糸島市立志摩歴史資料館の展示品紹介を前回まで6回シリーズで掲載したが、その所在地である糸島半島で触れずに済ませない鉄刀が出土している。その鉄刀は糸島半島内から出土しているが、行政区画では福岡市西区であり、現物は福岡市埋蔵文化財センターで展示されている。
庚寅銘大刀(こういんめいたち)は、福岡市西区大字元岡に所在する元岡古墳群G-6号墳から出土した金象嵌の銘文を持つ6世紀の鉄刀である。
庚寅正月六日とは、当時の暦である元嘉暦において、西暦570年とされている。西暦570年頃と云えば、倭国が百済救援のため派兵を行っていた時期である。日本書紀によれば、西暦556年、百済の王子を警護のため筑紫の船師と筑紫火君の率いる千名を派遣したとの記事がある。筑紫火君とは、嶋(志摩)郡の肥君ないしは、筑紫君磐井の息子である葛子であろうと思われる。
ここで銘文によれば、西暦570年寅の日、寅の時刻に12回鍛錬したとある。何故寅の日の寅の時刻なのか。
話しは飛ぶ。大阪の信貴山朝護孫子寺(しぎさんちょうごそんしじ)の縁起によれば、聖徳太子が寅の年の寅の日、寅の時刻に現れた毘沙門天を感得し祀ったという伝承がある。毘沙門天とは武神・守護神にほかならない。
つまり、庚寅銘鉄刀とは新羅と戦っていた当時、糸島(伊都)から出兵していた首長に対し、戦の守護神である寅の字をちりばまめ、ヤマトの大王が授けたものであろうか? 授けられた可能性のある首長は、先に嶋(志摩)郡の肥君ないしは、筑紫君磐井の息子である葛子の可能性を記しておいた。
当該鉄刀の製作地は確定しておらず、朝鮮半島の可能性もあるという。鉄の組成分析をすれば分かりそうだが、仮に朝鮮半島産の鉄素材であったとしても、日本に運び精錬して刀を鍛造する可能性もあり、組成分析により鍛造地の特定は出来そうもないが、やはり倭地でしかも伊都で鍛造されたものと思いたい。
<了>
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