貢蕉の瞑想

青梅庵に住む貢蕉の日々のつぶやきです。

おもしろうて やがて悲しき!

2020-04-18 09:48:49 | 日記

おもしろうて やがて悲しき!

令和2年4月18日(土)

 ○○会の研修の宿泊先が、この鵜飼

乗り場の下の方のホテルだったか。

 宿泊だけだったので、夕食と宴会。

 鵜飼を見たかったなあという当時

の思いが蘇る。

 鵜飼乗り場は、壮観!

 鵜飼乗り場の木製の灯台かな?

 その前に、五木ひろしの唄

「長良川艶歌」の記念碑がある。

 12年間ベストテン一位を勝ち取

っていた唄だそう。

 今じゃそんなに息の長い曲は

皆無に等しい?

 石本美由紀作詞。

「水に煌めく かがり火は 

  誰に想いを 燃やすやら…」

  出だしがよい。

 「夜明けの風が泣き」、

 「朝が白き長良川」という一夜の悲恋。

 長良川にはぴったし!?

   そんなことを思いつつ、十八楼の

前の駐車場に到着。

 芭蕉の白き立像がひときわ輝いて

いる。

  早速ホテルに入り、受付の方に、

「芭蕉の句碑等撮影。」の許可を

いただく。

 前回よりは丁寧に観る。

   ロビーのガラス越しから中庭にある

句碑を撮影。

 見事の松の中にある芭蕉の句は、

「このあたり 

  めにみゆるもの 

       皆涼し」

 柱には、短冊句。

 「おもしろうて 

  やがて悲しき 

     鵜舟哉」

  やはり芭蕉の感性! 

 慈悲の心?

 何かの含みもあるのか?


当時流行の三つ物とは?

2020-04-17 10:39:13 | 日記

当時流行の三つ物とは?

令和2年4月17日(金)

 芭蕉の句は、

「やとりせむ

   あかさの杖に  

     なる日まで」

  元禄元年岐阜己百亭の吟。

 巳百というのは、当寺の僧で俳人

でもある。

 己百の案内で芭蕉は来岐。

 多くの岐阜俳人仲間の出迎えを

受けて、妙照寺の奥書院に旅装を

解く。

 その時の挨拶句である。

 句意は、

「この家に泊って、あるじの己百の心

をこめたもてなしで、とても居心地が

よい。

 このままゆっくりと滞在させて

もらいたいものだ。

 その気持は、今、庭に小さい花を

つけている(一年生草木。茎は

約一メートルに達する)が、

秋になって背が高くなり、

杖に用いることが出来るように

なるまで、ゆっくりと世話に

なっていたいものだ。」。

  岐阜滞在中、多くの俳人が芭蕉を

招待する。

 まず、安川落梧亭に招かれ、

この日名古屋から芭蕉を迎えに

きた山本荷兮(名古屋の俳人、医者)

と、当時流行の三つ物(俳諧の発句と

脇句と第三句をいう)を試みる。

  「蔵かげの 

   かたばみの花 

     めづらしや」   

          荷兮 

(折りてやトモ)

「ゆきてや 

   掃かむ庭に 

       箒木」        

         落梧

 「七夕の 

  八月はものの 

    淋しくて」     

         芭蕉 

 ついで、中川原新田(岐阜市湊町)の

油屋、賀嶋善右衛門(俳号歩)の水楼

(長良川に臨んだ高殿)で遊ぶ。

 主人の求めに応じて楼名を選び、

有名な「十八楼の記」を書く。

(現在、「十八楼」の一階ロビー壁面に、

芭蕉の「十八楼の記」が展示されている。

後程十八楼で。)

  境内には、彼岸花や萩の花が満開。

 そして、

秋にぐうんと伸び、杖になるという

藜もひょろひょろと伸びていたが、

藜の手入れが今少しかな。

 これでは、杖にはならないな?


あかさの杖になるまで

2020-04-16 09:21:02 | 日記

あかさの杖になるまで

令和2年4月16日(木)

 昨日は、軟骨にビスが2ミリメートル

触れているという診断で、手術のやり

直し。

 軟骨は次第に減っていくので、

痛みが出て、また手術よりは・・・と

いうことで、家内は再手術。

 短いビスで留めたので、今度はOK.

今日からリハビリが始まる。

 とにかく二足歩行は宝物。

 有り難し!

  自転車は便利。

 齋藤道三等齋藤家の菩提寺「常在寺」を

参拝し、妙照寺へ。

  妙照寺は、身延山久遠寺を総本山と

する日蓮宗の寺院。

 京都・大本山妙顕寺第8世日広聖人の

弟子、五千院日舜聖人により開山される。

 当時は岐阜市柳町の辺りに創建。

 慶長5年(1600)に岐阜中納言

織田秀信公より現在地に寄進、移転。

  現在地は旧竹中半兵衛屋敷跡と

伝えられる。

 また、芭蕉が、貞享5年(1688)6月に

来訪し、約一ヶ月滞在する。

 実際使用された庫裏奥の十二畳座敷

「芭蕉の間」が現存しているという。

  芭蕉の句は、

「やとりせむ

  あかさの杖に  

    なる日まで」

  元禄元年岐阜己百亭の吟。

  巳百というのは、当寺の僧で俳人で

もある。

 己百の案内で芭蕉は来岐。

 多くの岐阜俳人仲間の出迎えを受けて、

妙照寺の奥書院に旅装を解く。

 その時の挨拶句である。

 句意は、

「この家に泊って、あるじの己百の心を

こめたもてなしで、とても居心地がよい。

 このままゆっくりと滞在させてもらい

たいものだ。

 その気持は、今、庭に小さい花をつけ

ている(一年生草木。茎は約一メートルに

達する)が、秋になって背が高くなり、

杖に用いることが出来るようになるまで、

ゆっくりと世話になっていたいものだ。」。

 これが、あかさ、アカザ。


岐阜の大仏 一瞬驚愕!

2020-04-14 13:40:54 | 日記

岐阜の大仏 一瞬驚愕!

令和2年4月14日(火)

 自転車で妙照寺の方へ向かうと、

岐阜大仏のお寺の案内板が目に入る。

 「岐阜大仏があるのか」と

一瞬驚愕。

 そのまま正法寺へ導かれる。

 岐阜大仏は、日本三大仏の一つに数え

られ、乾漆仏としては日本一の大きさを

誇るという。

  天保3年(1832)4月に、38年の歳月

を費やして完成。

  堂の高さ25.15m、廻り19.39m、仏像は

坐像で、高さ13.7m、耳の長さ2.1m、

鼻の高さ0.4m。

 大イチョウを直柱として、骨格は木材で

組み外部は良質の竹材と粘土で造られ、

その上を一切経で糊張りし、漆を塗り、

金箔を置いたもの。 

  

 胎内には薬師如来がまつられている。

  表情も独特。微笑みかけられているよう

なその優しさと慈悲、そして荘厳さ。

 静寂な大仏殿の中はまさに癒しの空間!

 参拝も一人だったので、大仏をじっくり

拝むこともできた。


自由人も聖諦の憂き目?

2020-04-13 09:27:56 | 日記

自由人も聖諦の憂き目?

令和2年4月13日(月)

 金華山を少し下ると、

金華山御嶽神社がある。

 御礼の参拝!

  立派な句碑も見つけるが、誰の句碑か

不明。

  ロープウェイで金華山を下りる。

  そこで働く女性に、

「工事中の三重の塔へ行くには?」

と聞くと、「裏の出口から」。

 裏の出口へ行くと、工事中の塀が

立ち、行けそうな通路もなし。

 もう一方に聞くと、

「山道ですが、小径を上がると、すぐ右に。」

という案内。

 平成28年に登った「瞑想の小径」へ行く。

行けども行けども、三重の塔への道案内

はなし。

 結局三重の塔の下にあるという

芭蕉句碑は諦め、ロープウェイの下まで

自転車を取りに戻る。 

 板垣退助氏の、

「板垣死すとも自由は死せず」

と名言を残し、暗殺された場所を参拝!