世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

新春特集『遥かなり騎馬民族』(4)

2022-01-18 05:28:45 | 日本文化の源流

〇中国東北部小規模国家群成立と高句麗及び倭国

紀元前8-7世紀には、遼寧省付近で、幅広の遼寧式銅剣や多紐鏡を特色とする青銅器文化が成立し、やがて朝鮮半島に伝わって一種独特の文化圏が形成され、それは日本列島に影響を及ぼすに至る。前4世紀になると鉄器が半島北部に登場して古代社会の状況を一変させる。

(遼寧式銅剣:韓国中央博物館HPより)

中国東北部にあった燕國の影響を受けたこの鉄器文化が、半島南部に伝わるのは、それからかなりあと、紀元前2~前1世紀のことで、この鉄器の普及によって、それまでの共同体的な村落社会から、首長に率いられた小規模な国家群が成立する。中国の秦始皇帝が全土を統一する頃にあたる。

その中で檀君朝鮮、箕子朝鮮、衛氏朝鮮の三つの王朝が相次いで興亡した。

そのなかで高句麗の建国は、紀元前後であると考えられている。高句麗騎馬民族が平壌の地に都を遷したのは、5世紀初めであった。遷都を決めたのは好太王(広開土王・在位391-412年)であろう。

好太王碑は、子の長寿王が414年に古都丸都城に建てたものである。その碑文は、民族の出自を語るところから始まる。

(好太王碑=広開土王碑 Wikipediaより)

『惟昔始祖鄒牟王之創基也。出自北扶余天帝之子』

碑文は、高句麗は鄒牟王(すうむおう:朱蒙・東明王)が建国し、その彼は北扶余の天帝の息子であったとしている。『三国遺事』によれば、北扶余は、天帝が紇升骨城に天下って建国したものと記している。これは本邦の天孫降臨神話と同じである。

『三国遺事』巻二の『駕洛國記』に、伽耶の建国神話が記されている。そこには『古事記』の建国神話と類似した構成を持っている。

  • 国土を支配せよとの天神の命を受けて天降ること
  • 真床覆衾(まとこおふすま)(記紀)、紅幅(駕洛國記)などの布帛(ふはく)に包まれて降下すること
  • 槵触(くしふる)、旨日(くしひ)、久土布流(くしふる)(以上、記紀)
    亀旨(駕洛國記)など、ほぼ同一地名に降下したこと

(韓国・亀旨峰 Google Earthより)

以上のことから、天孫降臨の神話をもつ民族が北から南下し、伽耶の地を経由して日本列島へ渡って来たルートが浮かび上がる。但し、その民族が日本に征服王朝を建国したか・・・と云うことは疑問であるが。

<続く>

 


新春特集『遥かなる騎馬民族』(3)

2022-01-17 05:44:46 | 日本文化の源流

<続き>

〇積石塚の源流は北西騎馬民族の故地

前方後円墳に似た石積み古墳が、北朝鮮北部で発見された。日本では3世紀中頃から築造され始めるが、北朝鮮のそれは紀元前後で、日本のそれより200-300年遡る。

(前方後円形積石塚・慈江道楚山郡雲坪里 『騎馬民族の道はるか』NHK出版より)

それは、鴨緑江左岸の慈江道楚山郡雲坪里、慈城郡松岩里の二つの遺跡群で都合九基にのぼると云う。四隅突出墳丘墓の原形と思われる墳丘も確認されたと云う。前方後円墳も四隅突出墳丘墓も、騎馬民族・扶余に始まる可能性を全浩天氏は指摘している。

(四隅突出墳丘墓・出雲市西谷墳墓群)

積石塚は歴代の中国王朝の墓制には存在せず、騎馬民族独特のものである。積石塚として知られているのは南シベリアのパジリク古墳群(前3―前2世紀)、北モンゴルのノイン・ウラ古墳群(下限は後1世紀:匈奴の墳墓と云われている)そして鴨緑江河畔、いずれも騎馬民族の墓である。

(オランオーシング遺跡:四隅突出墳丘墓の源流か?)

(高松市石船塚:積石塚式前方後円墳)

時代は下り4世紀頃の積石塚が、日本でも幾つも発見されている。その数は約1500基にのぼる。弥生時代中期の四隅突出墳丘墓の突出部及び墳裾の配石列と、その上方斜面の貼石は、積石塚の変形であろう。

<続く>

 


続・蘇我氏はスサノオの末裔か?

2022-01-15 08:34:13 | 古代日本

再び根拠希薄な話で恐縮である。蘇我氏とスサノオ、更に言及すれば蘇我氏と出雲族神が繫がりそうだ。それに比較し大和の南部を古代風に表現すれば磐余。その磐余と云うか蘇我氏の領域(今日の橿原市、桜井市、明日香村に限定した)に天孫族神が鎮座する神社は、出雲族神を祀る神社より少ない。まさにコレは何だ。

(上表の前提は、彼の領域の天津神と国津神の内、天孫族神と出雲族神のみをピックアップしたものである)

大和建国の創始者・神武天皇は磐余に宮居を構えたと伝わるが、神武天皇を祀る神社は橿原神宮のみで、その創建も明治時代で遥かな後世である。天照大御神を祀るのは5社に対し、大国主命を祀るのも5社である。特筆すべきはスサノオを祀る神社が11社で圧倒的に多い。これは何故だ。

磐余において神武天皇は歓迎されなかったのか?。梅原猛氏ではないが、出雲族神はヤマトを追い出され、まさに『神々の琉竄』として、出雲の地に追いやられたのか?。

磐余では天照大御神も神武天皇も、出雲族神に囲まれて居心地が悪かったに違いない。Google Earth上にはプロットしていないが、15代・応神天皇の母君である神功皇后の宮居が磐余(若桜宮)に存在する。応神天皇は即位後の遷都記事が存在しないことから、引き続き磐余の若桜宮を用いたと考えられる。その応神天皇を祀る神社は、当該領域で16社にのぼる。

妄想をお許し願えれば、神武天皇は磐余の地では相手にされなかった。そこは出雲族神の天下であったのだ。応神天皇の御代に至り、出雲族神は排除された。しかしながら出雲族に繋がる蘇我氏の庇護のもと、出雲族神を祀る神社は存えることが可能であったろう。何よもスサノオを祀る神社が多い。このことからも蘇我氏はスサノオの末裔であろうかと思われる。

注目すべきことがある。それは継体天皇だ。継体天皇の生まれは近江・高島であるが、育ちは越前である。越前の三国国造は蘇我氏との伝承も残る。蘇我氏領域の磐余に継体天皇の玉穂宮。そこはスサノオの領域でもあった。継体天皇は一体何者か・・・との疑問を持ち続けている・・・これについては、何時の日か語りたい。

以上、やや疑問符のある話を綴った。残念なのは、表の神社数について検証を行っていないことである。少なくとも延喜式所載の神社に絞って、話を展開すべきであろうが、面倒クサイとの理由だけで、各神社の創建由緒まで調査していない。大神神社のように古社から明治創建の橿原神宮まで、一つの土俵にのぼらせている。従って記述の内容は、限りなく疑問符がつく話である。

<了>


雪の朝

2022-01-14 07:55:53 | 日記

今朝は、久しぶりに雪の朝である。山陰は西の方に属し、鳥取や松江に比べれば、積雪量は微々たるものである。出雲は斐伊川を東に越えると、積雪量は1段と増す。

とは云え5-6cmは積もったであろうか、北陸・東北の方々は大変であろうと思った次第である。

<了>


ブン・ワット・パー古窯址(2)

2022-01-13 08:52:31 | 窯址・タイ

<続き>

前回の続きは、タイ芸術局第6支所が公開している下掲のSNS情報から始める。掲載順は、第6支所の掲載順で紹介する。

当該ブロガーの目から見ると掲載順が逆のような気がするが、第6支所の掲載順とした。いずれにしても焼成陶磁は褐釉と焼締め陶のようで、文様はバン バン プーに似ていると、K氏の情報である。

尚、御覧になってもタイ語ナレーションなので、お分かりづらいとは考えるが、百聞は一見に如かずとも云うのでYouTube(ココをクリック)を貼り付けておく。成程言葉は分からなくても、窯構造などは理解できると考える。

訪タイできるのは何時か? 年内に行けるようになれば、是非訪れてみたい。

<了>