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纏向遺跡の建物遺構は太陽神殿か?・その3

2017-07-10 08:55:52 | 古代と中世

<続き>

纏向遺跡に於ける東西配置の建物遺構は、太陽神殿であろうと記してきた。稲作民にとって太陽と水は不可欠で、これらの建物は太陽崇拝の徒によるものであると考えられる。この東西配置の建物や都市区画は、島嶼部を除く南海・インドシナに見ることができる。ちなみに中国や朝鮮半島は北辰信仰からの南北軸である。中国はさておき、朝鮮半島・高句麗の国内城は、発掘調査の結果3世紀初めに建造されたというが、中国に倣い南北配置である。従って江上波夫が述べる騎馬民族かどうかは別にして、纏向の建物遺構は朝鮮半島渡来の人々によるものではなかろう

魏志倭人伝の南北里程記事は人口に膾炙されている。それによると少なくとも倭人のリーダーや知識階級に方位の概念は存在したはずである。当時の魏国の都城や宮殿は南北配置であったにも関わらず、そのような遺跡は日本で発見・発掘されていない。これは何を物語るか?・・・無視されたとしか思えない。

先日、大宰府の九州国立博物館での”タイ~仏の国の輝き~”展で、スーリヤ太陽神像を見た。ドバラバティー王国時代・7-8世紀の立像で、タイはぺチャブーン県シーテープ遺跡出土である。

シーテープと云えば過去に触れたが、モン(MON)族の環濠集落でドバラバティー時代からのものである。この遺跡はその時代からスコータイ時代までの遺構が残る。そのドバラバティー時代のカオクランノックの方形仏塔は巨大であるが、南北配置か東西配置か?どちらにも見える。そこで、やや時代が下るクメール様式のプラン・リンピーノンであるが、下の写真のように東西配置である。

噺は逸れるがスーリヤ像はほぼ例外なく、アーリアンやガンダーラ彫像にみる容姿である。従ってモン族が彫像する左右の眉毛が繋がる像と好対照である。スーリヤ太陽神といえば、バラモンやヒンズーの世界で、そのスーリヤ寺院と呼ぶインド・コナーラクの太陽神殿が下の写真である。見事に東西配置となっている。

モン(MON)族の出自は、はっきりしない点があるが、東インドであろうと云われている。してみればベンガル系統の水稲とともに、現ミャンマーやタイの地に東漸したことになる。そこでタイの当時の建物も東西配置のはずで、シーテープの事例を上述した。モン族以降タイ族国家が誕生する中世については、多くの建物遺構が存在する。それが下の写真である。写真はスコータイの王城内の寺院遺構で、何れも東西軸となっている。

これらは、モン族ではなく、タイ族が14世紀後半に建立しており、モン族のものではないが、当地の先住民はモン族であり、まったく無縁ではなかろう。またまた噺が逸れるが、これら3寺院の軸線は東西線といっても、北側に数度ずれている。このずれは纏向遺跡のずれに相当する・・・なぜズレまで同じなのか?

そうなると、スコータイのワット・マハータートと纏向の建物遺構の軸線測量の仕方が気になる。やはり太陽の徒であるからには、日昇と日没までの動きを利用したと思わざるを得ない。この太陽を用いた軸線の測定方法にインディアン・サークル法(古代インド人が用いていた)がある。また中国の周礼や淮南子にも同じ方法が記されているらしい。

 地表面に垂直に一本の棒を立て、その棒の影が写る範囲に棒を中心とする円を描く。午前中に棒の影が、この円上にきたとき円に印をつける。午後、再び棒の先端の影が円の上にきたとき印をつける。この二つの印を結んだ線が東西軸を示し、その誤差は僅か数分であると云う・・・とすれば、纏向の東西軸の傾きは何故であろうか? このインディアン・サークル法ではなく、何かの古代遺跡間を結ぶ線上とか、自然崇拝の高岳と何かを結ぶ線上に位置したものなのか? これは地表面に立てた棒が垂直ではなく、僅かな傾きの影響と考えても無理はなかろう。

とりとめのない噺を続けたが、纏向遺跡の建物遺構を建てた民族は、太陽信仰の徒であったろう。それがモン(MON)族ではないものの、稲籾と稲作技術をもたらした大陸南方の民族・百越の中の民族の影響を受けた集団であったろうと思われる。

 

                             <了>

 



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