minga日記

minga、東京ミュージックシーンで活動する女サックス吹きの日記

白石かずこさんとの思い出。(前編)

2024年06月24日 | 映画、本、芝居関係
先日、6/14に詩人、白石かずこさんがご逝去されました。心からご冥福をお祈りいたします。

このところ、偉大な女性アーティストの訃報が続いて、そんな時にだけブログを書いているような気がするなあ。。。。

自分の忘備録として白石さんと初めて出会った頃の思い出を書かせていただきます。



ハンス・ライヒエルgとブッパタール。

26歳の秋だったか。。。。

当時の西ドイツ、ブッパタールに住んでいたギターリストのハンスとの出会いは
西荻窪の「あけたの店」。

私は藤川芳明asオーケストラのメンバーとして演奏していた。
翠川敬基cello、吉田哲治tp、佐藤春樹tb、横山達治per、などなど錚々たる顔ぶれのフリー系オーケストラ。

当時、日独の交流が盛んだった。
山下洋輔氏やエンヤレコードの社長、ホルスト氏、そして副島照人氏たちのおかげだ。

また、メールスジャズフェスなど、ドイツの各地でフェスティバルが増え、
「FMPオーケストラ」というヨーロッパで大人気のミュージシャンたちも来日していた。

その中のひとり、ギターのハンスはオフの日に、美しい日本女性の恋人Sさんを連れて「あけたの店」にやってきた。
おそらく、「日本のフリーオーケストラを聞くなら、藤川オーケストラだ」と誰かに聞いたのかもしれない。

そこで、私の演奏を気に入ってくださり、ハンスとの交流がどんどん深まっていった。

「Sachi,来年、ヨーロッパツアーしないか?ドラムは誰がいいかな?」

当時のメンバーだった「つの犬dr、と利樹と3人で行けるなら喜んで!」


私たちにとって、初めてのヨーロッパ!

フランクフルト空港に到着してまず、飛行機の窓から覗いて、飛行場で働く男たちの「でかさ」にびっくり。
なんだか巨人の国に来ちゃったよ。。。というのがヨーロッパ初体験の第一印象。


ハンスと恋人のSさん、そして宿を提供してくれる女主人イエッテが空港で迎えてくれた。

「はじめまして、ってドイツ語で何ていうの?」と私がハンスとSにこっそり尋ねると、

「イエッテ!」

宿のご主人の名前とは知らずに

「Oh~~~!イエッテ、イエッテ!」

と挨拶がわりに彼女と握手をしながら3人で「イエッテ!」と連呼していたのは
今思い出してもこっぱずかしい。
(本当は「アンゲネイム」が「初めまして」らしい。)


「さあ、レンタカー借りて来たから、みんなこっちへ。」とハンス。

『わ〜い、ドイツの車でアウトバーンを走れる〜。ベンツかな〜、ワーゲンかしら?』とワクワクしていた目の前に、トヨタの白のハイエースが停まっていた。

ちなみに、私と利樹も東京では白のハイエースだよ。。。

乗り慣れた車に乗り込み、いざ、ブッパタールへ。


ハンスの住む、「ブッパタール」というモノレールとピナバウシュで有名な可愛い街に2部屋を借りていてくれた。

イエッテの宿は一階が小さなバー。

私と利樹はその2階の屋根裏部屋を使い、つのけんには別のとてもおしゃれなお店の2階を用意してもらった。

ブッパタールは小さな街だから、みんな飲みに行くお店はほぼ同じ。

私たちもお昼は、宿の向かい側にある「カッツエン・グールド(金の猫)」というカフェに入り浸っていた。

日本人は珍しいからいろんな人たちから声をかけてもらい、友達が増えていく。。。。

娯楽はあまりない田舎街なので、楽しみは仕事後に一杯(どころじゃないけど)やること。
夕方から、特に週末はどこのバーも酒飲みたちで溢れかえっていた。

そして、面白いことにこの街はミュージシャンもたくさん住んでいたのだ。

私たちの借りていた家から5分も離れていないご近所に、ペーターコーヴァルトというベーシストも住んでいた。

彼も、ハンスとFMPオーケストラなどで来日していた仲間だ。

天井の高い、倉庫のような広々とした1階の部屋で、いつでもベースが弾ける素敵な家だった。


ペーターも日本人が大好きで私たちが遊びに行くと大歓迎で、毎日のように彼の家でみんな集まってセッションしたり食事をしたり。。。

そんなある日、ペーターが

「来週、隣のレストラン借りて、「日本食祭り」をやろうと思うんだ(もちろん、有料で)。
ここで料理できるのって、サチと俺の彼女の2人しかいない。
だから、彼女を手伝ってあげてくれない?」

もう遠い記憶だからこの辺りのいきさつははっきりしていないけど、ペーターの当時の彼女と私で、なんだかわけのわからない日本料理のコースをふるまった覚えがある。
焼き鳥、寿司、天ぷら。。。どうやって食材とか集めたのかまったく記憶にはないが、なんとかやり遂げた。(今思うと、ゾッとする。)

大勢のもの好きなドイツ人たちがたくさん来てくれて、おいしいおいしい、と言ってくれたのだが、

終わってはたと気がついた。。。。

「あ〜!お寿司に醤油つけるの忘れてた〜〜〜!!」

時、すでに遅し。

「よくみんな、お醤油もなくてお寿司を生で食べれたね〜。」
「うん、おいし〜って帰っていったよ〜。」




そんな無茶振りペーターの家に遊びにいったある日、

1人の素敵な女性がたばこを燻らせて座っていた。
強い目力で私たちのことをじっと見ていた。


あ、白石かずこさんだ。。。。。。。。。。。(つづく)









崔洋一監督と「Another Country」の話

2023年11月23日 | 映画、本、芝居関係
崔洋一監督が亡くなってから約一年。
Vシネマ(もう死語かなw?)「襲撃」という作品で私を音楽担当に起用してくださった貴重な監督だった。


2022年、癌を自ら公表し、最後にご自分で撮影、編集、制作した「松田優作メモリアルライブ」を残し、4月にテアトル新宿で7日間に渡る「ラストショー」イベントを行なった。
この時、監督とお別れのご挨拶をさせていただいたのだが、弱々しくなっていた体に鞭打って笑顔で私たちに挨拶をしてくれる優しい監督に
なんと声をかけて良いのかわからずに最後の握手を交わした。。。「監督、本当にいろいろとありがとうございました。」

それから約半年後に本当にいなくなってしまった監督について、1年経った今、私にとっての崔洋一監督のこと、忘れないように書き記そうと思う。





20代の頃、日本映画大好きの利樹に連れられて、映画「十階のモスキート」「友よ静かに眠れ」などを観ていた私にとって、崔洋一さんは大好きな憧れの映画監督の1人。

その頃、原田芳雄さんのブルースバンドに参加することになった私は、ちょうど松田優作さんが亡くなった1年後、追悼コンサートがあるということで初めてサンシャイン劇場に出演。

この公演は台本、構成などを原田芳雄さんと崔洋一監督が行って盟友、松田優作を偲ぶ役者、歌手たちが集まった素晴らしい舞台となった。
この時の映像を撮影していたのも崔洋一監督。
しかし、この映像はずっとお蔵入りとなっていたので映像があったことすら私は知らなかった。
崔監督が癌の闘病中にこの貴重なフイルムを発見し(無くなってたんだw!)、どうしても編集して残したいと思った作品(遺作)となるまでは。。。。



監督との出会いは確か、1988年、下北沢の有名ジャズクラブ「LadyJane」。


松田優作メモリアルライブの打ち合わせで来ていた監督。ちょうどその日のライブは私と永田利樹bass(もう1人?共演者がいたと思うのですが失念、お許しを!)だった。



「さっちゃんって、芳雄さんのところでサックス吹いているんだよね。いや〜、素晴らしい音だなあ。僕の次の映画Vシネマ(東映)なんだけど、音楽をやってみない?」
とそのライブ直後にお声がかかった。

こんな小娘に映画音楽任せてもらえるなんて、本当に良いのでしょうか???と戸惑いながらも大喜びで引き受けさせてもらったのを覚えている。



私もちょうど30歳。平成元年。

利樹と結婚し、NYへ行ったりヨーロッパツアーに行ったりしていた時期だったが、本当に素晴らしい経験をさせていただいた。

新居のマンションに崔監督がやってきて、軽い打ち合わせで「音を聴かせて」ということになり、家にある小さなキーボードとピアニカで音をひっぱり出して「こんな曲です」なんてやってびっくりされたっけw。

当時はパソコンもなくて、音も簡単に作れる環境はなかったので、生演奏中心の私にとっては最大限のプレゼンテーションだったのだ。
今思えば、そんな音楽環境で苦笑いしながらもよく納得してくれたな〜と思う。崔監督の優しさとおおらかさの賜物だった。

映画が完成してからは東映の撮影所に行ったりして音楽を入れていく作業はとても楽しかった。

演奏を張り切りすぎると「そんなに張り切らなくていいよ。映像がかき消されちゃうからね。」


言葉には出さないけれど、やんわり教えていただいたものだ。


初めてのことだらけだったが、利樹との共同作業でなんとかVシネマ「襲撃」は完成。


エンドロールに流れる曲は「Another Country」という私のオリジナル。

大学時代に卒論で取り上げたジェームズボールドウィン著作の本のタイトルをもらった作品。たぶん、プロになって初めて書いた曲かも??

ファーストアルバム(LP)「Free Fight」のラストにも入れたこの曲は当時、池袋ぺーぱーむーんの店主(山本いっきさん)の大のお気に入りでもあったので、店に行くと、この曲がかかっていることも多かった。



この「Another Country」だけは最後のエンドロールなので思いっきり演奏させていただいたのを覚えている。



この映画以降も崔監督はコンサートに来てくださったり、イベントがあるたびに私を招待してくださる律儀な方だった。



以来、この「Another Country」を演奏することをすっかり忘れていた私だったが、先日(11/3)、息子RIOの結婚披露宴が行われた。



「かあちゃんととうちゃんのDUOで何か演奏してくれない?ただし演奏曲は俺たちには秘密でね。」
とサプライズ好きの2人に頼まれ「何演奏しよっか〜?」と困っていたら利樹が突然、



「Another Countryを演奏しようよ。」




息子たちはこの曲をもちろん知らなかった。私だってすっかり忘れていたくらいだからw。



結婚式でこの曲を演奏したとき、会場中に歓声が広がった。
RIOもあいかも大喜び。「なんで今までこの曲演奏しなかったんだよ?」

その時の映像はこちら。



再び生き返った「Another Country」。これからもどこかで演奏することになると思います。ふふふっ。



そして、今日「襲撃」の放映のお知らせが舞い込んできた。。。


<11月28日(火)夜11:40 WOWOWシネマ>で「襲撃」(東映)を放送!!!




おそらく崔洋一監督一周忌の追悼の意味もあるのかな、と思います。

WOWOWでの放映なので、残念ながら私は見れませんが、ご覧になれる方はぜひどうぞ。

若い頃の私たちの音がせきららに入ったギャング映画です。
この映像、録画した方がいたら是非お知らせくださいませ!!!!


天国で芳雄さんや優作さんたちと楽しくやっていらっしゃるかしら。
崔洋一監督、どうぞ安らかに。































[タイムスリップ] 〜松田優作メモリアル・ライブ

2020年01月31日 | 映画、本、芝居関係
DVD 松田優作メモリアル・ライブ 予告



崔洋一監督と出会ったのは下北沢Lady Janeで演奏をしていたときだった。30年も昔の話で細かいことは覚えていないけれど・・・

「サックスの音、とてもいいね。今度ぼくの映画の音楽やってみませんか?」そんな出会いだったと思う。


同じ頃、原田芳雄さんのブルースバンド「フラワートップ」のエキストラを佐藤達也さんから頼まれて初めて目黒のスタジオで原田芳雄ご本人と会うことに。大好きな俳優さんでまともには目が合わせられなかった。さらにバンドには元キャロルの内海利勝さんまでいる(実は中学生の頃キャロルのファンだった)!と、興奮でドキドキしたのを今でも覚えている。

そして、スタジオでのリハーサルが終わって帰る前に芳雄さんから「いきなりストレートパンチを食らった感じです。」芳雄さん流の褒め言葉をいただいて舞い上がる心地だった。その日から芳雄さんとの交流が始まった。


同時に崔監督が手がけることになった「松田優作追悼ライブ」にも誘っていただいた。そう、ちょうど松田優作さんがなくなって一年経とうという時期だったのだ。私も結婚したばかりでNYと東京を行き来していた頃だ。

池袋のサンシャイン劇場。

たった一夜限りの「デ・ジャブ」。バーのマスター(松田優作さんのこと)不在の中、繰り広げられる夢の一夜。優作を愛する人たちが集い、しゃべり、歌う。そんな脚本を崔洋一監督が考え、原田芳雄、桃井かおり、水谷豊という素晴らしい俳優陣が優作にまつわる歌を歌いつなぐというストーリー。豪華な俳優、歌手たちが手弁当で出演した貴重なライブだった。

どんな進行なのか全くわからないまま、舞台の上方に設置されたセットでただただ演奏していた。「こんな凄いメンバーの中でミスがありませんように」という思いだけで必死だった。

昨日の映像を見るまでは、その時どんな曲を演奏したかも、どんなストーリーが展開しているのかも知らないまま30年が経過したのだ(苦笑)。

崔監督の優しい人柄、原田芳雄という格好いい俳優、松田優作さんはお会いできなかったけれど、スタッフ、出演者のすべての人たちが彼のことを愛していたんだな・・・・・映像を観ているうちにあの時のことが走馬灯のうように蘇ってきた。

映像の中に出てくる息子の原田喧太くんはあのとき20歳。そして妹の麻由ちゃんも中学生だったそう。

芳雄さんが中盤から登場すると一気に引き締まったムードに。しかも、最初の登場シーンは桃井かおりさんのバックでこっそり出てきて、ラグタイム風のブルースピアノをガンガン弾くのだ。ひえ〜〜〜、今まで芳雄さんがあんなにピアノが弾けたことも知らなかった!!!!

舞台の裏側にいるから表舞台で何が起きているのか、まったくわからない。こうやってDVDになったので初めて知るいろいろな発見。いやはや見応えありました〜。

世良公則さん、宇崎竜童さん、新井英一さん、BOROさんの歌も心に突き刺さった。ほとんどが優作さんの曲なのだけれど、私は一切知らなかった。(優作ファンに怒られるな)。でも素晴らしい歌がたくさんあって、未だに原田喧太くんなどが歌いつないでいることも忘れてはいけない。

アンコールでBOROがでてきて彼自身の歌「天国は遠くの町」を歌い、出演者全員が大合唱するという感動のラストシーン。

ここで最後に、出演者全員が私の演奏している上のセットを見上げ、ソロの終わりに私に向かって拍手を送ってくださったのだ。名もなきサックス奏者の私に。嬉しくて嬉しくて震えが止まらなかった・・・。

こんな映像を残してくさって、さらに大きなスクリーンで試写会で見れたこと、心から感謝いたします。




崔洋一監督のフリートークも面白かった。

舞台挨拶に原田美枝子さんが「この映像みたとき、一瞬タイムスリップしたかのようでした。」と語っていたけれど、まさにそのとおり。

あの頃の自分の音に出会えたことにも感謝。崔洋一監督、原田芳雄さん、そして未だに一緒に演奏できる原田喧太くん、フラワートップの仲間たちと出会えたことは最高の宝物です。


原田喧太、フラワートップの仲間たち(ライオンbass、コバdr)と。

2/2からDVDが発売されますので、アマゾンとかでぜひご購入ください。


松田優作、原田芳雄を知らない若い人たちにもぜひ観てもらいたい。本当に格好いい不良中年たちの生き様が垣間見れる貴重な映像。

崔監督とそのあとに東映Vシネマ「襲撃」の音楽を担当させていただくことになるのですが、その話はまた後日・・・・。























一成一代騒動記@大鹿村(長編です。)

2018年10月22日 | 映画、本、芝居関係
天国の芳雄さん、いつもありがとうございます。

2011年の熱い夏の日、涙が枯れ果てるまで泣いたあの日・・・。あれから7年経つのですね。

大鹿村は芳雄さんが愛して最後の作品を撮影した思い出の場所。「大鹿村騒動記」を観るまで私はこんな村があって、歌舞伎があるなんて全く知りませんでした。

そして、そんな芳雄さんを愛した熱狂的なファンであった一成くん。彼はトム・ウェイツと松田優作と原田芳雄をこよなく愛する若者でした(当時は)。

私が芳雄さんのマンスリーライブに出演するようになったとき(これも20年以上前ですが)、一成くんと出会いました。それ以来、ずっと私のことも応援してくれていましたが、芳雄さんが亡くなる10年前くらいから体調が悪いという理由もあって音信不通に...。お葬式で再会しましたが、その時はほんの挨拶を交わした程度。

2013年2月28日、芳雄さんの裏バースデイ(本当は2/29なので、2/28しかない年を裏のバースデイと呼んでコンサートを行っていた)をフラワートップのみんなでやろう!と言うことになって原宿で「原田芳雄追悼ライブ」をやることに。そして、ライブが終了して原宿のライブハウスを出たところで・・・ばったり一成くんと鉢合わせ!「なにやってんの?ライブこなかったの?」「いや〜、さっきこのライブがあることを知って、終わってるかな〜、って駆けつけてみたんですが間に合いませんでした。すみません!」

あまりの偶然とご無沙汰で、そのまま原宿の焼肉屋で飲もう!ということに。

「実はオレ、あれから大鹿村の歌舞伎にはまっちゃいまして・・・」

映画のあと、本当に大鹿村に行って、歌舞伎のお稽古などの裏方をやってお手伝いさせてもらっているという・・・。ただでさえ小さな村の小さなサークルなのに東京(よそもの)から来て村の人たちとの交流を深めるなんて大変なこと。しかも一成は会社の社長さん。歌舞伎のお稽古があるときは仕事を終わらせてそのまま大鹿村(約4,5時間かかる)まで車でひたはしり、稽古を終えてから夜中に東京へもどる、という生活をくりかえしていたそうな。ひえ〜〜〜。

「めちゃくちゃ面白いんですよ。あの歌舞伎。役者さんたちがみんな素敵で。あの「大鹿村騒動記」なんてもんじゃないくらいドタバタが楽しいんです。一度さっちゃんたちをそんな大鹿村へ呼んでコンサート開きたいというのがオレの夢なんです。」

「え?いきた〜い!!やろうやろう!」

話はすいすいと決まり、翌年2014年の秋、大鹿村で「原田芳雄プロジェクト」を開催することになり第一回目はTReSで演奏することになりました。




歌舞伎の舞台となった大せき神社でお参り

その時の美しい大鹿村と暖かい村の人たちが忘れられなくて、また来年も!!!!と毎年恒例の行事へ・・。芳雄さん、ありがとうございます。



翌年の第2回目は原田芳雄さんの息子の喧太くんとフラワートップのリーダー的カリスマギターの内海利勝(うっちゃん)を誘ってコンサートを交流センターで開催。翌日も朝から大せき神社で投げ銭ゲリラライブをやるという強硬策に。村の人たちも大喜び!

なんと喧太くんだけ、大鹿村には来たことがなかったそうです。そんな喧太くんもここを気に入ってくれて「来年は佐藤浩市さんたちも呼んじゃおうよ!」ということに。

喧太くんのおかげで、佐藤浩市、瑛太、という「大鹿村騒動記」にまつわる役者2人が参加してくださることになって・・・本当にすごいプロジェクトになりました!!!











あまりに大きなイベントになってしまって、翌年(昨年)は・・・台風やら選挙やらでイベントは急遽中止に(涙)。

そんなこんなで一成くんも大鹿村の人たちもがっかり・・・。



私も一年に一度は大鹿村を訪れて、ここの美味しい空気と赤石荘の温泉に入りたいよオ!!!という念願がかなったのでしょうか。

急遽「大鹿歌舞伎の前日に新しくできた道の駅で演奏してもらえないでしょうか?」とオファーがきました。

リオは仕事でだめでしたが、トシキと私はコスマスに声をかけて久しぶりに3人で演奏することに。

山をこよなく愛するコスマスにはぴったりの村です。南アルプスに囲まれて絶対喜ぶと思った〜。それにしても仕掛け人の一成くんの表情がこわばっていましたw。「俺、めちゃくちゃ緊張してるんですよ。」と明日の歌舞伎のことで頭がいっぱいなんだナ〜。一成くんの奥様と友人も東京から駆けつけています。




道の駅のテラスで景色を眺めながらビリンバウを練習するコスマス。

久しぶりの3人の演奏はガラス張りの食堂に鳴り響き、気持ちよくアンコールもいただき終了。さあ、温泉だ〜〜!!


食堂のおばちゃんが「お金いらないから。素敵な演奏ありがとう!」と大判焼きをくださいました。あったか〜い大鹿村の人たち。


赤石荘の玄関にて


お気に入りの赤石荘の温泉。標高900mなので、星空も目の前に広がる、素晴らしい露天風呂です。

そして、いよいよ「大鹿歌舞伎」です!(前置き長くてすみません!!)

正午開演ですが、もう11時には人がいっぱい。赤石荘の枠で前から5列目の中央という一番良い席を用意してくださっていました。ありがたや〜。そして赤石荘の歌舞伎弁当も到着。





毎年来ていたのになかなか歌舞伎を観ることはできませんでしたから、私もワクワクドキドキ・・・。一成の出番はなんと2幕目の最後のほうだそう。学芸会で主役をやる子供を持つお母さんのような気持ちですw。

1幕目の化粧を終えた(お手伝い)ゆみこさん(彼女も道柴役を演じる役者さんで大鹿村騒動記の中でも出演していました)がまっ白い手で「ああ、さちさ〜ん、一成くんめちゃくちゃ緊張してるよ〜。化粧もまだなのに、うつむいちゃって黙っちゃってるのよ〜。」と報告が入ります。

正午になると、もう立ち見状態。お天気に恵まれて最高です。私たちも燦々とふりそそぐ太陽の元、羽織っていた上着を全て脱いで、いざ、観劇の始まり始まり〜〜〜。






一成くんの晴れ姿、まだか、まだか〜。と1幕目が終わって足のしびれをとるために立ち上がって散歩。最初からマイクが途切れ途切れになってしまったり、マイクのスイッチを入れ忘れた役者さんがいたり、セリフはほとんど何を言っているのか理解できない(下手だということでなく、言葉が難しいのです)のでわかる単語を拾い集めて想像しながら、パンフレットと格闘しながら・・・。もちろんおひねりも用意しています。

途中で場面転換の舞台裏でドタドタ、と音が聞こえたり、登場したお殿様の烏帽子が天井のかまちにあたっていきなりポンッと飛んでいったり・・・お話は残酷で悲しい物語なのに、突っ込みどころ満載でお腹がよじれそう・・・くくく。

これが原田芳雄の愛した「大鹿歌舞伎」なんだな〜w!

なんて笑って見ていたら、ついについに・・・。登場した時の観客の歓声はこの歌舞伎一番の盛り上がりを見せました。「いっせい〜〜〜!」「待ってました〜。」「いよっ、にっぽんいち〜〜〜。」と最初に練習したとおりに。



それにしても一番格好いい役でした。加藤清正(虎退治で有名な)が出てきて明智光秀を成敗しようとする立ち回り。セリフ。いままでがんばってきた一成くんの努力が報われた瞬間です。なんか、もう泣きそう。美味しい役をもらえてよかったね。しかもあんなに堂々とセリフもほとんどノーマイクで。ジャンプまで決まってました。やるな〜。

「いよっ、社長〜」と掛け声をかけたら、前に座っていたおばさまたち、後ろを振り向いて「ふふふ。社長ですって。きっと社員さんが来てるのね。」

登場したところだけの映像ですが、後半は掛け声とおひねり投げるので忙しかったので撮れてませんが、ぜひ一世一代の一成くんの晴れ姿、ご覧くだされ〜〜〜。チョンチョン。


一成一代騒動記 「絵本太功記十段目 尼崎の段」



もちろん、打ち上げはゆみこさんのディアイーターで。





一成くん、おめでとう!一成くんはやっぱり役者に向いているということがよ〜〜〜くわかりました。これからも体調に気をつけてがんばってくださいね。

願えば叶う。

俺たちは遊ばせてもらってお金もらって・・・本当にお客様には感謝しなくちゃいけないんですよ。 by 原田芳雄




「ブエナビスタ・ソシアル・クラブ★アディオス」とキューバの思い出

2018年09月14日 | 映画、本、芝居関係
18年前、世界中で話題になった「ブエナビスタ・ソシアル・クラブ」という映画。日本でも話題になり、音楽ファンだけでなく映画を観た人たちはキューバ音楽の虜になった人も多かったと思う。

私もその中の一人だが、それまではあまりキューバの国の歴史も音楽のことも知らず映画を観た当初もすごいおじいさん、おばあさんたちが元気に音楽をやっていて素敵だな!とシンプルに感動したものだ(苦笑)。



その後、アルゼンチン、ブラジルと南米を演奏旅行するようになるのだが、初めて2016年の11月にキューバを訪問。滞在の最中にフィデル・カストロがなくなるという大きなニュースが流れたのが11月25日。

私たちはその日、セサル・ロペス(キューバ最高峰のサックス奏者)のグループの前座で演奏させていただくことになり、Jazz Cafeというクラブで演奏していた。演奏を終えてステージから降りるとニコニコと拍手で迎えてくれた一人のキューバ人がいた。「イエ〜イ!日本から来たの?」と気さくに話しかけてくれる彼はなんと、里帰りしていたオラシオ・フェルナンデスdrだった。「たまにキューバに帰ってドラムの練習するんだよ。」



オラシオとそんな話をしながら、一緒にセサルたちのノリノリの演奏を聴いていたのだが、彼らの演奏直後にバーが騒がしくなった。なんだなんだ?と観たらカストロの亡くなったというニュースがテレビで流れ出していたのだった・・・・。

翌日から予定されていた全ての演奏はキャンセル。9日間の歌舞音曲は中止となった。町中は悲しみにあふれ、テレビは一日中カストロのことを報道。セサルのバンドのギターリストは「やった〜、9日間も休暇がとれた!」なんて喜んでいたけれど(苦笑)。その日から街から音楽が消えお酒も飲めなくなった(形の上で)。


カストロ訃報のニュースが流れた翌朝。ハバナ大学の前に追悼で集まってくる学生たち。カストロを讃える国旗が掲げられ、悲しい音楽が流されていた。最終的にはこの階段が埋め尽くされるのだが観光客は近寄れなくなっていた。

その二日後から私たちはカストロの生誕の地、さらにキューバ革命が始まった場所「サンティアゴ・デ・クーバ」に移った。『ソン』という音楽の発祥地でもある。


ハバナよりも空気も綺麗で美しくて大好きになった街「サンティアゴ・デ・クーバ」


前置きが長くなってしまったけれど、この映画「ブエナビスタ〜アディオス」の始まりが「カストロの訃報のニュース」だったのだ。なんだか同じ場所に同じところにいた風景だと思うといきなり映画館で鳥肌がたってしまった。



そして、彼らの故郷でもあるソン発祥のサンティアゴ・デ・クーバもたくさん出てくる。18年前から時々、彼らのそれ以降の話や当時の話などがみごとに織り込まれ・・・・。もう、これは1作目を凌ぐ素晴らしい音楽映画であり、キューバ音楽の歴史でもあった。

オマーラは今でも現役で歌い続けている。私たちもキューバ国際ジャズフェスでチューチョ・バルデスのゲストで歌う姿を観れた。かすれた声で観客のアンコールに答える彼女が、「何が聴きたいの?」と観客に聴くと、みんなが「Veinte Anos!!!(20年)」と叫ぶ。それに答えて彼女が歌いだした。途中でマイクを座席の方に向けて観客に歌わせたり、ベサメ・ムーチョになったり・・・と感動的なステージだった。

映画の最後の方で「私たちの生い立ちの何を知っているの?キューバの国の何がわかるの?」という言葉が胸に突き刺さる。

うわべだけで音楽を捉えて、その国のことを何も知らずに演奏を聴いたり、まして演奏することにものすごく抵抗を感じることが最近よくある。

音楽学校で教えてくれないもの。その土地に行かなくてはわからないこと、経験がたくさんある。この映画からもたくさんのことを教えてもらった気がする。本当に素晴らしい映画でした!

まだ公開中なので、ぜひ興味あるかたはご覧ください。


映画の最後のほうに出てくる、ブエナビスタ・ソシアル・クラブの若手ピアニスト「ロランド・ハナ」と。

【公式】『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ★アディオス』7.20公開/本予告

SF映画の音(SE)について。

2017年11月01日 | 映画、本、芝居関係
今日は1日ということで、映画の日。

まずは渋谷アップリンクで阪本順治監督の「エルネスト〜もうひとりのゲバラ」を鑑賞。

ゲバラ役の俳優は少し小太りであったこと、オダギリジョーの子供の頃の役が完全に日本人の顔からかけ離れた南米人だったこと、を除けばとても面白い映画だった。

なにしろ、オダギリジョーが日系ボリビア人という設定で、出演中に一度も日本語はでてこない。スペイン語をネイティブのように喋っているのには驚き。素晴らしい俳優さんだな〜。

彼が扮するエルネスト・メディコ(という名前をゲバラが命名する)が私の生まれた頃(1960年代)に実在していたことすら知らなかったけれど、ハバナの飛行場やら毎日通ったハバナ大学や大学の裏手にある病院に世話になり、フィデルの葬儀にも出席した私としてはなんとも懐かしいハバナの風景(きっとそのままロケで浸かっているのでしょうw)も満喫できた楽しい一時でありました。


昨年のフィデル(カストロ)の亡くなった翌日のハバナ大学の朝の風景。このあと、ここで大集会が始まる。


人気のゲバラの3ペソ札




きっと50年前も同じような風景だったと・・・。

「エルネスト」阪本順治監督


そして、次に池袋に戻って「ブレードランナー2049」を鑑賞。

大大だ〜〜〜い好きなブレードランナーの続編ということで、あまり期待せずに(得てしてがっかりすることが多いので)行ったのですが、3時間という長さをまったく感じさせない面白い映画に仕上がっていました。

普段それほどSFとかアクションものを見ないけれど、これは別。やはり映画館で見るべき映画だな。

前回の作品と比べることはできないけれど、これはこれでとても良い映画だと満足。ルトガーハウアーのような不思議で魅力的なレプリカントはいなかったけれど、いろいろと楽しめるストーリー。特撮技術もすごいことになっているんだな〜。と改めて関心。

でも、でも SF映画を見るたびに思うのですが、なんでこんなに音が大きいの?というか、うるさすぎる。アクションシーンの音までそんなに大きい音で驚かさないで!と声を大にして言いたい。

映画関係者のみなさま、どうなっているんでしょうか?毎回、この手の映画を見るたびに、耳栓を持ってくるんだった〜と後悔しながら耳をふさぎつつ鑑賞するのであります。誰もなんにも文句を言わないって、私だけがおかしいのでしょうか????

それ以外は十分楽しめる映画でした。いや〜、映画っていいですねw。





子供達をよろしく(Streetwise)

2016年03月02日 | 映画、本、芝居関係


昨日のブログにたくさんの方が反応してくださって、その中で偶然見つけた「子供達をよろしく(邦題)」!!

20年以上前だったか、映画好きのトシキがレンタルビデオ屋でなんとなく借りてきたこの映画、音楽がトム・ウエイツだったのにも感動し、最後に流れてきた歌に涙しながら思わずビデオを巻き戻して採譜し、自分のバンドでも演奏するようになったものです。

以降、この映画の話をしてもあまり知る人がいなくて、もう一度映画を借りに行ってももうビデオ屋にもなくて・・・・。

youtubeで探したのに見つからなかったのは邦題のせいでしたw。本当は「Streetwise」だったのですね。

今年はこの題材となった街、シアトルのジャズフェスティバルにもご縁があってTReSが出演できることになって、もう一度どうしても見たい映画でした。運命的としか思えません。芳雄さん、本当にありがとうございました。

永久保存版にお勧めします!ぜひ一度ご覧ください。素晴らしいドキュメント映画です。


Mariya Suzuki ドローイング展@用賀Salad Bowl

2015年05月19日 | 映画、本、芝居関係
旅の疲れもそこそこに、今日は昼から車の洗車をし、そのまま「鈴木まりやドローイング展」へと向かった。








まりやちゃんは7年間、カリフォルニアで留学し、帰国した年に大阪ワイルド・バンチで出会いました。黒髪にキラキラした瞳のとってもキュートな女の子。なんと、いつもワイルドバンチの調律をして下さっていた鈴木さんのお嬢様でした。そして、私たちのチラシを描いてくれていたのです。

翌年も奈良、大阪のライブのチラシを手がけてくれたり、ライブに来てくれたりと意気投合。そして、昨年東京に進出することに。

そんな彼女の初の個展が用賀の環八通り沿いのギャラリーでやっているので駆けつけました。







彼女の独特な繊細なタッチの絵が壁一面に飾られて。さらに、コーヒーカップに書き込まれたアート。どんなところでもサラサラっとスケッチしちゃうまりやちゃんならではのユニークな発想の絵です。まりやワールド全開!

特に町並みの風景画が大好き!いつかブエノスアイレスの石畳の絵も描いて欲しいなあ・・・と夢が膨らむ。これを基にどんどんはばたいて欲しい若き才能あるアーティストの誕生です!応援します!!

個展はあさってまでですので、時間があればぜひ立ち寄ってあげてください。彼女が淹れたコーヒーもご馳走になれますよ〜w。入場無料。お願いすれば、似顔絵も描いてくれるそうです。




トニー・ガトリフ「ガスパール~君と過ごした季節」

2014年10月28日 | 映画、本、芝居関係
今日からベベンコビッチ週間。新曲ばかりを披露するので、家族3人で手分けをしてアレンジした。五島から関西ツアーを経て、東京入りしたベベンコ。我が家は今日から合宿所と化すのであります。家について早々にリハーサル。ご飯をはさんでまたリハーサル。気がつけば6時間もやってましたw。Buddyへの予約はもうおすみですか~?!



そして、明日はいよいよアルゼンチン大使館で面接の日。着々と準備もすすみ、さらに12/7(日)8時からブエノスアイレスの[BEBOP]というジャズクラブでのギグもとれたよ~、との報告。嬉しいです~。BebopをやらないTReSがそんな名前の店に出演していいのか~~(苦笑)。お近くの方はぜひいらしてください。music chargeは80ペソです。

さて、先週の金曜にトニー・ガトリフ監督の「ガスパール~君と過ごした季節」というDVDが発売になりました。本当のタイトルは「ガスパール&ロビンソン」ですが、ジプシー映画を撮り続けている素晴らしい監督です。この映画は初めて観たのですが、音楽がミシェル・ルグラン。めずらしく巨匠に音楽を一任しています。切なくも温かな、男の友情を描いた佳作。お恥ずかしいのですが、少しだけ中にコメントを載せております。よろしければご覧下さいませ。



芳雄さんの愛した村へ・・・

2014年10月24日 | 映画、本、芝居関係
原田芳雄さんの最後の作品となった映画、「大鹿村騒動記」。芳雄さんが、この村の「大鹿歌舞伎」に出会ったことで、惚れ込み、この村で何か映画を作れないか、と阪本順治監督に相談した。

おそらく、もうご自分が長くないことも覚悟の上だったと思う。NHKのお正月ドラマで吉田茂役で出演していた中で、大腸がんが見つかり、そのまま延期となり大手術。みごとに回復し、「原田芳雄復活ライブ」を目黒のブルースアレイで行った。ちょうどその1ヶ月前くらいに忌野キヨシローさんの訃報。このライブで芳雄さんは急遽「スローバラード」を熱唱したのだった。私たちが芳雄さんと演奏したライブも、これで最後となってしまった・・・。

未だに芳雄さんへの思いが強く、立ち直れていない友人たちを何人も知っている。私も其の中の一人だけれど、酷い人になると、芳雄さんの映像を観るのもつらい、と言い、未だに「大鹿村騒動記」を観れていない芳雄ファンも多くいるようだ。

私もつらさをこらえて、やはり映画館に一人で観に行った。大きめのハンカチを持って。

しかし、終ったあとに残ったものは、芳雄さんの笑顔。素晴らしい、本当に素晴らしい映画だった。最後までこんなに笑わせてくれるなんて、なんて素晴らしい役者なんだろう。この映画の脚本から監督を務めた阪本監督にも脱帽です。今回、大鹿村とのご縁ができ、行く事になって、改めて映画を見直してみたが、やはり、この映画は何度観ても素晴らしい。

さらに、メイキングがついていて、これがまた楽しいのだ。芳雄さんがどれだけ大鹿村を愛したか。大鹿村の人達との交流や、役者さん同士(本当に仲の良い友人たちだが)の交流、すべてがそのまま映し出されている。

「人間臭さが大鹿歌舞伎にはある。そのありのままが俺たちにも表現できればいいんだけれど。大鹿歌舞伎は役者の原点なんだよね。」

十分に伝わってきますよ、芳雄さん。最後にこんな素敵な映画を残して下さって本当にありがとうございます。

明日は、この「日本一美しい村」大鹿村で芳雄さんを愛してやまない同志たちが集って「原田芳雄プロジェクト2014」というイベントをやります。

芳雄さんのライブ(秘蔵)もちょっとだけ公開いたします。無料コンサートですので、どうぞお近くの方はお気軽に遊びにいらしてください。

演奏は 10月25日(土)大鹿村交流センター大ホール  17:00 ~ 18:00 / 18:30 ~ 19:10

芳雄さんにまつわるお話などもさせていただきます。