世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

弥生王国・出雲#3

2018-01-18 08:04:59 | 古代と中世

<続き>

2.荒神谷博物館

荒神谷で出土した中細形銅剣、銅矛、銅鐸の現場には、レプリカで発掘当時の様子が再現されている。

これだけ並んでいると壮観というより、何か異様に見える。当時は向きが交互に並べられているとか、列ごとに本数が異なる点など、それなりの論争があったが、それにどれだけの意味があるのか? やはり中細形銅剣を国のシンボルとする弥生出雲王国が存亡の危機に陥ったと考えるのが、妥当であろう。

出土した一部の青銅器が古代出雲歴史博物館から、当該荒神谷博物館に貸し出され展示されている。現地は出雲の甘南備(神名火)・仏教山の麓の谷間である。現地に立つとなぜこのようなところに・・・との思いが先立つが、それは容易に発見しにくい処を選定したであろうとの想像を呼び起こす。発見されてから久しいが、初めての方は是非訪れて頂きたい。

 

                         <続く>

 


弥生王国・出雲#2

2018-01-17 08:29:38 | 古代と中世

<続き>

1.県立古代出雲歴史博物館(2)

(金輪御造営差図)

金輪御造営差図は鎌倉時代頃の作図のようである。それを尺度1/10で想定復元したのは、大林組である。そう云えば平安時代中頃の『口遊(くちずさみ)』に、「雲太、和二、京三」と謳われている。奈良の大仏殿より大きいと云う。これは後世の話であるが・・・。高さ48mもの建物が出雲にあるはずがないとの説を裏切り、境内に巨大な柱が出土した。それは直径1.35mの巨木を3本1組にした柱で造営差図そのものであった。

この本殿の姿は、高床式住居そのもので、何やら東南アジア少数民族の建物に似ている。

写真はチェンマイ郊外の民族村の建屋である。鳥越健三郎氏は北タイの少数民族も倭族の一派だという。この説にはついていけないが、似ている高床式住居である。話を戻す。

この復元想定の出雲大社と同じ建屋が、弥生式土器の線刻絵画である。

妻木晩田遺跡に近い稲吉角田遺跡から出土した線刻絵画土器である。この土器は鳥の羽を頭に付けた人々が櫂を漕ぐ船なども線刻されている。描かれる高床式住居の柱の高さは異常である。当に復元出雲大社のイメージである。ここから予想されるのは、弥生出雲王国の首長は、異常な高さの高殿に住まいしていたであろう。それは権力の象徴でもあったであろうと想いは巡る。

 

                         <続く>


ハードルが高くなったタイ王国観光ビザ取得inKL:2018年最新版

2018-01-16 16:04:23 | マレーシア

プラユット軍政下の出入国管理制度は朝令暮改であるが、これほどハードルが高くなっているとは、思いもよらなかった。

過日SNSで情報を検索中、曰くチェックリストにチェックが必要とか、往復ないしは第3国へ出国する航空券が必要とか、滞在先の氏名入りバウチャーが必要とのこと。中にはタイバーツ換算10万バーツ以上の預金通帳のコピーが必要とまで記載されている。ほんまかいな!。前回といっても2015年の年末に、同じKLでタイのツーリストビザを取得したときは、パスポートの原本、パスポートのID欄のコピー1部、申請書1部、写真1枚・・・これだけでよかった。

それが本日(2018年1月16日)の申請では様変わりし、やけにハードルが高くなっている。先ずチェックリストから紹介する。

5.往復ないしは第3国へ出国する航空券の写し。6.滞在先のホテルバウチャー(氏名入り)欄が設けてあり、そこにチェックを入れよとのこと。

事前に準備したのは、ホテルバウチャー、タイ入国の航空券コピーで、タイ出国の航空券コピーは準備していなかった。質問されたときはMy friend in BKK has already arranged it.と答えるつもりでいたが、出国の航空券が無いとは指摘せず、そのまま受け取ってくれた。ラッキーではあるが、なぜこうも厳しくなったのか。現在でもラオス・ビエンチャンではパスポート原本、パスポートID欄コピー1部、写真1枚でOKとのこと。この落差は大きすぎる。全て揃っていれば別だが、今後KLでツーリスト・ビザの申請は行わない方がよい。ラオス・ビエンチャンでの取得をお薦めする。当該ブロガーも次回はビエンチャンにしたい。

 


弥生王国・出雲#1

2018-01-15 08:17:37 | 古代と中世

古代に関することを書き連ねたので、ついでと云えば語弊があるが、出雲における弥生時代の展示施設を紹介し、弥生出雲を想像してみたい。

紹介する施設は、グーグルアース上に示した。このうち八雲立つ風土記の丘ミュージアムと神原神社古墳は弥生時代を下る古墳時代ではあるが、そこはお許し願いたい。これから出雲を訪れられる古代史ファンの一助になれば幸甚である。

以下の順で紹介したいと考えている。

1.県立古代出雲歴史博物館

2.荒神谷博物館

3.出雲弥生の森博物館(四隅突出墳丘墓)

4.加茂岩倉遺跡

5.加茂・神原神社古墳

6.八雲立つ風土記の丘ミュージアム

7.妻木晩田遺跡

今回は、県立古代出雲歴史博物館を紹介して、次回につなげたい。

1.県立古代出雲歴史博物館(1)

全国からの出土数を上回る数の銅剣が一箇所で出土。合わせて大量の銅矛、銅鐸が出土した荒神谷遺跡。大量の銅鐸が一箇所から出土した加茂・岩倉遺跡。これらの大量の青銅器がなぜ、突然一括埋納されたのか?・・・この謎を解くのは、記紀の出雲振根伝承であろう。出雲振根は北部九州連合(邪馬台国連合?)の覇権に組み込まれており、その北部九州を訪れた際、ヤマト王権に急襲されたのであろう。その一環としての一括埋納であったと思われる。

出雲(全国もか)の弥生遺跡で、何故か卑弥呼の鏡は出土せず、後世の古墳から出土する。上述ヤマト王権での青銅祭器は銅鏡であったか? 出雲の弥生王国がヤマトに滅ぼされた時、鏡の保持は許されたであろう?・・・等と空想が広がる器物を一括・大量に見られるのが、当該博物館の最大特徴で日本広しと云えども、ここでしか見ることはできない。

                        <続く>

 


邪馬台国(4)

2018-01-14 07:16:59 | 古代と中世

<続き>

前回まで長々と、最近読み返した古田武彦氏の著作の矛盾点を記載してきた。本題はそのようなことではないが、前置に比較し本題があまりにも短いことをお断りしておく。本題とは邪馬台国の位置である。

本題である。日時は忘れたが、邪馬台国に関するTV番組をみた。早稲田大学文学部・渡邉義浩教授の話は、目から鱗であった。陳寿は三国の中で、あくまでも魏の立場で三国志を編纂したとする。そして中華思想に基づいて周辺諸国を配置し、意識して邪馬台国の位置を狂わせたとする。つまり蜀の背後にあたるクシャン(クシャナ)朝に、蜀の牽制として親魏大月氏王の金印を授け、呉の背後に邪馬台国を意識して配置し、親魏倭王の金印を与えたのである。この渡邉教授の説は新鮮で、多少ショッキングであり、なるほどと唸らせた。そう云えば魏志倭人伝は、その位置について次のように記述する・・・

①  自郡至女王國萬二千餘里(郡より女王国に至る、万二千余里)・・・単里77mで計算すると924kmとなり、帯方郡治から南へ直線で924kmをたどると奄美大島西方の南シナ海沖となり、長里であればもっと南方となる。

②  計其道里、當在會稽東冶之東(当に会稽東冶之東に在るべし)と記述されている。会稽東冶之東とは奄美大島の沖合となる。

なるほど政略的に、邪馬台国を位置付けたことになる。では実際の邪馬台国はどこであろうか。見てきたように里程記事は政略的に記述されていることから、信頼性は必ずしも高くないであろう。従って・・・

①  木弓は下を短く上を長くし、竹箭は或いは鉄鏃或いは骨鏃なり

②  朱丹を以て其の身体を塗ること

③  食飲には邊(に竹冠)豆(高坏のこと)を用いて手食す

④  其の死には棺有るも槨無く、土を封じて冢を作る

⑤  其の俗、挙事・行来、云為する所有らば、輒ち骨を灼きて卜し。以て吉凶を占う

⑥  租賦を収むに邸閣有り

⑦  居る処の宮室は楼観・城柵を厳かに設け

⑧  今汝を以て親魏倭王と為し、金印紫綬を仮す

⑨  装封し帯方太守に仮授す

⑩  金八両、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠、鉛丹各五十斤を賜う

・・・①から⑩が出土する処が邪馬台国と云うことになるが、④、⑥、⑦以外は可搬できるものであり、必ずしも邪馬台国に留まっているとは限らない。④、⑥、⑦が重要で、租賦を収める邸閣、多分に高床の高倉と思われるそれと、宮室、楼観、城柵址さらには棺と冢の出土が不可欠で、これらにプラスして上記の可搬遺物がどれだけ多く出土するかがポイントと思われる。以上のことを考えると現時点では、吉野ヶ里が最も有力であろう。

陳寿は四川の山中で生まれた。西晋の都は洛陽である。その洛陽で三国志を著述したと思うが、果たして海を見たことがあるのか?古文献と情報や伝聞から編集して記述したと考える。そのような状況を考えると、古田氏のように陳寿の文章を信じ続けた・・・等、到底考えられない話で、如何に真実を読み取るのかが、今後も続く課題であろう。

(出典:グーグルアース 四川省南充市)

以下蛇足である。古代出雲・荒神谷と加茂岩倉の大量の青銅器一括埋納は、北部九州の覇権に降った証であろう。その北部九州つまり邪馬台国連合は大和王権に敗退し、合わせて北部九州の覇権に入っていた古代出雲も、大和王権に降ったものと思われる。記紀に100%の信頼を置いているわけではないが、崇神紀にそれが示されていると思われる。崇神紀の出雲征服記事によれば、出雲振根は筑紫に行っていることが触れられている。出雲は北部九州の覇権に入っており、古代出雲の代表・振根は定期的に出向いていたのでは・・・と想像される。その振根が北部九州とともに大和王権に降ったと想像している。

                           <了>