<続き>
〇古墳時代中期に出現した新しいムラ
以下、松木武彦氏著述の『古墳とはなにか・角川選書』を参考に記述する。
古墳は、弥生時代の終わりに向けて発展した広域流通経済の中で各地に形成された『マチ(タウン)』とも呼ぶべき大集落を舞台に生み出された(古墳の築墳には経済力を要した)。大和の纏向、吉備の津寺・加茂、筑紫の比恵・那珂などが、マチの代表としてあげられる各地の中心である。これらの大集落からは、ほかの地域からはるばると運ばれて来た土器が出土する。弥生時代後半に盛んになった遠距離交易の物資やその輸送にたずさわる人々が、遠くから集まる場所だった。
(纏向遺跡出土土器・列島各地の土器が出土:桜井市立埋蔵文化財センターにて)
これらのマチを中心に周囲のムラ、ムラからなる各地の地域社会は、古墳が生み出された後の4世紀後半には衰退してしまう。松木武彦氏は、その具体的事例として吉備を例えに説明しておられる。その具体例の紹介は省略するが、4世紀後半にそれまでのマチが衰退し、周りのムラも含めて人口が減るという現象は、吉備ばかりではなく、纏向や比恵・那珂でも発生しているという。それまでの地域社会の構造が一時崩れてしまうような大変動が、古墳の出現から100年ほどの間に、列島の主要部で一斉に生じたようである。
このような後、5世紀中頃にかけてマチやムラは変化した。松木武彦氏は、再び吉備を事例に変化の様子を記述しておられる。そして、新しく発生したムラには、新たな特徴があるとして、竪穴住居の多くが、クド(造り付けのカマド)を備えているとする。クドは炊事と暖房の両方の機能をもった朝鮮半島流の住居設備で、囲炉裏が主流の日本列島にはなかったものである。クドの他に出土した遺物から分析した結果を以下のように記述されている。
(従来は囲炉裏:大阪府立弥生文化博物館ジオラマ)
(写真・吉備の北隣り美作のクド付住居遺跡・津山市領家遺跡:津山市HPより)
吉備で新しく発生したムラは、鉄器生産の新しい技術をたずさえて渡海してきた、朝鮮半島からの移住者の集落であろう。先端技術をたずさえてきた渡来者を中心に、農耕に支えられつつも、鉄器や陶質土器の生産を生業として栄えはじめた新しいマチの性質をもっていたと考えられる・・・・と、記されている。
過去から何度も記して恐縮であるが、前期古墳(3世紀中頃―4世紀)から出土するのは、青銅鏡や装身具で、鉄製短甲や鉄剣の出土は、一握りの僅かでしかないが、4世紀後半以降の古墳からは、それらが出土する量は大幅に増加する。
そのような古墳から出土する副葬品の変化と、従来の集落が4世紀後半に衰退し、5世紀中頃にかけての新しい集落は、半島の性格を持つものに変化していく。これらのことは、過去から徐々に半島から渡来した人々が、5世紀に入り増加したことを意味している。それらは騎馬民族に繋がる人々であった。騎馬民族の渡来は数次にわたり着実に増加したのである。
<続く>
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