<続き>
前回に続き、これはと思う石人石馬の数点を紹介すると共に「石人石馬の源流」について、考えていることを記してみる。
◎石人石馬の源流考
石人石馬の源流について考えてみたい。「倭の五王」は、西暦421年以降、計10回にわたって宋へ使者を派遣した。中国側の史書である「宋書」、「梁書」や「記紀」は何も語っていないが、倭の五王の遣使には北部九州の首長層が、何らかの関与をしていたと考えられる。
つまり、その使者は宋都・建康(南京)の陵墓に並ぶ、石人石獣を実見していたかと思われる。その伝承は、北部九州の首長層に語り継がれたものと想像できる。
過去、関釜フェリーにて釜山へ旅行した際に金海の金首露王陵を訪ねた。王陵には石人石獣が並んでいた。王陵の築墳は4世紀後半頃と思われるが、その石人石獣の築造年代は何時頃であろうか。朝鮮半島での石人石獣の出現は、新羅の半島統一後との見解もあるようだが、中国の事例に鑑みれば、遥かに遡る時代であったと考えられる。
金首露王陵にて
その当時、筑紫君磐井は独自に新羅と交易を行っていた形跡がある。新羅王陵の石人石獣の存在は知悉していたであろう。岩戸山古墳に並ぶ石人石馬は、埴輪を写したものとの見解が有力であるが、そのベースは中国や朝鮮半島の石人石獣であったと考えている。
次回は「筑紫君磐井と捩り環頭大刀」につて、考えることを記したいと考えている。
<続く>
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます