とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

「JAPAN e-portfolio」の許可取り消しの報道が変だ

2020-07-12 11:03:53 | 教育
 「JAPAN e-portfolio」の許可取り消しの報道はNHKが突然行いました。正確には「許可を取り消す方向で調整している」という内容でした。これがどうも胡散臭い。どうしてNHKだけがこの報道を行ったのでしょうか。

 文部科学省がNHKにリークしたのだということを言う人がいました。この報道がどういう影響を与えるか、この報道によってどれだけ世論に影響を与えるかの観測気球を上げたのだという意見でした。

 確かにそういう面もあったのかもしれません。許可取り消しについてどういう意見があるのかが出されてきます。その意見にどういう言い訳をするのかを準備しようとしているのかもしれません。

 もう一つの可能性として、この報道によって実際に許可取り消しを正式に発表した時の衝撃を薄めようとしていたのかもしれません。この報道が行われたのは水害の被害が出て、さらに危険性が高まっている時で、しかも新型コロナウイルスの感染者がいきなり増えた日でした。このニュースは朝出たのですが、東京の新型コロナウイルス200人越えの報道によって、完全に無視されたしまうニュースになってしまいました。もしかしたら、この無視されることを狙っていたのかもしれません。

 政府と電通がズブズブの関係であることがわかりました。電通の情報操作に国民はごまかされています。この「JAPAN e-portfolio」の許可取り消しの報道も、電通がらみの情報操作なのかもしれない、疑いすぎだとは思いますが、もう日本政府は信頼できないのです。

 NHKの報道の後は、どのマスコミもこの報道をしません。みんな黙っています。この不思議な状態が胡散臭く感じてしまいます。
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「e-portfolio」に騙された

2020-07-11 15:44:36 | 教育
 「JAPAN e-portfolio」の運用認可が取り消される見込みだというニュースがNHKから出ました。これはとても大きな問題です。まずは文部科学省が無責任でです。「e-portfolio」は大学入試に必要になるという触れ込みで始まりました。その責任を放棄してしまったのです。次に、ベネッセとの癒着の問題です。ベネッセは「e-portfolio」によって自社の「Classi」というアプリを学校に採用させました。ベネッセと文部科学省が癒着していたという疑惑が生じます。そして生徒の個人情報がすでに「e-portfolio」に流れているという点です。

 最初に「e-portfolio」とは何なのかの説明からしなければならないでしょう。

 「e-portfolio」とは、生徒の高校時代の実績を生徒自身が電子化し記録したものです。その記録はすべて「JAPAN e-portfolio」という運営会社のサーバーに残されます。この「JAPAN e-portfolio」はベネッセの関連会社であり、生徒のIDはベネッセによって割り振られます。つまり生徒の個人情報がベネッセに筒抜けになる可能性があるのです。

 2年前、私は1年生を担当していました。この「JAPAN e-portfolio」は大学入試に活用されるので、みんな登録しなければならないと上から言われました。もしかしたらその時も「大学入試に活用されるかもしれなく、どこそこの大学はすでに活用すると表明している」という程度だったのかもしれません。しかし。可能性があり、それが大々的にベネッセがふれまわるので、高校教員はやらなければならないと思ったはずです。いえ、みんなそう思いました。

 私も胡散臭いとは思いながらも、時間をかけて「e-portfolio」について調べ、時間をかけて生徒にその必要性を説明し、登録させ記録させました。

 同時にベネッセの社員は、この「e-portfolio」には自社の「classi」というアプリが便利だと強引な営業をかけてきました。「classi」というのはインターネットを使った学習アプリで、「e-portfolio」への記録も便利にできるようになっています。「classi」導入は管理職もなぜか前のめりの人も多くいました。このあたりも胡散臭さを感じていました。

 このように「e-portfolio」の導入は文部科学省とベネッセの無理矢理な姿勢がありました。そしてその裏にはある政治家の名前が常に取りざたされていました。多くの教員はそれを感じながらも、確証がもてない。生徒の大学入試を人質に取られているので従わざるを得ない。こういう愚かな流れの中で教育活動が行われていたのです。

 今回、「JAPAN e-portfolio」の運用認可が取り消されるというのはわるいことではありません。しかし、「e-portfolio」の大学への提供は今の3年生から始まるはずでした。その3年生のこの時期になってというのはさすがに遅すぎます。腹が立ちます。それ以上に心配なのは、すでに記録された生徒の個人情報はどうなるのでしょうか。きちんと対応してもらわなければなりません。

 そして、文部科学省はこのいきさつを隠すことなく丁寧に説明しなければいけません。そして、すくなくとも総理大臣と文部科学大臣は、高校生に謝罪しなければいけませんし、しっかりと責任をとっていただく必要があります。

 そもそもこのニュースの出方が胡散臭い。文部科学省のリークではないかという人もいます。まだ確定していないことをNHKだけが報道する。これは裏に何かあるに違いありません。

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「e-portfolio」の運用許可を取り消し報道 文部科学省とベネッセはきちんと説明しなさい

2020-07-10 19:33:51 | 教育
 7月9日のNHKのニュースは全国の高等学校に衝撃を与えた。「e-portfolio」の運用許可を取り消すという内容である。

 https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200709/k10012505501000.html

 この「e-portfolio」はほとんどの高校が導入に向けて準備を進めてきたものである。それをここに来て運用取り消しというのはあまりにひどい。

 このことについては今後、発言していきたいが、とりあえず2018年12月に書いたブログを再び掲載する。ぜひご覧いただきたい。

 タイトルは『ベネッセ』

 今日の朝日新聞に次のような記事が掲載されていた。

「『文科省、ベネッセに肩代わり依頼 416万円、識者招き』

 文科省からベネッセ側へ送られたメールの添付ファイル。「謝金」として1日あたり50万円、計250万円が記され、「ベネッセ様からお支払いいただきたい額」が示されていた。

 文部科学省が昨年、大学の評価のために米国から2人の委員を招いた際、1日あたり約50万円の謝礼を求められたものの、国の基準の約2万円しか支出できず、差額分をベネッセホールディングスの関連法人が負担していたことが関係者の話で分かった。文科省の担当者からはベネッセ側に対し、渡航費の一部も含めて計約416万円の支出を求めるメールが送られていた。文科省は内部監査の結果、「強要も便宜供与もなく問題なかった」と結論づけたが、識者は「癒着を生む恐れがある構図だ」と指摘する。」

 近年、教育界にベネッセの影響力は大きくなりすぎている。たとえば小中学生の学力試験はベネッセがおこなっている。国が認めた独占形態となっているのである。また高校においては、「e-portfolio」の導入に際して影響力を持ち、自社の製品を購入すると有利になるような誘導的な営業をおこなっている。また2020年度より、英語検定試験を大学入試に活用することになったが、「GTEC」というこれまでだれも知らなかった英語検定試験を作り、それを高校に強引に売り込みにかかっている。この「GTEC」は安さが魅力のために多くの学校が導入せざるをなくなっている。「学びの基礎診断」という試験を導入して、ベネッセの基礎力模擬試験を導入させるように強引に売り込みにかかる。さらには新テストにおける国語の記述式問題はベネッセ社がつくるというまことしやかなうわさが流れている。採点もベネッセがやるという。最後のはうわさだけかもしれないが、このようなうわさが流れるだけでも影響は大きい。いずれにしてもベネッセの商品を高校が導入せざるを得ないような教育改革が進んでおり、そこに強引な営業活動もあり、高校の現場はベネッセの下請けのような状況にすでになっているのだ。しかもベネッセの営業は態度がでかい。いったい何様なのかという態度で高校にやってきては、競争心をあおり、焦らせ、強引な売り込みをするのである。やくざ商売のようにも思えてしまう。

 教育に民間が参入するのは悪いことではない。現状の教育界は旧態依然としていて改革が進まない。これは公務員体質であることが大きな要因であることは間違いない。しかし現状では大きな問題がある。それは次の通りである。

 ①民間の思惑は教育自体にあるのではなく、自社製品の売り込みにある。だから本来の目的がいつの間にか忘れ去られ、ゆがんだ方向に改革が進んでしまっている。例えば、英語の4技能を重視することは悪いことではない。しかし、それを民間の検定試験をどれでもよく受験し、その結果を入試に用いるというのは明らかに公平性がたもつことができない。しかも議論が成熟しないままなし崩しで進んでいる。英語の検定試験に関しては早くから反対意見が有識者から多かった。しかし、きちんとした議論なしに進んでいたのだ。初期の段階からこのような反対だらけの状態というのはこの改革がゆがんでいる証拠である。

 ②民間の参入といっても、多くのものがベネッセが独占状態であり、競争がはたらいていない。比較ができないので現場ではしょうがなくベネッセに頼らざるを得ない状況ができあがってしまっている。もはやベネッセの思うままである。これでは民間活用の意味がない。

 いずれにしても、ベネッセは特別な位置にあり、そのベネッセが文科省の肩代わりをしているとすれば、これは癒着である。もっと厳しい目でチェックをいれてもらいたい。

 教育改革は必要である。それに民間の力を借りるのはいいことだ。しかし、変革には混乱がつきまとう。どさくさにまぎれてもうけに走る企業があれば、真の改革はありえない。現状はゆがんだ状態にある。だからこそ、東大、京大、東北大などが、英語の民間試験を要求しないという結論に至ったのだ。真の教育改革になるように、もっと議論を深めてほしい。同時に、ベネッセは偉くなりすぎないでほしい。

 文科省はもっとしっかりしろ。
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『レイニー・デイ・イン・ニューヨーク』を見ました。

2020-07-09 06:41:22 | 映画
 ウディ・アレンの新作『レイニー・デイ・イン・ニューヨーク』を見ました。おしゃれで野暮ったく、リアルな絵空事で、笑えそうで笑えない、アンバランスな現代のすれ違いドラマです。現代に対する違和感を感じるための映画なのかもしれません。

 主人公の男の子は特別にかっこいいわけでもないのですが、お金持ちで育ちがよく、なんでもこなしてしまう、もて男です。ニューヨークで生まれ差だちましたが、地方の大学に進学しています。同じ大学にいる彼女はかわいらしく、無邪気で前向きなジャーナリスト志望の女の子です。その女の子が有名監督の取材をするチャンスを得て、ニューヨークに行くことになります。男の子は女の子をニューヨークでもてなそうと計画をします。しかし、女の子は有名監督に気に入られ、試写会に招待されたり、脚本家の騒動に巻き込まれたり、有名男優に気に入られたりと、男の子との約束をすっぽかしてしまう事態に陥ります。一方男の子は女の子を有名男優に取られてしまい、やけになります。そんなドタバタの中、ニューヨークにいる母親の意外な秘密を知ることになります。この母親の秘密こそがこの話の鍵になります。

 現代人の不安定な日常を描いていて、すんなりとは入ってこない映画です。しかしすんなりと入ってこないのが「今」なのかもしれません。「今」という時代は人間の心が何かマスクでおおわれてしまっているようの、はっきりと見えない時代です。スマホ越しで生きている時代とも言えます。ニューヨークも今は夢と希望の町ではなくなってしまいました。ニューヨークの夢と希望は胡散臭さに変わってしまったのです。

 「レイニーデイ」にしたのはそんな質感を描きたかったのかもしれません。

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井上ひさしさんの思い出2『吉里吉里人』

2020-07-08 06:17:57 | 井上ひさし
 私が大学生のころ、井上ひさしさんの『吉里吉里人』が出版されました。当時大変な話題の作品でした。読んでみると、めちゃくちゃおもしろい。おもしろいだけではない。概念的に理解しにくいことが、小説によって理解できるようになります。衝撃的な作品でした。

 私たちは「国」というものを普通疑いません。「当たり前」の存在として考えています。しかし「国」という概念は当たり前のものではありません。例えば「バチカン市国」という国がなぜ存在できるのかを考えてみればわかります。「バチカン市国」はキリスト教の文化が世界中に広まり、しかもキリスト教文化が現在の世界で一番力があるから認められている国だと考えるべきなのです。だからもし現在の世界の権力がイスラム教にあるならば、「バチカン市国」は「国」として成立していないはずです。

 気を付けてみれば最近でもスコットランドの独立問題、カタルーニャの独立問題、台湾の問題など、「国」の自明性に揺さぶりをかけるような問題が次々おこっています。

 「国」というのは認識なのです。

 現在「国」の力を強くするのが主流です。「国」の力を強くするためには経済的な国際競争力を高めることが必要です。そのためには、為政者の権力を強くして中央集権的なシステムを作ることが手っ取り早い。しかしそれは地方の持っている独自の文化を失わせる危険性があります。地方の衰退はは本当の意味では国の力を衰えさせているのではないかと心配になります。「個性」が大切だと建前では言っておきながら、「個性」がどんどん失われている学校教育とそっくりです。

 『吉里吉里人』によって私は「当たり前」を疑うころを学ぶことができました。さらにこの考え方は言語論にも、貨幣論を学ぶときに大きなヒントになりました。

 地方が消えていく現在に、地方が生きていくヒントを与えてくれる名作です。
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