京都府立図書館の蔵書に、上海人民美術出版社編の中国陶瓷全集がある。その全集で見てみたいのは、巻26広東陶磁、27福建陶磁、29雲南陶磁、33広西陶磁である。
結果は図版の数もすくなく、満足のいくものではなかった。「福建陶磁」には同安窯の図版・記事ともすくなく、従来以上の知見は得られなかった。福建で鉄絵陶磁を焼成した窯に「磁竃窯」がある。口縁は釉剥ぎされており、北タイ陶磁に似通ってもいる。
「広東陶磁」にも鉄絵陶磁が存在する。ベトナム国境に近い雷州半島の付け根に「簾江窯」「南海窯」が在る。そこにも鉄絵陶磁が存在する。なかでも鉄絵菊折枝文盤は安南陶磁に類品が存在するとされているが、ここでの紹介は省略する。
上から海康窯の鉄絵蓋付壺、下は南海窯の鉄絵人物波濤文梅瓶である。南海窯のそれは、じつに緻密繊細な絵付けで、安南ではこれほどの物は見ない。
安南鉄絵陶磁は、磁州から沿海諸窯の影響を受けた。北タイの鉄絵陶磁はその安南の影響と見るのは、必然かと思われる。
従来は雲南の影響と考えていた。その雲南・玉渓窯には青花陶磁に混じり、鉄絵陶磁も存在する。その鉄絵文様は素朴で、手がこんだものではない。いかにも鄙びた感じであり、北タイらしさを見たのが混乱・誤解の始まりであったろうか・・・?
その玉渓窯の鉄絵壺の写真を掲げておく。しかし雲南陶磁は青花陶磁が大多数であり、鉄絵陶磁はごく少なく、安南が青花が現れても、鉄絵陶磁も多く残存したのと対照的である。
それにしても福建、広東の窯址情報を目にしない。現地に行くしかないのか? 行っても目にすることができるのか? 何かの書籍で福建に横焔式単室窯が存在すると、数行記事をみた記憶があるが写真も何もなく、真偽のほどが定かでない。
それらが明らかになれば、北タイ諸窯の創始は、タイ族南下による雲南伝播説ではなく、自信を持って安南経由説を唱えることができるのだが・・・。
結果は図版の数もすくなく、満足のいくものではなかった。「福建陶磁」には同安窯の図版・記事ともすくなく、従来以上の知見は得られなかった。福建で鉄絵陶磁を焼成した窯に「磁竃窯」がある。口縁は釉剥ぎされており、北タイ陶磁に似通ってもいる。
「広東陶磁」にも鉄絵陶磁が存在する。ベトナム国境に近い雷州半島の付け根に「簾江窯」「南海窯」が在る。そこにも鉄絵陶磁が存在する。なかでも鉄絵菊折枝文盤は安南陶磁に類品が存在するとされているが、ここでの紹介は省略する。
上から海康窯の鉄絵蓋付壺、下は南海窯の鉄絵人物波濤文梅瓶である。南海窯のそれは、じつに緻密繊細な絵付けで、安南ではこれほどの物は見ない。
安南鉄絵陶磁は、磁州から沿海諸窯の影響を受けた。北タイの鉄絵陶磁はその安南の影響と見るのは、必然かと思われる。
従来は雲南の影響と考えていた。その雲南・玉渓窯には青花陶磁に混じり、鉄絵陶磁も存在する。その鉄絵文様は素朴で、手がこんだものではない。いかにも鄙びた感じであり、北タイらしさを見たのが混乱・誤解の始まりであったろうか・・・?
その玉渓窯の鉄絵壺の写真を掲げておく。しかし雲南陶磁は青花陶磁が大多数であり、鉄絵陶磁はごく少なく、安南が青花が現れても、鉄絵陶磁も多く残存したのと対照的である。
それにしても福建、広東の窯址情報を目にしない。現地に行くしかないのか? 行っても目にすることができるのか? 何かの書籍で福建に横焔式単室窯が存在すると、数行記事をみた記憶があるが写真も何もなく、真偽のほどが定かでない。
それらが明らかになれば、北タイ諸窯の創始は、タイ族南下による雲南伝播説ではなく、自信を持って安南経由説を唱えることができるのだが・・・。