2回に渡り、神仙すなわち羽人について記事を掲載したい。前編は『弥生人に銅鏡は何を語ったのか』とのテーマである。
ここでは方格規矩四神鏡を事例に考えてみたい。福岡県糸島市の平原遺跡(弥生時代後期末・3世紀中頃)から、合計22面もの方格規矩四神鏡が出土した。各鏡は破壊されたモノ、判読不能文字のモノもあるが、総合すると以下のような銘文が刻まれていた。
(伊都国歴史博物館にて)
「尚方作竟(キョウ・かがみ)眞大好、上有山人不知老、渇飲玉泉飢食棗、浮游天下放四海、俳徊名山採芝草、壽如金石國保兮(ケイ・ゲイ)」との文言である。
漢の時代の詩文体として、七言絶句と七言律詩がある。絶句は七言四句、律詩は七言八句で構成されているが、鏡背には前述の如く、七言六句で構成されている。これを何と呼ぶのか知識を持たない。
前述の漢詩は、神仙思想に他ならない。当時の弥生人、もっと云うなら卑弥呼は魏皇帝より銅鏡百枚を賜ったと、魏志倭人伝記すが、卑弥呼は銘文の意味が理解できたのか。前述銘文(漢詩)の一部の意訳であるが、“仙人有りて老いを知らず。喉が渇けば玉泉を飲み、飢えれば棗(なつめ)を食す。四海に遊び、名山を回って芝草(霊芝)を採る・・・との悠々自適な暮らしが刻まれている。
銅鏡百枚の他、多くの下賜品をたずさえて帯方郡からの遣使が伊都国まで来たと、魏志倭人伝は記す。その際に銘文の意味を伊都国や邪馬台国の役人が、尋ねたのか尋ねなかったのか。
話しを銘文から文様に移す。方格規矩四神鏡の文様が鮮明な鍍金方格規矩四神鏡(前漢・1世紀)で話しを展開する。写真に注釈を加えておいたので、それを参考にして頂きたい。
文様がある部分を『内区文様帯』と呼ぶようであるが、主要な文様に注釈を入れておいた。右上には羽人が描かれている。羽人とは羽根をもつ仙人で、仙界の食物である芝草(霊芝)を青龍(東)に与える羽人である。先に銘文について記述したが、銘文には「上には仙人有りて老いを知らず、渇いては玉泉を飲み、飢えては棗を食らう」とあり、不老不死の仙人が謳われている。いきなり文様の一部分から説明したが、この鏡の全体的な構成と文様の意味を説明すると、
1.中央の四角形は地を、外側の円は宇宙を意味する、いわゆる天円地方(古代中国の宇宙観)を表わす。さらに方位を司る四神を描く。当時の人々の宇宙観があらわされている。
2.アルファベットのT・L・Vに似た図形がある。これは天と地を繋ぐ網をかける鈎を表現していると云われる。方格にも方位を示す十二支銘が入れられ、整然とした宇宙の姿があらわされている。その整った宇宙は理想とされ、そこで陰陽が順調にめぐることで作物が豊かに実り、長寿を保ち子孫が繫栄し、国家の安泰が得られると考えられた。
以上の事どもが、当時の弥生人にどこまで理解されたのであろうか。弥生時代末期には、倣製鏡が登場するが、それは小型鏡であり本格的な倣製鏡の誕生は、古墳時代に入ってからである。その倣製された倭鏡の文様を構成するにあたり、中国鏡に表現されている宇宙観や思想が理解できていたのか。模倣された倭鏡は、中国鏡の図像が変形されていた。例えば玄武、青龍、朱雀、白虎が描かれてはいるが、図像が崩れているものや、本来方格内に配列されるべき十二支の文字が配列されていない事例が認められる。
これらの事例をどう捉えるべきであろうか。伝来の当初から意味が理解できていなかった・・・とも考えられる。卑弥呼が賜った銅鏡百枚の文様や
銘文の意味を、邪馬台国の役人は帯方郡使に尋ねなかったであろうか。
魏志倭人伝には次の如く記されている。“其年十二月 詔書報倭女王曰『制詔 親魏倭王卑彌呼 帶方太守劉夏―略―故鄭重賜汝好物也』”・・・つまり、其の年の十二月、詔書して倭の女王に報じて曰く、『親魏倭王卑彌呼に制詔(みことのり)す。帶方太守劉夏―略―故に汝に好物を賜うなり』・・・となる。更に“正始元年 太守弓遵 遣建中校尉梯儁等 奉詔書印綬詣倭國 拝暇倭王 并齎詔 賜金帛錦罽刀鏡采物 倭王因使上表 荅謝詔恩”。これは、正始元年、太守弓遵(きゅうじゅん)、建中校尉梯儁(ていしゅん)等を遣わして、詔書・印綬を奉じて倭國に詣(いた)らしめ倭王に拝暇し、并(あわ)せて詔を齎(もたらし)、金・帛・錦罽(きんけい)・刀・鏡・采物を賜う。倭王、使に因って上表し、詔恩に荅謝す・・・となる。
ここでアンダーラインの部分に注目して頂きたい。魏帝は卑弥呼に詔書を下した。正始元年には、詔書と印綬を下し、卑弥呼は答謝として上表文を倭王(卑弥呼)の遣使に託したと記している。これは邪馬台国の役人に漢文を読み、上表文を漢文で記すことができる者が存在すると云うことになる。このように理解すれば、先の方格規矩四神鏡の銘文を読むことも、内容を理解することもできたと思われる。
では、何故倭鏡の文様がオリジナルから崩れたのか。この問いに回答は容易である。将来時は先の如く、何たるかを理解できていたが、伝世するにつれて伝言ゲームの如く変質していったと考えられる。
以上、縷々記載したが、方格規矩四神鏡の将来時は、鏡がもつ意味と効用は理解していた。その表れが羽人(仙人)を模したと思われる線刻板絵や線刻弥生土器が数多く出土している。
(鶏冠の人頭土製品 松江・西川津遺跡出土 弥生前期)
(羽人・仙人に関する出土遺物の中から上掲遺物を紹介し、その他については次回紹介する)
これらは銅鏡将来時、それらの意味を理解していない限り出現しないものである。・・・と、云うことで銅鏡文様や銘文については、倭国の首長層や役人に理解されていたものと考えられる。
<次回に続く>
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