世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

新春特集『遥かなり騎馬民族』(6)

2022-01-25 07:33:56 | 日本文化の源流

<続き>

〇雄略天皇は馬韓辰王の末裔か?

遅くなったが、扶余については(夫余、夫餘、扶余、扶餘)・・・のように表記されている。民族名や国名、地名で使い分けがあるが、ここでは扶余に統一して表記する。

日本に渡来した扶余系の騎馬民族とは、高句麗と扶余のどちらなのか。江上波夫氏が述べられるように、4世紀に騎馬民族が倭国に渡海したとするなら、3世紀末には伽耶に進出している必要があろう。

南朝鮮の2世紀頃は、三韓の時代であった。国と云っても、例えば馬韓では、およそ50にのぼる小国家が散在していたという。つまり小国家群立の状態であった。その中に北から遣ってきたであろう国がある。『三国遺事』には『馬韓、魏志にいう衛満朝鮮を撃つ。朝鮮王準、宮人左右を率い海を越えて南韓の地に至る』とある。王準は南韓に逃れて馬韓を建国したと云っている。

『後漢書・東夷伝』は『馬韓はもっとも大きく、共にその種を立てて辰王となす。月支国に都し、盡く三韓の地に王たり』と記されている辰王である。この辰王について『魏志東夷伝』には、辰韓12ヶ国が辰王に属していること、そして辰王自身は馬韓の月支国に都をおいていると記されている。

その辰王の国は、およそ後1世紀に始まり、やがて都を以前から倭人の多かった伽耶の地に移したが、3世紀後半以降衰えたと思われる。やがて馬韓の地に新しい百済が、そして辰韓の地に新羅が成立する。衰えた辰王は倭人の協力を得て、4世紀初頭に筑紫へと渡海した。

21代・雄略天皇(5世紀中頃か)が中国南朝に使いを遣わしたおり、『使持節都督・倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭国王』と名のったという『宋書』の記録がある。このことは渡海してきた辰王の倭国が、南朝鮮の支配権を主張できる歴史的根拠、潜在的権利を保有する立場を雄略天皇が、明確にするものであった・・・と、捉えることができそうである。雄略天皇は馬韓辰王の末裔であった可能性が考えられる。

(雄略天皇陵)

好太王碑文の以下の一文が、上述のことどもを裏付けているように思われる。『百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡[海]破百殘■■新羅以為臣民 』、つまり新羅・百済は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし倭が辛卯年(391年)に海を渡り百済・■■・新羅を破り臣民となした・・・雄略天皇が名のった肩書の背景であったであろう。

しかしながら、これ以上の根拠がない話しである。まさに謎の4世紀である。記紀は意識的に謎の4世紀にしたのであろうか?・・・妄想は限りなく広がる。

<続く>

 


新春特集『遥かなり騎馬民族』(5)

2022-01-24 08:19:13 | 日本文化の源流

<続き>

暫く横道に逸れていた。新春特集を再開する。

〇邪馬台国と高句麗建国時の類似性

高句麗建国時は、シャーマン的機能がなお王権の主要な性格であった。この小国家の連合したものが好太王時代の高句麗である。

伽耶でも出土品から伺えるのは、同じような状況であったと思われている。当時すでに仏教は高句麗に伝来していたが、その好太王の時代にあっても高句麗や伽耶では、邪馬台国の女王卑弥呼の鬼道と似た祭政一致の政治が行われていたであろう。

高句麗の王位継承は、モンゴルのクリルタイ(部族会議)方式であり、王位継承の選挙権をもつ有力な五部族が、王位継承の候補者をそれぞれ擁立し、支援部族の強力なものが王位に就いた。

『三国志・魏志巻三十・扶餘伝』は、「諸加共立麻餘。・・・舊夫餘俗,水旱不調,五穀不熟,輒歸咎於王,或言當易,或言當殺。(諸部族が王を共立す。・・・旱魃などで五穀が実らないときには、その罪を王に帰し、あるいは王を交代させろと言い、あるいは王を殺せという)」という記述があり、シャーマン的王権と考えられる。

翻って我が卑弥呼。魏志倭人伝は以下の如く記す。『其の國、本(も)と亦た男子を以て王と為し、住(とど)まること七八十年、倭国乱れ、相攻伐すること歴年、乃(すなわ)ち共に一女子を立てて王と為す。名づけて卑弥呼と曰う。』、『倭の女王卑弥呼、狗奴国の男王卑弥弓呼と素(もと)より和せず。倭の載斯・鳥越等を遣わして郡に詣らしめ、相攻撃するの状を説く。塞曹掾史(さいそうえんし)張政等を遣わし、因って詔書・黄幢(こうどう)を齎(もたら)し、難升米(なしめ・なんしょうまい)に拝仮せしめ、檄を為(つ)くりこれに告喩(こくゆ)す。卑弥呼、以て死す。』

倭国は乱れたので卑弥呼は、諸首長より共立され女王となったが、狗奴国と戦ったが戦況は思わしくなく、帯方郡の塞曹掾史張政の支援を受けた。そのさき突然以て死す・・・と記されている。これは先の『三国志・魏志巻三十・扶餘伝』同様、敗戦の責を問われて卑弥呼は殺害された可能性が高い

以上、縷々記載したが、高句麗の初期と邪馬台国の祭政が、ほぼ類似していることが御理解できたのでないだろうか。

邪馬台国を構成する国々が全て、北方民族の末裔ないしは、その影響を受けたものとは考えられず、縄文人や呉越からの渡来人もその一員と考えられるが、上述のように扶余族の習俗をもつのも確かである。

<続く>

 


北野天満宮の梅

2022-01-22 07:27:16 | 日記

京都で桜と云えば、あちこちに存在するが、梅と云えば北野天満宮である。過日、道真公に孫たちの学業成就の祈願と、お守りを求めて参拝した。

梅の開花はまだであろうと見まわしたが、幸いなことに数輪開花していた。

中門とも呼ばれる三光門は、慶長12年(1607年)に豊臣秀頼が建立したと伝わる重要文化財である。東の東照宮陽明門、西の西本願寺唐門ほどの艶やかさはないが、三光門の彫り物も彩色されそれなりである。

いずれにしても梅の代名詞とも云える北野天神で、梅が数輪とは云え見れたのは幸いであった。

<了>


三輪そうめん山本

2022-01-21 08:19:03 | グルメ

丁度一年振りの三輪山本である。素麵と云えば播州と三輪、いずれも関西である。関東に素麺の名産地があるのか、ないのか知らない。そういえば”きし麺”は名古屋、うどんは讃岐でいずれも西日本である。橿原考古学研究所付属博物館の帰途に寄ってみた。

店舗を入れば、素麺を中心とした土産が並ぶ、奥に進むとレストランである。

真冬のこの時期、素麺でもなかろうと”にゅう麺”と甘味をオーダーした。

小食の当該ブロガーには適量であった。流石素麺専門店だけあって、味はそれなりである。当たり外れで云えば、少なくとも外れはないので、橿原、桜井、明日香へお出かけの方の選択肢に入るかと。

<了>

 


難なく越えた峠

2022-01-20 09:10:56 | 日記

過日、所用にてオミクロン株が蔓延する京都へ。積雪で米子道の通行ができるかどうか、やや心配していたが路面に雪はなく、やや拍子抜け状態で通過した。

積雪の大山はガスに隠れたまま

積雪の大山が望めるか期待はしたもののやはり外れで、ガスによりその姿は見えない。その代わりと云えばなんだが、蒜山(ひるぜん)の山々は頂上こそ隠れているものの望むことはできた。

中国道に入り関西に至ると、曇り空から晴姿に変わる。太陽の有難さがわかる道中であった。

<了>