<続き>
前回まで長々と、最近読み返した古田武彦氏の著作の矛盾点を記載してきた。本題はそのようなことではないが、前置に比較し本題があまりにも短いことをお断りしておく。本題とは邪馬台国の位置である。
本題である。日時は忘れたが、邪馬台国に関するTV番組をみた。早稲田大学文学部・渡邉義浩教授の話は、目から鱗であった。陳寿は三国の中で、あくまでも魏の立場で三国志を編纂したとする。そして中華思想に基づいて周辺諸国を配置し、意識して邪馬台国の位置を狂わせたとする。つまり蜀の背後にあたるクシャン(クシャナ)朝に、蜀の牽制として親魏大月氏王の金印を授け、呉の背後に邪馬台国を意識して配置し、親魏倭王の金印を与えたのである。この渡邉教授の説は新鮮で、多少ショッキングであり、なるほどと唸らせた。そう云えば魏志倭人伝は、その位置について次のように記述する・・・
① 自郡至女王國萬二千餘里(郡より女王国に至る、万二千余里)・・・単里77mで計算すると924kmとなり、帯方郡治から南へ直線で924kmをたどると奄美大島西方の南シナ海沖となり、長里であればもっと南方となる。
② 計其道里、當在會稽東冶之東(当に会稽東冶之東に在るべし)と記述されている。会稽東冶之東とは奄美大島の沖合となる。
なるほど政略的に、邪馬台国を位置付けたことになる。では実際の邪馬台国はどこであろうか。見てきたように里程記事は政略的に記述されていることから、信頼性は必ずしも高くないであろう。従って・・・
① 木弓は下を短く上を長くし、竹箭は或いは鉄鏃或いは骨鏃なり
② 朱丹を以て其の身体を塗ること
③ 食飲には邊(に竹冠)豆(高坏のこと)を用いて手食す
④ 其の死には棺有るも槨無く、土を封じて冢を作る
⑤ 其の俗、挙事・行来、云為する所有らば、輒ち骨を灼きて卜し。以て吉凶を占う
⑥ 租賦を収むに邸閣有り
⑦ 居る処の宮室は楼観・城柵を厳かに設け
⑧ 今汝を以て親魏倭王と為し、金印紫綬を仮す
⑨ 装封し帯方太守に仮授す
⑩ 金八両、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠、鉛丹各五十斤を賜う
・・・①から⑩が出土する処が邪馬台国と云うことになるが、④、⑥、⑦以外は可搬できるものであり、必ずしも邪馬台国に留まっているとは限らない。④、⑥、⑦が重要で、租賦を収める邸閣、多分に高床の高倉と思われるそれと、宮室、楼観、城柵址さらには棺と冢の出土が不可欠で、これらにプラスして上記の可搬遺物がどれだけ多く出土するかがポイントと思われる。以上のことを考えると現時点では、吉野ヶ里が最も有力であろう。
陳寿は四川の山中で生まれた。西晋の都は洛陽である。その洛陽で三国志を著述したと思うが、果たして海を見たことがあるのか?古文献と情報や伝聞から編集して記述したと考える。そのような状況を考えると、古田氏のように陳寿の文章を信じ続けた・・・等、到底考えられない話で、如何に真実を読み取るのかが、今後も続く課題であろう。
(出典:グーグルアース 四川省南充市)
以下蛇足である。古代出雲・荒神谷と加茂岩倉の大量の青銅器一括埋納は、北部九州の覇権に降った証であろう。その北部九州つまり邪馬台国連合は大和王権に敗退し、合わせて北部九州の覇権に入っていた古代出雲も、大和王権に降ったものと思われる。記紀に100%の信頼を置いているわけではないが、崇神紀にそれが示されていると思われる。崇神紀の出雲征服記事によれば、出雲振根は筑紫に行っていることが触れられている。出雲は北部九州の覇権に入っており、古代出雲の代表・振根は定期的に出向いていたのでは・・・と想像される。その振根が北部九州とともに大和王権に降ったと想像している。
<了>