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須弥山ワールドと北タイ陶磁文様・#1

2017-07-29 06:46:37 | 北タイ陶磁
北タイ陶磁文様については、仏教関連文様の多さに気付く。なかでも須弥山世界を表した壮大な文様も存在すると云う。今般はそれに関する噺である。
 
仏教の教義については知識も興味も無いが、形而下的なものには興味津々である。先ず日本での須弥山に関することについて眺めてみたい。
日本への仏教伝来は『日本書紀』によると、飛鳥時代552年(欽明天皇13年)に百済の聖明王より、もたらされたとあるが、『元興寺伽藍縁起』によると538年(宣化天皇3年)に伝えられたとする。この時伝来した仏教経典には、どのようなものがあったのであろうか?
時はやや下り、厩戸皇子(聖徳太子:574-622年)は『法華経』、『維摩経』、『勝鬘教』の解説書『三経羲疏』をあらわしたとある。この三経典に須弥山思想が述べられているかどうか、勉強不足で分からない。
仏教を巡っては、物部・蘇我両氏で争いがあり、用明天皇(在位:585-587年)の後継者を巡る争いで、物部守屋が滅亡するまで続いた。この戦で厩戸皇子が馬子側で参戦し、四天王に戦勝を祈願した。その願いが叶ったことから、摂津に四天王寺を建立したと云われている。
この四天王は須弥山の第四層に住まいしていることから、当時既に須弥山思想は伝来していたと考えても良さそうである。
 
(どうでもよい噺を挟んで恐縮である。写真は仏師の指導を受けて刻んだ北方の守護神・多聞天である。残る東西南に挑んでいるが、時間が掛りにかかっている)
『日本書紀』推古天皇二十年(612年)の項が、須弥山の初出だと云われている。それには・・・是の歳、百済国より化来る者有り、・・・略・・・仍りて須弥山の形及び呉橋を南庭に構らしむ・・・と記載されており、更に斉明天皇五年(659年)に・・・吐火羅の人、妻舎衛婦人と共に来けり。甲午、甘樫丘の東の川上に須弥山を造りて、陸奥と越との蝦夷に饗たまふ・・・と、この一文は我が国最初の庭園が、仏教的世界観を象徴したものであったと述べている。
(出典:グーグルアース)
その須弥山石が明日香村字石神より出土した。それは上・中・下と三つに分かれた石が出土したが、復元すると本来4分割されていたとのことである。各々の石の内部は刳りぬかれ、底から水を引き上げて、四方の小孔から水が噴き出せるようになっていたとのことである。 
俱舎論によれば、無熱悩地(Anotatta湖)から四方に大河が流れ出しているが、この須弥山石の四方の小孔から水が噴き出る仕組みは、それを具現化したものであろう。
イメージ 1
(写真はバンコクのワット・サケット布薩堂の壁画でアノータタ湖が描かれ四方に大河が流れ出ている)
後世、須弥山式とか九山八海(くさんはっかい)とか呼ばれる築庭様式がある。須弥山石を中心に内側の持双山から最外辺の鉄囲山(てっちせん)までの八山(須弥山を含めて九山)と、間の八海を石と苔で表現する様式である。写真は島根県益田市万福寺の伝雪舟庭園で、前述の須弥山式で作庭されている。中央最も高い位置にあるのが須弥山石である。
(現地にて撮影) 
話は飛鳥時代に戻る。我国で最も著名な須弥山と云えば、法隆寺の玉虫厨子の須弥座背面に描かれた、須弥山世界である。須弥山頂上の宮殿は善見城で帝釈天が住むと云われ、その左に烏が住まう太陽を右には兎の月を描いている。それが良くわかるのは復元された玉虫厨子で、それはhttp://www.nakada-net.jp/chanoyu/tamamushi/pictures.htmlに詳しいので、一度御覧願いたい。
 
このように日本では飛鳥時代以降連綿として、須弥山世界という仏教的世界観が存在したのである。

                             <続く>


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