ある音楽人的日乗

「音楽はまさに人生そのもの」。ジャズ・バー店主、認定心理カウンセラー、ベーシスト皆木秀樹のあれこれ

批判と攻撃と正義感と非難

2015年01月24日 | 価値観

【Live Information】 


 最近では、家族との写真を公開したスケート選手の安藤美姫さん、勲章をぞんざいに扱ったことで話題になったサザンオールスターズの桑田佳祐さん、子連れで外出したことを明らかにしたタレントの山田優さんや、スザンヌさん。異物混入を非難された会社もそうだし、イスラム国に人質となった二人もそうだと思う。


 いわゆる「叩かれる」ことで話題になった方々です。

 
 ぼくは、正直に言うと、彼らはそんなに非難を浴びるようなことをしたのかなあ、と思っています。そのうえ、謝罪すれば謝罪したで、そのことが槍玉に上がります。
 一部の人から見ると、彼らは大きく間違ったことをしたのかもしれない。
 しかしぼくは、「いったいそれは、そこまで追及されなければならないことなのだろうか」と思うんです。「すみませんでした」で済む話ばかりです。もちろんこれはぼくの主観ですから、「そんな軽く済ませられない」と思う人も当然いるでしょう。


 個人個人には多様な考え方があるし、あって当然です。つまり人によって価値をはかる物差しは違う。
 勲章を尻ポケットに入れることができる人、それを無礼だと感じる人(後者が多数派な気もしますが)、さまざまです。
 しかし、例えば「勲章を尻ポケットに入れるのはとんでもない」と考える人たちは、まず「自分の物差し」で相手側を批判しようとする。それは批判などという高尚なものではなく、感情のおもむくままに、ただ「叩く」。そこには愛もなければ、問題提起もなく、議論ですらない。


 物事を「良い・悪い」あるいは「正しい・間違い」という括りだけで見ると、批判する側は、最後にはほぼ必ず相手を「だから彼は(彼女は)間違っている」と「責め」ます。そういう言葉は、素直に受け止められないし、浴びるだけで気持ちがマイナスに振れます。
 人を責める言葉には、正義感という衣の内に、「非難や攻撃のためのトゲ」という荒れた感情を秘めているからなんですね。
 そして「責める」ことではなにも解決しないし、変わらない。
 しかも、自分には火の粉がかからないように責めている。つまり、責められることのない位置から責めはするが、そこから出ようとはしないんです。 
 善悪や正邪では計れない部分を、善悪や正邪で解決しようとするから、「相手を責める」ことにしかならないんだと思います。


 また、巷間飛び交っている「非難の言葉」や「批判の言葉」には、「世の中を変えたい」とか「問題を提起していきたい」という気持ちが前提としてある、と捉えられていますが、本当にそうでしょうか。
 ぼくには、ただ「相手を責めたい、責めてやりこめたい」だけにしか見えないのです。そして、相手を責めることで自分の存在をアピールしているようにしか見えない。


 ゴシップばかりではなく、政治に関する話題や、人間性に踏み込んだ話題においても、「相手側」を非難攻撃している論調をしばしば見かけます。
 しかし、いくら内容がそれなりに真剣でも、馬鹿だのなんだの人を罵倒しながら自分の意見を述べる人には、ぼくは同調できません。


 つまり、相手をやり込めることのできる事柄(赤ちゃんを居酒屋に連れて行った、とか、食べ物に異物が入っていた、とか)があれば、「責めてもいい大義名分」を手に入れたことになるのです。その大義名分があれば、自分の物差しを使って「正義感」という名の攻撃をしかけることができるんです。
 そこには「他人を責め続け、やりこめることで得られる達成感」や「自分の存在をアピールできた満足感」があるのでしょう。
 そんな手段で手に入れた満足感は長くは続きません。だから、再び満足感を味わいたくて、誰かを責め始めるのでしょう。


 問題意識を持っているように思わせながら、実は自分アピールがしたい人。
 危機感を持って、問題を提起する人。
 あれこれ言いながら、ただ話が大きくなるのが面白いだけの人。
 いろんな人がいて、どれが良いとか悪いとかではないですが、自分はニュースを鵜呑みにはせず、ちゃんと問題そのものを見て、それについて考えてゆきたいと思います。
 



 実は、自分もそういうところを通ってきたからこそ、今ではそう思えるんですけどね。







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