貢蕉の瞑想

青梅庵に住む貢蕉の日々のつぶやきです。

咲いてさびしき

2019-12-25 08:59:21 | 日記

咲いてさびしき

令和元年12月25日

 生まれて初めての

クリスマス・イブ!

 みーちゃんはどんな

クリスマスを過ごしたかな?

 ユーチューブで、

ディズニーのクリスマス

パレードを、夫婦二人で

楽しんだ。

 ディズニーは別世界。

素晴らしい物語の世界!

 さあ、今朝も蕉道へ。

 本堂左手つき当たりが故郷塚。

   茅葺き屋根の小堂の中に、

高さ70センチ程の自然石

の塚。

 碑面は読みづらし。

 門人・服部嵐雪の筆による

もの。

 中央に「芭蕉翁桃青法師」・

右に「元禄七甲戌年」・

左に「十月十二日」と刻まれ、

芭蕉の遺髪が納められている。

  芭蕉没後、伊賀の門人達は、

毎年10月12日に、此処で

「しぐれ忌」を催し追善。

 その志は今日まで連綿と続け

られているという。

 素晴らしい

 ここには文豪尾崎紅葉や

川端康成をはじめ多くの文人

墨客が参詣。

 これが、「はせを故郷塚」碑。

 農人町三叉路にあった道しるべを、

昭和17年に移建。

文化2年(1805)、

  長月庵若翁建立。

  下の写真は、「偲翁碑」。


 

 故郷塚の手前左手にある。

昭和18年11月、

芭蕉翁二百五拾年忌に

蟻塔会建立。

碑陰に塩田紅果の句が

刻まれている。

「はれやかに 

 咲いてさびしき 

  冬佐く良」
 


菩提寺には遺髪

2019-12-24 09:27:38 | 日記

菩提寺には遺髪

令和元年12月24日

 真っ青な空。

 サンタさんがやって来る日。

 愛染院へ。

 遍光山願成(がんじよう)寺と

いう真言宗のお寺。

  松尾家の菩提寺で、

愛染明王を安置することから

愛染院という名で知られて

いる。 

                    

 芭蕉翁は元禄7年(1694)

10月12日、旅の途中、

大阪で病に倒れ没する。

 亡骸は遺言により

「ふる里のごとく」愛した

滋賀県大津市膳所の義仲寺

に葬られる。

 訃報を受けた伊賀の門人・

服部土芳(蓑虫庵主)と

貝増卓袋によって遺髪が

奉じ帰られる。

 二人は形見に持ち帰った

芭蕉の遺髪を松尾家の菩提寺

「愛染院」の藪かげに埋め、

標の碑を建て、

『故郷塚』と称する。

 当時の塚から、現在の場所に

移されたのは、芭蕉翁50回忌

の元文3年(1738)の時と伝えら

れている。

  故郷塚の手前に、

先ず、芭蕉句碑。

句は、

「家はみな 

 杖にしら髪の      

  墓参り」


『貝おほひ』奉納

2019-12-23 09:01:57 | 日記

『貝おほひ』奉納

令和元年12月23日

 奥多摩の山々が薄化粧。

青梅も初雪が降る。

うっすら積もっている。

一陽来復の雪かな。

 今朝は、上野天満宮、

伊賀市にある菅原神社へ。

駆け足の参拝!

 故郷塚から徒歩10分の処に

ある。 

 上野平楽寺の伽藍神で、農耕

神祇に発祥する神々を祀る神社

だったが、天正9年(1581)

天正伊賀の乱の後、藤堂高虎に

よる城下町建設の際この地に奉還

され、城郭鎮守として祀られる。

  芭蕉(当時は宗房)が、

29才の時に『貝おほひ』という

三十番発句合せの選集を編んだが、

それを産土の神であり、

文学の祖神である上野天満宮に

奉納する。

 俳諧師として世に立つ決意を

示し、江戸に下る。

  『貝おほひ』は、伊賀の俳人と

宗房(芭蕉)自身の句六十句を

左右三十番に合わせ、宗房が

判定し、優劣の理由を述べたもの。

 半詞は当時の軽妙洒脱を自由

自在に駆使し、談林風俳諧の

先駆的役割を果たしていると

いわれている。

 その祈念碑。

 

 そして、駆け足で戻る。


一陽来復は一陽来福 

2019-12-22 09:04:22 | 日記

一陽来復は一陽来福 

令和元年12月22日

 今日は冬至。

 朝食に南瓜。小豆をのせて

戴いた。

 夜は柚子湯に入る。

 柚子も近所で戴いた。

 有り難し!

 英語では、「the winter solstice」 

または、「the shortest day of the year」

<main role="main"> <article class="aa_article">
 冬至は太陽の力が一番
 
弱まった日。
 
 この日を境に再び力が甦って
 
くることから、
 
「一陽来復」という。
 
 私にとっては、
 
「一陽来福」だ。
 
 
 生家の裏にある釣月軒
 
(ちょうげつけん)は、
 
芭蕉が29歳の時、
 
『貝おほひ』という自ら署名
 
出版した唯一の書物を執筆した
 
処。
</article> </main>

 その序文には、

「寛文拾二年正月廿五日伊賀上野

松尾氏宗房釣月軒にして

みづから序す」とある。

 伊賀にいた頃の芭蕉は、

通称の宗房(むねふさ)をそのまま

俳号として使っている。

 芭蕉と名乗るようになった後も、

伊賀へ帰省の折にはこの建物で

起居している。

「無名庵」は伊賀の芭蕉五庵の一つ。 

伊賀の門人たちが芭蕉に贈るため、

ここ生家の裏庭に建てた庵。

元禄7年8月15日、

芭蕉は新庵披露をかね月見の宴

を催し、門人たちを心から

もてなす。

 その時、詠んだ句が、

「冬籠り 

  またよりそわん 

    此はしら」

  句意は,

「今年は久しぶりに自分の

草庵で冬籠りをすることに

なった。いつも背を寄せ親し

んできたこの柱に、今年もまた

寄りかかって、ひと冬閑居を

楽しむことにしよう。」。

  古里に勝るものなし!

 特に、晩年、誰もがそうなるのが、

人の常ではあるが・・・。    

一陽来福に深謝するのみ! 


道祖神の招きか 年の暮れ

2019-12-21 09:24:05 | 日記

 

道祖神の招きか 年の暮れ

令和元年12月21日

 29歳まで芭蕉は生家で

暮らしている。


 

 それ以降、幾度か帰郷。

 晩年の貞享4年の暮れ、

この生家で自分の臍の緒を

見つけ、亡き父母や郷土

伊賀への慕情を怺えきれず

涙する。

「旧里や

  臍のをに泣

    としのくれ」 

と詠む。

 その句碑が生家前に建って

いる。


               

 当時の生活を見事に再現した

この生家は、芭蕉たち家族の

暮らしぶりがよくわかる。

 この土間の奥に、釣月庵がある。


 

 また、「芭蕉瓦版」に、

米国の駐日大使キャロライン・

ケネディさんが、「奥の細道」

の芭蕉の句を引用し、着任した

ことも掲載されている。

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「道祖神(どうそじん)の

 招きにあひて

取るもの手につかず」

 キャロライン・ケネディ前駐日米大使は、

ワシントンの駐米日本大使公邸で

開かれた祝賀式典で、江戸時代の

俳人・松尾芭蕉の「奥の細道」の

一節を引用し、日本赴任にはやる

心境を披露したのだ。

 この一節は

「旅に出たくて何も手に付かない」

との意味。

 日本文学者ドナルド・キーンさん

の英訳をすらすらと口にした

ケネディ氏は

「私も日本に引き寄せられている。

日本で職責を果たす日が待ちきれ

ない」

 とあいさつ。

 詩に関する著作があるケネディ氏は

「詩の親善大使」と呼ばれた。

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