歌う介護士

看取りをしたご入居者から「あなたの声は癒される」と。お一人一人を思い浮かべながら、ずっと歌い続けています。

バトンは次へ渡したい

2010-08-15 11:09:00 | Weblog


有名なライオンを後ろから・・・(笑い)、まわりでは盆踊りの準備中。
携帯カメラなので判りにくいかも。
住む町では、季節ごとにいろいろなイベント企画を商店街が行っています。買い物客の集客もあるでしょうが、街の活性化にはなっている。
この時期、特に、遠くへいけない家族連れが楽しんでいると思う。
この街並みは、道路も整備され車社会で作られていると、歩行のみの私は矛盾を感じてしまうけれど、車椅子のためにも歩道が広いのは買うところ。
駅からのこの通りは車は通れない高架であるので、平日も犬の散歩や買い物へ来た人でのんびりした空気が漂う。
このところ、私もその中の一人(笑い)。


同じうちにいながら、まわりの人と、ゆっくり話すことは少ない。
ときどき、向こうから興味のある過去の事件について話しかけてくる。
夏、だから・・・。
65年、25年、と節目の年だから、それに関する報道も出版も増えているからかもしれない。

25年前の墜落事件は、まわりの人は幼いながらも大きなショックを受け、そのおかげで記憶が鮮明に残ったようだ。
その後、監察医や取材記者の出版物を出されるたびに読んできたらしい。
たがいに時間を共有しているので、とても理解し易いと思う。

65年前については、私も含めて、その時代を生きた人が年々少なくなってしまった。
30年代「戦争を知らない子供たち」といわれた世代ばかりになってしまった。
父や母が話を出来る時に、私たちはろくに耳を傾けないで来てしまった。
祖母が同居していたので、幸い私は「戦死通知」を見たことがある。

15センチの方形の木箱に残っていたのは「鈴木栄 昭和19年12月27日ソロモンにて戦死」と書かれた紙1枚だった。このとき、伯父は41歳。昭和19年で40歳過ぎた兵士を徴兵しなければいけなくなっていたということが読み取れる。
亡父は特殊技術を持っていたため徴収されていない。
聴いたところによると、一の内は長男(跡取り)は徴兵されなかったというが、伯父は次男だったが長男が亡くなっていたので跡取りだった。その風聞も戦争が終盤になると、そうも言っていられなかったのか?
父方の伯父から聞いたこと、この伯父は戦争に反対する活動をしていたそうだが、憲兵に逮捕され、その後すぐ赤紙が来たと聞いた。
もちろん、行く先は最前線だったらしい。
伯父は、生きて戻って来れたので、この話が出来たが・・・・。
もう1人の叔父は、おしゃれだったのだろうと想像される写真1枚が残っている。

昨夜、まわりの人が帰ってきてから一緒に母方の「過去帖」を開いた。
「過去帖」ってなあに?
からはじまったので、日常に追われて何も伝えなかったことを後悔したが、
話すほうと聞くほうの気持ちが一致しないと、こういうことはいくら伝えようとしても「めんどくさい」ことになる。
一年間のご先祖様の命日がすぐわかること。
位牌がなくとも、その日を開けば代わりにお参りできること。
直系に近い人しか判らないが、自分たちの片方のルーツがわかること。
母方の実家は古い家系なので、過去帖を見る限り徳川綱吉の時代からあったらしい。
「元禄」でわかった。

私は傍系も傍系になり、親戚はたくさんあるだろうけど、私と言う存在のことは知られていないと思う。
母が生きていることさえ。
付き合いのなかった親戚に、いまさら付き合いをすると大変になるという怖れの方が多い。
母は、昔の写真を眺めなくなって久しい。
ホームにアルバムは持っていってあるのだが、「観たくない。」という。

思い出したくない過去も多い。
そういうお年寄りを私は見てきた。

高齢者ケアをしている人は、その人が語りたがらない戦地の話は語れるときまでそっとしておいてほしい。
「お前たちに話せるようなことじゃない」、認知症といわれている人の言葉である。
シベリア抑留6年、私たち世代は想像しても出来ない。


さまよっておられる御霊はないでしょうか?
どうか安らかに過ごしておられますように。









(母をひきとる時に全て処分したので残念だと後悔している)

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