しても限度があるというのはあきらかなことだ。協会は監督の要請にできるだけこたえなければならなかったのに、それができていかったのではないか。それが大きな問題だったのである。

 ワールドカップまではあと2か月である。こんな時期まできて解任するというのはあきらかに協会側の不手際でしかない。もしハリルホジッチを解任するのならば、協会の責任も同時に問われなければならない。

 ワールドカップが近づいてきたのに、サッカーがまったく盛り上がっていないのはあきらかだ。話題にものらない。それが焦りの一番の理由なのではないかと邪推したくなるタイミングである。

 とは言え、スポーツは結果がすべてだ。しっかり結果を出してもらえれば前言を簡単に撤回したい。
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1年前シリーズ 百田尚樹氏「漢文廃止」を提唱 結論だけは一緒だが全然違う

2018-04-08 18:08:31 | 1年前シリーズ
1年前のブログを振り返るシリーズ。高校の国語には漢文があり、しかもそれがセンター試験で50点の配点になっている。あまりに比重が大きい。そのことを1年前に百田尚樹氏の意見に対する反論と絡めて意見した。以下が1年前のブログである。

 百田尚樹氏が「中国文化は日本人に合わぬ。漢文の授業廃止を」と語ったとネットに出ていた。百田氏が主張しているのは、日本人は「中国への漠然とした憧れ」を持ち、それが尖閣問題で日本人が中国に対峙する際に弊害になっている。日本人が「中国への漠然とした憧れ」を持つ理由は、日本人が漢文を学んでいるからだ、という論理である。とても乱暴な論理だ。根拠と主張が離れすぎていてまともな論理ではない。

 漢文を学んでいるという根拠をもとに、現在の中国に対して「漠然とした憧れ」を持っているという結論に達するとは思われない。これを言い始めたら、日本人は数学を学んでいるから論理的な思考をするはずである。理科を学んでいるから、科学的な思考をするはずである。

 百歩譲って「中国への漠然とした憧れ」を認めるとしよう。その際も中国の憧れが尖閣問題で日本人が対峙する際の弊害になっているという論理がわからない。中国に憧れがあるから、中国と戦争しようとしないということを百田氏は言いたいのだろうか。そんなに中国と戦争したいのだろうか。とても納得できる意見ではない。

 私は逆に日本人には根強い中国人に対する差別意識があるように感じている。中国人を下に見ようとしているというのが事実ではないか。百田氏はその典型であろう。

 以上のように考え、漢文履修の問題と尖閣問題を結びつけるのは明らかに無理があると思われる。

 私も漢文を廃止するという結論だけは賛成である。しかしその理由は違う。最近の高校生は学ぶべきものがたくさんある。国際化に向けた、英語の習得にはもっと時間をかけるべきだし、新しい情報分野やコミュニケーション法なども学ばなければならない。もちろん科学振興のために理数系の授業時間を十分に確保しなければならない。もはや時間が足りないのである。
 
 私は国語教師であり、国語教師の立場からも、現在の高校国語教育に大きな問題を感じている。これについては別のブログで紹介しているので、参照していただければ幸いである。簡単に言うと、これからの国語教育で一番必要になってくるのは、すべての教科の基礎となる言語技術の獲得だということである。そこに時間を割くためには、どうしてもどこかを削らなければならない。削るのは漢文が一番適当であろうと思われるのである。

 そもそも漢文の訓読は全員ができる必要はない。漢文の内容自体は古文の分野で扱ってもいいものである。返り点とかを気にしながら読む必要などないはずだ。また、むかしは漢文の学習は外国語学習としての意味合いも多少あったのではないかと思われる。中国語を読むという意味合いである。しかし、英語の学習がこれだけ盛んになればその役割はすでに終わったと言っていい。

 漢文が悪いと言っているのではない。大切な文化である。しかし、他にやらなければならないことがたくさんある中で、現在のような形で授業に位置づけられるのは、全体のバランスを欠くことになる。

 最低限お願いしたいのは、記述式の導入と同時にセンター試験から漢文を外すことである。それによって適正な扱いに変化してくるように思われる。
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