毎日が夏休み

LEAVES THAT ARE GREEN TURN TO BROWN

書かなくてはならぬことがあるのになかなか書けないこの日々に

2014-12-30 01:07:07 | ジャンプ台放浪記関連

 

「ジャンプ台放浪記」にまた戻ってくるとは思ってもいませんでした。

 

あれから4年。

 

結果をまず最初に書いてしまいます。

シルバーシャンツェを見つけました。

シルバーシャンツェはそこにあり、現場に立ち、その遺構をこの手で確かめてきました。

 

遺構とは。

【遺構】①今も残っている古代の建造物。

        ②失われた建造物の配置や構造を知る手がかりとなる残存物。   

                                   新選国語辞典第七版より

 

シルバーシャンツェの遺構を確認しに行ったのは今年の秋。

そして今はもう雪が積もった12月。

何故間が空いたのか。

…書けませんでした。

いろいろなことを考えてしまって。

でも、大袈裟な話になってしまいますが、

もし私がいなくなったら今後誰かに書かれることはないだろうと思い、

(同行者も書きのこしてくれているはずですが)

このままシルバーシャンツェの存在が人々の記憶から消えてしまうより、

あるいは私たちがしてきたように、またシルバーシャンツェを探し歩く放浪者がでないためにも、

さらに大きくなりますが、今後のジャンプ界の歴史のためにも書いておいたほうがいいのではと、

2014年が終わってしまう前に、駆け込みですがこうやってパソコンに向かっています。

 

ジャンプ台を探し始めたきっかけは単純明快でした。

私の窓から三角山がよく見えるのです。

ほぼ対面してますね(笑)。三角山にも頻繁に登っていますし。

その三角山にジャンプ台があったと知った時、「うわっ!」と驚きまして。

目の前にある山にジャンプ台があったなんて信じられない。「うっそー!」状態。

(大倉シャンツェ級の大きさを想像していましたので)

それも、日本で初めてつくられた固定シャンツェだなんて。日本初!

さらにそのシャンツェをつくったのは北大のスキー部、学生さんたちの熱い想い。

じゃあその熱き想いの結晶のジャンプ台はどこの斜面にあったのかとなると、

これが全然わからない。

いまでは調べる気になれば検索ででてきますけど、

当時は地道にひとつひとつあらゆる可能性を調べ、読み、聞き、歩き、

やっと道新本社にて大正時代の北海タイムスの過去記事から一枚の地図を見つけ、

そこに描きこまれていたジャンプ台の印からシルバーシャンツェの位置をほぼ確定とみなし、

一連のことをまとめて書いたのがジャンプ台放浪記です。

(今では恥ずかしくて恥ずかしくて、その後読み返すことは一度もしていません。若かったな)

アルファシャンツェ、札幌シャンツェよりもシルバーシャンツェへの思い入れというか、

シルバーシャンツェだけは私にとって別格、特別な存在でした。

だって三角山ですから。札幌シャンツェも三角山ですけどね、ちょっと私の中で温度差ありすぎです。

 

ざっと簡単にシルバーシャンツェについて説明しますと、

1921年(大正10)12月に着工、翌年1月6日に杮落しされた日本初の固定式ジャンプ台。

以後数回工事で手直しするものの、あまりにも規模が大きすぎたのか数年で姿を消すことになった。

今年が2014年ですので93年前ということになります。

当時はコンクリートなどなく、土と木造の櫓で造られたジャンプ台。

 

93年前の木造建設のジャンプ台がいったいどういう姿で残っていたのか。

 

ここから先は、協力してくれた大切な方々の名前(ハンドルネーム)は出しません。

なんだかシルバーシャンツェに惹かれる者どもが集まりまして(笑)。

いいメンバーでした。最強だったんじゃないかい?

 

2014年秋。

三角山にある尾根を私たちは下りて行きました。

 

勿体ぶるわけではないのですが、もうこんなに遅い時間なので続きは後日にします。

明日書けるかどうかも時間的に不安ですが。