世界の街角

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三国探検実記・岩本千綱著

2016-06-02 09:03:28 | 日記

岩本千綱氏は安政五年(1858年)土佐に生まれた。その彼が山本介氏とともに、明治二十九年十二月二十日バンコクを発し、翌三十年四月九日ハノイに到着した旅行記を「三国探検実記」として著した。実に111日間の旅行記である。

当時の街道(現在もそうであるが)は、中世の街道と大きな差異はない。その街道は安南からルアンプラバーンのランサーン王国を経由し、八百息婦(ランナー王国:息は正式には女偏に息)への道でもあり、これらのルートを介して安南陶磁や陶芸技術が伝播したと思われる。
岩本千綱氏の旅を遡る大越国の黎聖宗(レ・タイントン)は、チャンパ征服に続いて1479年(洪徳10年)8月、諸将に命じて18万人の軍勢が国境の西側に接する哀牢、盆蛮(盆忙)、老撾に五方面から侵攻した。当時ルアンプラバーンに都を置く、ランサーン王国とランナーへの侵攻である。
ここで注目すべきは、中世に北ベトナムからランサーンやランナーへ至るのに、五のルートがあったことである。その中の一つは第一次インドシナ戦争でベトナムとフランスが戦い、フランスが敗北したディエンビエンフーの戦い。そのディエンビエンフーを南下するルート、更にはタインホアから国道15号で西行し、ラオスのサムヌアに抜けるルートも主要ルートである。

更にはベトナム・ゲアン省のルートも存在する。ゲアン(乂安)省ビン市(榮市)からカー川沿いに、チュアンソン山脈を左にみて国道7号を遡り、ラオスのポンサワンを経由して、ランサーンの都ルアンプラバーンに至るルートで、上写真の白抜きルートである。このカー川はラオスのシェンクワーン県を源に国境を越へ、ゲアン省を流れバクボ(北部)湾に注いでいる。
それらの中から岩本千綱氏は、ノンカイからラオスに入りビエンチャン、ルアンプラバーン、ムアンサイを経由しディエンビエンフーへ至る、黄色ルートでラオスを縦断したとの記録である。
黎聖宗は五方面から侵攻したとされ、それなりのルートが存在し、交易や往来が存在していたことになる。
謎の石壺で有名なジャール平原には、流し掛け銅緑彩陶磁が存在する、時期は16世紀頃であろうと云われている。その窯跡発見の報には接していないが、その発見が待たれる。大越国やランナーで見る横焔式単室窯であれば、ランナーへの陶磁技術の伝播ルートは、安南ルートであることが証明されることになるのだが・・・。