<続き>
〇雄略天皇は馬韓辰王の末裔か?
遅くなったが、扶余については(夫余、夫餘、扶余、扶餘)・・・のように表記されている。民族名や国名、地名で使い分けがあるが、ここでは扶余に統一して表記する。
日本に渡来した扶余系の騎馬民族とは、高句麗と扶余のどちらなのか。江上波夫氏が述べられるように、4世紀に騎馬民族が倭国に渡海したとするなら、3世紀末には伽耶に進出している必要があろう。
南朝鮮の2世紀頃は、三韓の時代であった。国と云っても、例えば馬韓では、およそ50にのぼる小国家が散在していたという。つまり小国家群立の状態であった。その中に北から遣ってきたであろう国がある。『三国遺事』には『馬韓、魏志にいう衛満朝鮮を撃つ。朝鮮王準、宮人左右を率い海を越えて南韓の地に至る』とある。王準は南韓に逃れて馬韓を建国したと云っている。
『後漢書・東夷伝』は『馬韓はもっとも大きく、共にその種を立てて辰王となす。月支国に都し、盡く三韓の地に王たり』と記されている辰王である。この辰王について『魏志東夷伝』には、辰韓12ヶ国が辰王に属していること、そして辰王自身は馬韓の月支国に都をおいていると記されている。
その辰王の国は、およそ後1世紀に始まり、やがて都を以前から倭人の多かった伽耶の地に移したが、3世紀後半以降衰えたと思われる。やがて馬韓の地に新しい百済が、そして辰韓の地に新羅が成立する。衰えた辰王は倭人の協力を得て、4世紀初頭に筑紫へと渡海した。
21代・雄略天皇(5世紀中頃か)が中国南朝に使いを遣わしたおり、『使持節都督・倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭国王』と名のったという『宋書』の記録がある。このことは渡海してきた辰王の倭国が、南朝鮮の支配権を主張できる歴史的根拠、潜在的権利を保有する立場を雄略天皇が、明確にするものであった・・・と、捉えることができそうである。雄略天皇は馬韓辰王の末裔であった可能性が考えられる。
(雄略天皇陵)
好太王碑文の以下の一文が、上述のことどもを裏付けているように思われる。『百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡[海]破百殘■■新羅以為臣民 』、つまり新羅・百済は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし倭が辛卯年(391年)に海を渡り百済・■■・新羅を破り臣民となした・・・雄略天皇が名のった肩書の背景であったであろう。
しかしながら、これ以上の根拠がない話しである。まさに謎の4世紀である。記紀は意識的に謎の4世紀にしたのであろうか?・・・妄想は限りなく広がる。
<続く>