過日、佐賀県立名護屋城博物館へ。遠い、唐津市街からも40分程度を要したであろうか。名護屋は城を築くには良好な地形のように目に写った。名護屋城博物館も、断崖の上に位置しているであろうとの景色である。
博物館へのアプローチの右手には、写真の名護屋城の石垣を見ることができる。
御覧のように、博物館の建物は高台に在る。
展示物を観ていると売りは、幾つかありそうだ。秀吉の文禄・慶長の役の関係上、朝鮮半島の品々もそれなりに展示されている。合わせて蒙古襲来と先の朝鮮の役関係資料である。歴史時代の事物についてはあまり興味をもたないが、蒙古襲来と朝鮮の役については、それなりの関心を持っている。その意味で、当該博物館の展示物はよかった。
先ず、エントランス前でトルハルバンが迎えてくれる。エントランスを入ると長柱・チャンスンを見ることができる。
この2点を見るに及び、並みの博物館と異なる印象である。キャップションには結界という表現がないが、集落の入口に設置される事例が多いようだ。また、チャンスン単独ではなく、鳥竿・ソッテと共に鎮座している。古代のチャンスンは、雲南から北タイに分布するアカ族の男女交合像や近江に見るオッタイ・メッタイ(男女の木偶)の如く、男根・女陰をもつ像であったであろう。儒教を受け入れたことから、現在の姿になったかと思われる。
秀吉が名護屋滞在時の建物が、想定復元されている。文治派である三成と武断派である清正・正則との亀裂は、朝鮮の役により修復不可の決定的なものとなった。『関ケ原』の萌芽であった。
李舜臣率いる亀甲船団に苦しめられたが、その模型が展示されている。窓らしい窓はなく、大砲が周囲を囲み、屋根には鉄鋲が並ぶ。これでは日本軍の武士は、飛び移ろうとしても串刺しなるだろう、火矢を浴びせるしかないような気もするが・・・等々、朝鮮の役に関する展示物は後日紹介する。今回はココまで。
<続く>
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