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「陶磁器・パヤオ」シリーズ・37

2016-03-07 09:25:00 | 北タイ陶磁
<続き>

<パヤオと中国・安南陶磁>
●陶磁と技法の伝播ルート(1)
中国や安南から北タイへの中国陶磁や安南陶磁の運搬そのものや、陶磁装飾技法・焼成技法はどのようなルートで伝播したであろうか?
交易船により、インドシナ半島を南下し、タイ湾を北上してチャオプラヤー川口やアユタヤで川舟に積替えピン川、ナム川、ヨム川を遡上し、北タイに至った事例は皆無とは云えないが、地勢をみるにインドシナ半島内陸ルートによったものと思われる。
現代の内陸ルートの様子が、関千里著「ベトナムの皇帝陶磁」に以下のように記述されている。それは、Page7「はじめに」いきなり“それは、1999年に始まった。ベトナムの北部で新たに陶磁器が発掘され、国外へと運ばれたのである。出土品は五彩と青花のみで、これらは国境をなす西の高地を越えて、ラオスを通過し、メコン河を渡った。それを受け入れたタイの町は、主にノンカーイと北部のチェンコーンであったが、時にラオスからミャンマーを経由して北部のメーサイへ着いたこともあった。”・・・と記されている。
時代は中世にさかのぼる。大越国の黎聖宗(レ・タイントン)は、チャンパ征服に続いて1479年(洪徳10年)8月、諸将に命じて18万人の軍勢が国境の西側に接する哀牢、盆蛮(盆忙)、老撾に五方面から侵攻した。当時ルアンプラバーンに都を置く、ランサーン王国とランナーへの侵攻である。
               (出典:ウィキペディア)
ここで注目すべきは、中世に北ベトナムからランサーンやランナーへ至るのに、五のルートがあったことである。その中の一つは第一次インドシナ戦争でベトナムとフランスが戦い、フランスが敗北したディエンビエンフーの戦い。そのディエンビエンフーを南下するルート、更にはタインホアから国道15号で西行し、ラオスのサムヌアに抜けるルートも主要ルートであるが、次回ゲアン省のルートに注目して検討したい。
         (出典:タイ語系民族の居住地分布・上田博之氏著)
話は横にそれる。山川出版社刊「東南アジア史Ⅰ大陸部」に以下の記述がある。”近年の言語学者たちの研究では、南西タイ諸語(現タイ王国)話者たちの源郷を、今日のベトナム東北部と中国の広西壮族自治区の境界付近とみなす仮説が有力視される。そして、漢人やキン族(ベトナム人)の圧迫を受けた「タイ人」は7世紀頃から動乱状態にあり、11世紀に起こったとみられる集団的大移動の態様は、むしろ東から西方ないし南西方向への移動であったと考えられている。”・・・とある。
タイ族は元の南下圧力に追われ、雲南から南下したものとばかり考えていた。この記述には、仮説の出典が記載されておらず、信憑性が課題であるが、これが史実であるとすれば、タイ族自身が東南アジア内陸部を横断して、陶磁に関する技法を持ち込んだと想定すれば、拡大解釈であろうか?
  (ハノイ民族学博物館のタイー族高床式住居:近年タイでは見られなくなった)

                              <続く>
 




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