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『ハニワ展』を見て考えた・後編<卑弥呼と古墳時代の殉葬>

2022-08-22 08:45:15 | 古代日本

先ず埴輪について述べる。埴輪の「輪(わ)」は、輪のように並べて立てたことからとする説と、初期の埴輪は筒形の「円筒埴輪」が中心であったため、その形状からとする説がある。

(出雲の円筒埴輪:出雲弥生の森博物館にて)

埴輪の起源は、考古学的には吉備地方の墳丘墓に見られる特殊器台・特殊壺にあるとされ、それらから発展した円筒埴輪と壺形埴輪がまず3世紀後半に登場し、次いで4世紀に家形・器財形・動物形(鶏)が出現し、5世紀以降に人物埴輪が作られるようになったという変遷過程が明らかとなっている。

(吉備型特殊器台・壺 弥生時代後期 岡山市・津島遺跡資料館にて)

(出雲出土の特殊器台・壺 出雲市・弥生の森博物館にて)

(大和の特殊器台・壺 葛本弁天塚古墳出土・古墳時代前期 3世紀)

中国の歴史書『三国志・魏志倭人伝』に、「卑彌呼以死大作冢徑百餘歩徇葬者奴婢百餘人」とあり、邪馬台国の女王卑弥呼が死去し塚を築いた際に100余人の奴婢が殉葬されたという。これは所謂殉死(近年最も著名な殉死は乃木希典陸軍大将が、明治天皇大喪の日に殉死した)ではなく、卑弥呼の奴婢に無理やり死を与えた殉殺であろう。

しかし、実際の弥生墳丘墓において、確実に殉葬が行われたと捉えられる出土人骨や遺構の事例は確認されていない。福岡県糸島市平原遺跡3号墓周濠を、底部で見つかった朱や掘り込み形状から16人分の殉葬溝と見る原田大六氏の見解もあったが、今日の再検討報告では殉葬溝とは見なされておらず、同遺跡4号墓周溝内土坑墓1基のみに対し殉葬墓の可能性が指摘される以外は全て追葬墓と見なされている。

古墳時代においても、考古学的に確認できる確実な殉死の例はなく、普遍的に行われていたかは不明である。しかし、弥生時代の墳丘墓や古墳時代には墳丘周辺で副葬品の見られない埋葬施設があり、殉葬が行われていた可能性が考えられている。また、5世紀には古墳周辺に馬が葬られている例があり、渡来人習俗の影響も考えられている。

(馬の全身骨格 蔀屋北遺跡出土 大阪府立近つ飛鳥博物館にて)

魏志倭人伝や日本書紀がウソをついているのか?・・・との下衆の勘繰りである。前編でも記したが、日本書紀垂仁天皇条に殉死についての記載がある。やや長文だが転載しておく。

日本書紀巻第六 活目入彦五十狹茅天皇 垂仁天皇

廿八年冬十月丙寅朔庚午、天皇母弟倭彦命薨。十一月丙申朔丁酉、葬倭彦命于身狹桃花鳥坂。於是、集近習者、悉生而埋立於陵域、數日不死、晝夜泣吟、遂死而爛臰之、犬烏聚噉焉。天皇聞此泣吟之聲、心有悲傷、詔群卿曰「夫以生所愛令殉亡者、是甚傷矣。其雖古風之、非良何從。自今以後、議之止殉。」

卅二年秋七月甲戌朔己卯、皇后日葉酢媛命一云、日葉酢根命也薨。臨葬有日焉、天皇詔群卿曰「從死之道、前知不可。今此行之葬、奈之爲何。」於是、野見宿禰進曰「夫君王陵墓、埋立生人、是不良也、豈得傳後葉乎。願今將議便事而奏之。」則遣使者、喚上出雲國之土部壹佰人、自領土部等、取埴以造作人・馬及種種物形、獻于天皇曰「自今以後、以是土物更易生人樹於陵墓、爲後葉之法則。」天皇、於是大喜之、詔野見宿禰曰「汝之便議、寔洽朕心。」則其土物、始立于日葉酢媛命之墓。仍號是土物謂埴輪、亦名立物也。仍下令曰「自今以後、陵墓必樹是土物、無傷人焉。」天皇、厚賞野見宿禰之功、亦賜鍛地、卽任土部職、因改本姓謂土部臣。是土部連等、主天皇喪葬之緣也、所謂野見宿禰、是土部連等之始祖也。

(倭彦命陵 出典・Wikipedia)

以下、全現代語訳『日本書紀』宇治谷孟著による現代語訳である。『垂仁天皇二十八年冬十月五日、天皇の母の弟の倭彦命が亡くなられた。十一月二日、倭彦命を身狭(むさ・橿原市)の桃花鳥坂(つきさか・築坂)に葬った。このとき近習の者を集めて、全員を生きたままで、陵のめぐりに埋めたてた。日を経ても死なず、昼夜泣きうめいた。遂には死んで腐っていき、犬や鳥が集まり食べた。天皇はこの泣きうめく声を聞かれて、心を痛められた。群卿に詔して、「生きているときに愛し使われた人々を、亡者に殉死させるのはいたいたしいことだ。古の風であるといっても、良くないことは従わなくてもよい。これから後は議(はか)って殉死を止めるように」といわれた。

(日葉酢媛命陵 出典・Wikipedia)

三十二年秋七月六日、皇后日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)が亡くなられた。葬るのにはまだ日があった。天皇は群卿に詔して、「殉死がよくないことは前に分かった。今度の葬(もがり・殯)はどうしようか」といわれた。野見宿禰(のみのすくね)が進んでいうのに、「君王の陵墓に、生きている人を埋め立てるのはよくないことです。どうして後の世に伝えられましょうか。どうか今、適当な方法を考えて奏上させて下さい」と。使者を出して出雲国の土部(はじべ)百人をよんで、土部たちを使い、埴土で人や馬やいろいろの物を造って、天皇に献上していうのに、「これから後、この土物を以て生きた人に替え、陵墓に立て後世のきまりとしましょう」と。天皇は大いに喜ばれ、野見宿禰に詔して、「お前の便法はまことに我が意を得たものだ」といわれ、その土物を始めて日葉酢媛命の墓に立てた。よってこの土物を名づけて埴輪といった。あるいは立物(たてもの)ともいった。命を下されて、「今から後、陵墓には必ずこの土物をたてて、人を損なってはならぬ」といわれた。天皇は厚く野見宿禰の功をほめられて、鍛地(かたしところ・陶器を成熟させる地)を賜った。そして土師の職に任ぜられた。それで本姓を改めて土師臣(はじのおみ)という。これが土師連らが、天皇の喪葬(みはふり)を司るいわれである。いわゆる野見宿禰は土師連らの先祖である。』・・・以上、冗長ながら関連する部分を転載した。

(日葉酢媛陵出土 鰭付円筒埴輪 大阪府立近つ飛鳥博物館にて)

この日本書紀の野見宿禰伝承が、果たして考古学的に裏付け出来るか否か。以下、検証してみる。先ず日葉酢媛陵(佐紀陵山古墳)に人形や馬形埴輪の存在が認められるのか・・・と云う課題である。日葉酢媛陵は全長207mの前方後円墳で、周濠があり葺石や円筒埴輪列が巡っている。大正4年(1915)に盗掘に遭い、後円部頂に竪穴式石室があり、その上に蓋(きぬがさ)形、盾形、家形埴輪があったとされる。残念ながら伝承の人形埴輪の存在は不詳のようである

残念乍ら日葉酢媛陵に人形埴輪を認めることはできなかったが、人形埴輪である『最古の盾持ち人埴輪』が奈良県桜井市の茅原大墓(古墳時代中期初頭・4世紀末)から出土した。平成22年度の古墳発掘調査にて、東くびれ部の墳丘裾に楯持ち人物埴輪が立て並べられており、まるで人が埋め立てられたように見えた。

(盾持ち人埴輪 茅原大墓・古墳時代中期初頭・4世紀末 桜井市立埋蔵文化財センターにて)

この茅原大墓古墳の盾持ち人埴輪が、日本書紀が記載する野見宿禰及びその土師氏集団の手によるものかどうか判然としないが、4世紀後半には出雲と大和の埴輪を通じた関係が強く、野見宿禰のような人物による埴輪誕生の説話をもたらしたと考えたい。

それは、4世紀後半に出雲に突如現れた鰭付円筒埴輪(松江市上野1号墳出土)と、畿内の鰭付円筒埴輪(木津川市瓦谷1号墳出土)が極めて似ており、出雲と大和の直接的交流を示している。

(出典・『埴輪が語る出雲と大和』 高橋克壽氏)

話しはやや反れるが、出雲に多い方墳である。方墳はローカルな下級の墳丘形態とみられていた。5世紀に出雲が方墳を集中的に築いたのは、王権に対する特別な地位、身分であることを内外に誇示する狙いがあったと思われる。それは大王陵(天皇陵)の周囲に計画的に配置された直臣たちのとった墳墓形態と同一であることによる。そこが重要で、出雲の豪族は大王の直臣と、その係累につながっていた。つまり出雲の方墳は、大王墓の周りに展開する陪冢(ばいちょう)の墳形を採用したことになる。このことは、当時の出雲と大和の結びつきが強かったという証であろう。

(椅子に座る男性埴輪 大和・石見遺跡 橿考研付属博物館にて)

(出雲の椅子型埴輪 石屋古墳出土 出典・『埴輪が語る出雲と大和』)

それは埴輪の類似からも説明することができる。出雲の椅子形埴輪は、畿内と同様に再現して、いちはやく取り入れた当時の出雲の豪族(出雲王)の姿が浮かんでくる。また王権との関係がもたらした当時最先端の形肖埴輪群。これらの埴輪を作った工人は、共通の存在であったと考えられる。それは出雲王が近畿の大王と密接に結びついていた証であろう。

日本書紀が記した、日葉酢媛陵から殉死の変わりとしての人形埴輪の出土は、確認されなかったが、同じ古墳時代中期の茅原大墓古墳から出土した盾持ち人埴輪は、殉葬の変わりであると考えられる。つまり日本書紀はウソをついておらず、卑弥呼の死に際しての殉死百余人の魏志倭人伝記事は、信憑性を持つものと捉えたい。

<付録>

埼玉県本庄市前の山古墳出土の3体の盾持ち人埴輪(6世紀)は、石室の外側に盾を持って外を向いて立っており、うち2体は大笑いをしている。奈良・茅原大墓古墳の盾持ち人埴輪が殉死の代用とすれば、この前の山古墳の埴輪も殉死の代用である。それが何故笑っているのか。

(出典・本庄早稲田の杜ミュージアム)

遠藤耕太郎氏の著書に『万葉集の起源・中公新書』がある。そこには、雲南省モソ族の葬送儀礼が記されている。モソ族の葬送儀礼では、ハンバという悪霊を祓う歌舞がおこなわれるという。ダパと呼ぶ呪的職能者の指示により、村人二人が一組になり、鎧と兜に身を固め、腰に鈴をつけ木製の刀をもって奇声を発して悪霊を祓うと云う。

(出典・『万葉集の起源』 遠藤耕太郎著 中公新書)

最後にはダパそのものが登場し、同じ動作を繰り返す。その一連の動作が滑稽であり、参列者は笑いの渦に巻き込まれると云う。このようにハンバという悪霊を祓う歌舞儀礼は、死者の霊魂が無事に祖先の地に行けるように祈願する儀礼である。

鎧兜を身に着け、刀を持つダパは、古代日本の刀と戈を持って殯所(もがりところ・ひんじょ)に奉仕する遊部(注①)のネギとヨヒを想起させると、・・・遠藤耕太郎氏は記す。

ハンバの儀礼での笑いには、どのような意味があるであろうか。『古事記』天岩屋戸神話に見える、アメノウズメの神懸かりして胸乳を露わにし、裳紐を陰部まで垂れ下げるという呪的な歌舞を見て神々の哄笑は、生の力を顕現させることで悪霊を退治する働きがあるであろう。前の山古墳出土の3体の盾持ち人埴輪の2体は大笑いしているが、ハンバが舞う歌舞儀礼の笑いも、被葬者を死に至らしめた悪霊と、被葬者自身が悪霊と化すのを祓う呪力をもつものであると云える。2体の笑う埴輪は不謹慎でも何でもなく、被葬者の悪霊封じ以外の何物でもなかったのである

以上、最後は話しが飛んでしまったが、古代アジア人の死生観は何か通じるものがありそうである。記紀はデタラメで信を置けないと喧伝されるが、まったくデタラメではないと考えている。嬥歌(かがい・歌垣)は記紀並びに万葉集に登場する、それらは今日の中国南部や東南アジア北部の風習でもある。何かが繋がっているであろう。殉死もその一つと考えたい。

注①)遊部

日本古代において,大王の喪葬儀礼に従事した集団。埴輪の製作、大王陵の造営や喪葬儀礼に従事した氏族として、土師氏がよく知られている。遊部は、土師氏に統轄されて、殯宮(もがりのみや)内の諸儀礼に供奉する集団であったらしい。《令集解》喪葬令所引の古記(大宝令の注釈書)に遊部の由来について、詳細な記事がみえている。それによると、遊部は大和国高市郡にいて、垂仁天皇の庶子であった円目王(つぶらめおう)とその妻の伊賀比自支和気の女が生んだ苗裔であった。ネギもヨヒも殯宮での諸儀礼に奉仕する人々である。

<参考文献>

Wikipedia

『万葉集の起源』 遠藤耕太郎著 中公新書

全現代語訳『日本書紀』 宇治谷孟著

『埴輪が語る出雲と大和』 高橋克壽氏

<了>

 



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