世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

須弥山ワールドと北タイ陶磁文様・#3

2017-07-31 07:01:02 | 北タイ陶磁
<続き>
 

三界経(Traiphum トライプーム)とは上座部仏教の伝統的な教理書である。タイでは『トライプーム・プラルアン』がスコータイ朝の第5代・リタイ王(1354-1376)によって、1345年あるいは1359年に約30種の経典類を資料に編纂されたとされる。

歴代王は、トライプーム・プラルアンに見られる、仏教的宇宙観に従って国王=須弥山というイメージを使用し、タイ国民の支配と統合のイデオロギーとして使用したと、『タイの仏教寺院壁画における景観とコスモロジー表現』という論文のなかで山野正彦氏は説明しておられる。この山野正彦氏の説明がランナー朝に適用できるかどうか、については前回までの記述通り、同時代資料がないだけに断言はできないが・・・。

ランナー領域であるチェンマイ県メーチェム郡にワット・パーデート(Wat Pa Daet)なる寺院が存在する。その布薩堂は1888年の建立という。

イメージ 1
(ワット・パーデート布薩堂  出典:グーグルアース)
その布薩堂入り口を入った、すぐ左手の側壁に壁画が描かれている。それは須弥山世界図の全景で、釈迦の忉利天からの降臨を表したものである。その中央部にはインドラ神(帝釈天)より下層に住む神々(天)が、左側下部には地獄の釜に入れられた亡者の姿が描かれ、右側は釈迦の降臨場面が、須弥山の基底部は大海で大きな魚が描かれている。
イメージ 2
(出典:山野正彦氏前述論文)
山野正彦氏によると、ワット・パーデートの壁画のインドラ神、須弥山、大海などは、王が背後に宇宙を背負い、コスモロジカルな権力を付与されることを象徴しているとし、忉利天(須弥山の頂上)から下界に降臨してくる仏陀の姿は、王に化身して現世を治めているというイメージを強く沸き立たせるとしている。

これらの事柄がランナー朝建国当時の宮殿なり、守護寺院の壁画に描かれていたかどうかは不明である。しかし、牽強付会のような気がしないでもないが、中世ランナー世界もこのようであったかと、考えている。

一度は、このワット・パーデートへ行ってみたいと思っているが、所在するメーチェム郡はオムコイ郡と並び山奥の山奥である。チェンマイから南下しチョムトーン市街の手前を右折し道なりに進むと、チェンマイから約90km走行地点で、ドイ・インターノンとメーチェム分岐に至る。ワット・パデートはその分岐から更に20km以上、山中を走行することになる。片道3時間以上は覚悟する必要があり、未だ訪れることができずにいる。

イメージ 3
横道に噺がずれて恐縮である。須弥山世界を感じさせるものに仏足跡がある。それは仏足石であったり涅槃仏の足裏文様で、108に区画された吉祥文を升目仏足石とか升目仏足跡と呼んでいる。それの最古はビルマのタイエキッタラ時代(5-9世紀)のものといわれるが、既にピュー(驃)王国時代に出現していたとのことである。タイでの升目仏足石は、シーサッチャナラーイのワット・マハータートが古いと考えられ、時代はスコータイ朝の14世紀初めであるとされている。しかし、文様は表面の磨滅で判然としない。
イメージ 4
写真はランパーンのワット・ポンサヌックヌーア涅槃仏の足裏文様で、補修中の文様を写真に写したものである。中央の円内には法輪が描かれ、白丸は須弥山上の善見城の殊勝殿で帝釈天が住まうといわれているが、それが描かれている。但しこれは後世のもので中世のものではない。
イメージ 5
もう1点は、プレーのワット・プラノーンの涅槃仏の足裏文様で、これは中央円圏内に大海上の須弥山を描いている。これもまた近代のものである。

上に掲げた2つの事例は新しく、中世もそうであったとは断言できないが数々の事例より、ランナーの中世は須弥山ワールドであり、それは陶磁器文様を含めてあらゆるものに、反映されていたと考えられる。


                         <続く>

最新の画像もっと見る

コメントを投稿