北タイの極一部であるが、チェンマイやその近辺の仏足石と涅槃仏を訪ねてみた。その目的はサンカンペーン窯の双魚文は、仏足石や涅槃仏の足裏文様と密接に関連していた・・・と考えているからである。結果として期待はずれもあったが、望外の喜びも経験した。訪問順に記述してみる。
<チェンマイ国立博物館>
先ずチェンマイ国立博物館である。14世紀のランナー様式坐像の足裏に、仏足石文様と同じように、魚文が刻まれている。しかし残念ながらその写真撮影は禁止されている。サンカンペーン窯と同時代資料であり、写真を撮りたかったが、残念であった。
当該博物館には、他にも彩漆螺鈿の仏足跡が存在する。残念ながらこれは1794年と解説されており、同時代資料とは成り得ていないが、その文様配置は隣国ビルマの様式を受け継ぎ、14-15世紀もそうであったろうと感じさせるものであった。その中に魚文は存在した。それは螺鈿で表現されているが、ところどころ剥落しているものの、はっきり魚文と認識できた。しかしその魚文は小さく、どのような魚の種類であったかについての、検討は無理である。
当然これも写真撮影禁止であるが、当該博物館のパンフレットに写真掲載されていたので、それを転載しておく。
<ワット・チェデエィールアン>
仏塔の後ろに涅槃仏が安置されている。仏陀の尊顔もこれといった表情はなく、金箔の質が今一つであろうか、印象にのこらない。その涅槃仏の足裏に文様はなく、多少なりとも期待はずれであった。
涅槃像はセメントと云おうかコンクリート製で、ペンキを塗っていたような形跡があり、興味がそがれることはなはだしい。通常涅槃仏の頭部は方角上北(北枕の語源)になるが、この寺院では西を向いており、その方位については厳格には守られていないようである。
<ワット・プラシン>
ランナー朝第5代・パーユー王の建立で、チェンマイでは、あまりにも著名な寺院である。特に礼拝堂の建物そのものや、プラシン仏はランナー様式の代表と思われる。また本堂の壁画は古く、北タイの風俗を研究する上では欠かせない。
ここの仏塔は辰年生まれを守る仏塔で、辰年生まれの参拝者が絶えない。しかしながら、仏塔は古色を感ずるものの、すばらしいとの印象はない。
ここの涅槃仏は、足も枕を敷いており、造形的な美は感ずるが、金箔の質は悪く尊顔も今一つで、足裏に文様はなく、セメントとペンキの剥落もあり、印象にのこらない。
この涅槃仏は北枕どころか、頭部は南向きであり、形にとらわれないのは、タイ人の面目躍如か?
<ワット・プラプッタ・バットタークパー ランプーン>
この寺院はランプーン県パサン地区にあり、チェンマイ盆地の南端の山塊の麓で標高が少しあり、遠方の盆地の様子がよくわかる。寺域はひろく多くの堂塔伽藍が建ち並んでいる。仏足石は一番手前の堂に安置されている。
辺りは赤い色の岩盤に覆われ、どうもその岩盤に仏足が穿たれているようで、その仏足石を覆うように堂が建っている。みると大小二つの仏足石で、一列に並ぶ配置となっていた。その足跡は無紋で、金色に輝いているが、金箔をはったものか、金色のペンキなのか判然としない。しかし、ご利益を求めて多くの賽銭に覆われている。
日本の仏足石を見ている眼には、多少なりとも違和感がある。魚文がある訳でもないので早々に後にした。
<ワット・プラーノンモンチャーン ランプーン>
ここの涅槃仏は新しいと思うが、実に仏陀の顔立ちが良い。それは下目つかいであるが、何か慈愛のようなものを感ずる。また金色ペンキではなく、きっちり金箔で装飾されているのがよい。
その足裏をみると一列状に爪先から、小さな魚が、中央には法輪が陰刻され、かかとには大きな魚が描かれている。魚文は大小ともに黒い線で描かれ、漆であろうと思われた。しかし、その足裏の前に写真のように、無粋にもチーク材にタイの田園光景を彫り込んだ額が掲げられ、右の足裏は隠れてしまっている。
魚文の様式は、東南アジアで広く普及しているものから離れ、自由闊達で単純化されており、なにかすっきりした想いが残った。
<ワット・プラタート・ハリプンチャイ ランプーン>
ハリプンチャイの故地に建つ名刹である。寺域も広くどこにあるのかと探した。それはセメントでつくられ、写真のように一番大きな外枠に相当する仏足、更に細分化された仏足と、あわせて四つの仏足が刻まれている。
賽銭と共にゴミも落ちており、セメントの無味乾燥と相俟って、とても有難味があるとも思えない。
<ワット・プラケーオ・ドンタオ ランパーン>
この寺院の由来を事前調査していなかったが、寺域のひろい寺でビルマ様式の仏塔は内部が御堂になっており、その装飾がすばらしい。それは韓国・釜山で参拝した梵魚寺の装飾と似通っているのが印象的である。
この寺院に涅槃仏があった。像は多分コンクリート製であろうが、一応金箔らしきものが貼ってあり、その像は涅槃そのものであるが、顔立ちはランプーンのWat Phra Norn Mon Charngには及ばないと思われた。注目の足裏文様であるが、無文であったのが残念である。
<ワット・ポンサヌックヌーア ランパーン>
この寺院も由緒を調べておらず、且つガイドブックにも掲載されておらず、今まで見てきたように期待はできなかった。しかし偶然の産物であるが、涅槃仏の足裏文様を描き込んでいる場面に遭遇した。
見ると、金箔がところどころ剥げ、足裏文様も含めて補修しているという。その御堂は鍵がかかり、堂内に入れなかったのだが、足裏文様を描き込んでいる職人さんに、声をかけると開けてくれた。涅槃仏の下側の足、つまり右足裏の文様は描き終わり、今は残りの足裏に文様を描いていると言う。見ると腕前は相当のようだ、しかも若い職人である。
その文様は足裏を108に区画し、そこに中世以来の伝統的な文様が描き込まれている。見ると、探し求めた二匹の魚が波頭に飛ぶように描かれている。まさしく双魚文である。その様子からは淡水魚ではなく、海水魚のように思われるが、どうであろうか。
釈迦の尊顔は慈愛にあふれ、いい御顔であり、先に見たランプーンのWat Phra Norn Mon Charngの涅槃仏と双璧との感じを抱かせる。
仏足石はいずれも新しいものの無紋で、その古様を示しているが、コンクリート製であったりして、個人的には今一つの感じである。一方仏足跡としての、涅槃仏の足裏文様は、見るものが多かった。
サンカンペーンの盤に用いられる、双魚文との関係を実際の目で確かめたいとの想いで巡った。サンカンペーン窯のそれは、直接的にはパヤオ窯を含めたタイ北部諸窯を経由した、中国の影響が考えられるが、それを受け容れる下地、あるいはそれ以上の存在感として仏教が、影響していたであろうとの想いである。残念ながらチェンマイ国博の同時代足裏文様の写真撮影はできなかったが、そこで用いられたであろう文様の証左らしきものには、巡りあうことができた。
北タイの仏教受容と魚文の下地が、サンカンペーンでの双魚文を支える土壌であったと、再認識した次第である。
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