<Free Fightと白石かずこ>
私たちにとって、初めてのヨーロッパツアー。
ブッパタールに滞在し、ペーター・コヴァルトbassの家に遊びに行ったある日、ちょこんと座る東洋の魔女という感じで白石かずこ女史と初対面。
ペーターの紹介でご挨拶をし、しばらく滞在している間に、ブッパタールの大学で行った私たち(ハンスgとつの犬dr)の演奏を聴きに来てくださった。
日本に戻ると、最初のアルバム「Free Fight」を作成した私は、ライナーノーツを無謀にも白石さんにお願いしてみることに。。。
すると、白石さんは快く引き受けてくださったのだ。
以下は白石かずこさんによる、ファーストレコードのライナーノーツ。
こんな美しい文書を書いていただき、本当に感謝しかありません。
かずこさんのご冥福を心からお祈りいたします。
「早坂紗知の演奏をはじめてきいたのは、西ドイツのブッパタルという街である。
そこの日本人祭に現れた細い竹のような少女が超ミニのスカートで、いきなり、金属からでてくる音を驚くほど闘争的に、しかも知的ブリリアントな抒情をこめてふきだした。
そのとき、彼女の、しなやかな竹のような体も実は、この金属の西洋の楽器につぎ木されている、もう一つのインステュルメントなのだと思った。
この一体感は、ここちよい船のようにゆれ、会場には、いつのまにか鮮やかな大揺れの波がたち、その波にもぐって消えてはならないとばかり、
しっちゃきにドラムがたたかれるのがきこえ、ベースが彼女の恋人のようによりそった。
ハンス・ライヒェルのギターというか、ハンスの創造的インステュルメントがアンデルセンにでてくる靴職人のように、あるいは魔法の眼鏡をつくる時計職人のように、センサイ且つ乾いたゴキゴキのサウンドを秋波のように送った。が、これらの祝福に彼女はビクともしないばかりか、更に勢い込んでふきつづけた。
彼女の細い腕に意外な力があり、その肺活量の海で、いくつもの太平洋が往き来するのをみた。
彼女の音のノドの岬に、白い波が壁になって、ブワーっと押し寄せる快感がみえた。
実に気持ちよく、透明に、パワフルに且つ、ギンギンに彼女はふいていたのだ。
わたしは満足して、少女にみえる、このサウンドの女闘士、あるいはサウンド族の猛獣使い、座長に敬意の拍手をおくった。
こうして早坂紗知と知り合った。気がついたら、わたしは藤川芳明、翠川敬基たち、そろって二十才の頃を知っていて、
ナウ・アンサンブルをつくっていた彼らがすでに三十?才。
そのあとの世代に大きくブランクあり、そこに現れた次の世代を荷う才能とサウンズの波が早坂紗知で、しかも彼女は日本でも稀な女のジャズ・ミュジシャン。
しかも女のリーダーで、サックスという一番ダイナミックな肺を必要とする男性的楽器を使っている。
彼女は急激に、シンシアに、おとなしい次なる世代の男たち、ミュジシャンに活をいれ、今ここに発表するのだ、初のアルバムを。
そして、わたしはなるほどを沢山もった。
なにゆえの「FREE FIGHT」かを。
のりがいい。明るく、メロディカル、且つ乾いた抒情をもって、テンポのはやい「FREE FIGHT」また「The Thrilling Cornaer」に彼女の本領、知的、クリエイティブ・ロマンがでている。
セロニアス・モンクに捧げる「Yellow Monk」など、なかなかウィッティな作品だ。
彼女のクリヤーな才能が軽快に現れている。
才能とは本来、軽快なものである。
且つ、明度、透明感があり、クリヤーにかたちずけることができるかどーか、でみえる。
そういうものを軽く、こなし、充分もった上で、彼女は渾沌、カオスのダイナミズムを求めている。
フリーの勢いありあまって暴走しかねないワイルド・アンド・センシティブなメンバーの編成もなかなか、うまくいっている。
ベテランの本格派、大いなる才能の持ち主翠川敬基の登場もいいところに加わって、曲の奥行と不思議に加担している。
こうした「FREE FIGHT」のギンギンのしぶき、ファイティング・ジャズの中に、「La Pasionaria」スペイン民謡の名曲がはいるのも、このアルバムが、全部、同じラインでヒズメをならし、サウンズの雄たけびあげてる風でなく、ひとつ窓をあけ、ちがうサウンズの風景を運ぶことで、このアルバムに一種ノスタルジックな古典とつながる静謐な陰影を支えている。
この演奏は実に、うまく、美しくいっている、質の高い、深いロマンただよい。
A面の最後の「Monster's Teardrops」は奇妙な曲である。
作曲の永田利樹にこんな奇妙な才能があったのかと、あらためて思った。
非常に日本の僧侶的サウンズと雨かモンスターか知らないがTeardrops,その連続的水滴の打音がフシギを誘ってきいている。
そのあとのメロディ部分がロマンティックでいい。
早坂紗知のブリリアントな、カラフルなサウンズ、吉田哲治のトランペットのなく音、管楽器への愛、エモーションが生きていて、コラージュっぽいキライがなくもないが文句なく美しく魅力的だ。
B面の「Free Fight」は、このレコードの表題にもなっているだけに今更いうこともなく、文字通り、早坂紗知ナウの姿であり、意志なのだから。
チャーリー・ヘイデンの「Ellen David」、ピアノとのデュオで、この抒情を、創造できるかぎりのリリカルな幸福な美しさで、演奏しているのは、きいている方も幸福な瞑想にはいることができる。
早坂紗知の中に、潜むこのような内奥の、品位あるリリシズム、その透明な繊細な寡黙さが意外と彼女のしられざる顔なのかも知れない。
久保嶋直樹のピアノは、くせのない質のいい、素直な繊細さで、サイドからどの場面でも効果をあげている。
通しでA面B面ときいていくと、彼女の「Free Fight」は闘争的でアグレッシブであるよりロマンティックだ。
そこのところが、わたしが早坂紗知とこのアルバムを気に入り、その未来への可能性に大いに希望と期待をよせるところだ。
アグレッシブで暴力的サウンズのもつ無神経さを音楽と混同するおろかな足ぶみを、ここではしていない。
あくまでも明瞭な知性と、のびやかな才能によって彼女が指揮し、えらんだこれらの曲は、それぞれに異なる魅力の質を、エコーさせ、反射させ、きき終ったときに、ひとつの充実の円、球体の宇宙をつくっていることに気づく。
わたし個人としては、彼女自身が好きな作家だという先日、亡くなったアメリカの黒人作家ジェームズ・ボールドウィンの小説「もう一つの国」からとった題「Another Country」の作品にひっかかる。
この曲を最後にしたのはよい。この曲はきいたものを、ちょっと恋愛させてしまう、あるパッショネイトな複合した、美しいが、にがさもまじる余韻があり、味わいのある曲だ。
日本のフリーの、最も創造的前衛的なジャズ界に、女の金属の闘士として、早坂紗知のようなミュジシャンが現れ、前途ようようの船出の第一歩に、このような、輝かしいサウンズのオーケストラを連れての出発は、なんとも嬉しく、たのもしい予感にみちることか。
みちみちる、みちみちてほしい。
その未知の可能性と、このアルバムの快挙に乾杯を!
白石かずこ
私たちにとって、初めてのヨーロッパツアー。
ブッパタールに滞在し、ペーター・コヴァルトbassの家に遊びに行ったある日、ちょこんと座る東洋の魔女という感じで白石かずこ女史と初対面。
ペーターの紹介でご挨拶をし、しばらく滞在している間に、ブッパタールの大学で行った私たち(ハンスgとつの犬dr)の演奏を聴きに来てくださった。
日本に戻ると、最初のアルバム「Free Fight」を作成した私は、ライナーノーツを無謀にも白石さんにお願いしてみることに。。。
すると、白石さんは快く引き受けてくださったのだ。
以下は白石かずこさんによる、ファーストレコードのライナーノーツ。
こんな美しい文書を書いていただき、本当に感謝しかありません。
かずこさんのご冥福を心からお祈りいたします。
「早坂紗知の演奏をはじめてきいたのは、西ドイツのブッパタルという街である。
そこの日本人祭に現れた細い竹のような少女が超ミニのスカートで、いきなり、金属からでてくる音を驚くほど闘争的に、しかも知的ブリリアントな抒情をこめてふきだした。
そのとき、彼女の、しなやかな竹のような体も実は、この金属の西洋の楽器につぎ木されている、もう一つのインステュルメントなのだと思った。
この一体感は、ここちよい船のようにゆれ、会場には、いつのまにか鮮やかな大揺れの波がたち、その波にもぐって消えてはならないとばかり、
しっちゃきにドラムがたたかれるのがきこえ、ベースが彼女の恋人のようによりそった。
ハンス・ライヒェルのギターというか、ハンスの創造的インステュルメントがアンデルセンにでてくる靴職人のように、あるいは魔法の眼鏡をつくる時計職人のように、センサイ且つ乾いたゴキゴキのサウンドを秋波のように送った。が、これらの祝福に彼女はビクともしないばかりか、更に勢い込んでふきつづけた。
彼女の細い腕に意外な力があり、その肺活量の海で、いくつもの太平洋が往き来するのをみた。
彼女の音のノドの岬に、白い波が壁になって、ブワーっと押し寄せる快感がみえた。
実に気持ちよく、透明に、パワフルに且つ、ギンギンに彼女はふいていたのだ。
わたしは満足して、少女にみえる、このサウンドの女闘士、あるいはサウンド族の猛獣使い、座長に敬意の拍手をおくった。
こうして早坂紗知と知り合った。気がついたら、わたしは藤川芳明、翠川敬基たち、そろって二十才の頃を知っていて、
ナウ・アンサンブルをつくっていた彼らがすでに三十?才。
そのあとの世代に大きくブランクあり、そこに現れた次の世代を荷う才能とサウンズの波が早坂紗知で、しかも彼女は日本でも稀な女のジャズ・ミュジシャン。
しかも女のリーダーで、サックスという一番ダイナミックな肺を必要とする男性的楽器を使っている。
彼女は急激に、シンシアに、おとなしい次なる世代の男たち、ミュジシャンに活をいれ、今ここに発表するのだ、初のアルバムを。
そして、わたしはなるほどを沢山もった。
なにゆえの「FREE FIGHT」かを。
のりがいい。明るく、メロディカル、且つ乾いた抒情をもって、テンポのはやい「FREE FIGHT」また「The Thrilling Cornaer」に彼女の本領、知的、クリエイティブ・ロマンがでている。
セロニアス・モンクに捧げる「Yellow Monk」など、なかなかウィッティな作品だ。
彼女のクリヤーな才能が軽快に現れている。
才能とは本来、軽快なものである。
且つ、明度、透明感があり、クリヤーにかたちずけることができるかどーか、でみえる。
そういうものを軽く、こなし、充分もった上で、彼女は渾沌、カオスのダイナミズムを求めている。
フリーの勢いありあまって暴走しかねないワイルド・アンド・センシティブなメンバーの編成もなかなか、うまくいっている。
ベテランの本格派、大いなる才能の持ち主翠川敬基の登場もいいところに加わって、曲の奥行と不思議に加担している。
こうした「FREE FIGHT」のギンギンのしぶき、ファイティング・ジャズの中に、「La Pasionaria」スペイン民謡の名曲がはいるのも、このアルバムが、全部、同じラインでヒズメをならし、サウンズの雄たけびあげてる風でなく、ひとつ窓をあけ、ちがうサウンズの風景を運ぶことで、このアルバムに一種ノスタルジックな古典とつながる静謐な陰影を支えている。
この演奏は実に、うまく、美しくいっている、質の高い、深いロマンただよい。
A面の最後の「Monster's Teardrops」は奇妙な曲である。
作曲の永田利樹にこんな奇妙な才能があったのかと、あらためて思った。
非常に日本の僧侶的サウンズと雨かモンスターか知らないがTeardrops,その連続的水滴の打音がフシギを誘ってきいている。
そのあとのメロディ部分がロマンティックでいい。
早坂紗知のブリリアントな、カラフルなサウンズ、吉田哲治のトランペットのなく音、管楽器への愛、エモーションが生きていて、コラージュっぽいキライがなくもないが文句なく美しく魅力的だ。
B面の「Free Fight」は、このレコードの表題にもなっているだけに今更いうこともなく、文字通り、早坂紗知ナウの姿であり、意志なのだから。
チャーリー・ヘイデンの「Ellen David」、ピアノとのデュオで、この抒情を、創造できるかぎりのリリカルな幸福な美しさで、演奏しているのは、きいている方も幸福な瞑想にはいることができる。
早坂紗知の中に、潜むこのような内奥の、品位あるリリシズム、その透明な繊細な寡黙さが意外と彼女のしられざる顔なのかも知れない。
久保嶋直樹のピアノは、くせのない質のいい、素直な繊細さで、サイドからどの場面でも効果をあげている。
通しでA面B面ときいていくと、彼女の「Free Fight」は闘争的でアグレッシブであるよりロマンティックだ。
そこのところが、わたしが早坂紗知とこのアルバムを気に入り、その未来への可能性に大いに希望と期待をよせるところだ。
アグレッシブで暴力的サウンズのもつ無神経さを音楽と混同するおろかな足ぶみを、ここではしていない。
あくまでも明瞭な知性と、のびやかな才能によって彼女が指揮し、えらんだこれらの曲は、それぞれに異なる魅力の質を、エコーさせ、反射させ、きき終ったときに、ひとつの充実の円、球体の宇宙をつくっていることに気づく。
わたし個人としては、彼女自身が好きな作家だという先日、亡くなったアメリカの黒人作家ジェームズ・ボールドウィンの小説「もう一つの国」からとった題「Another Country」の作品にひっかかる。
この曲を最後にしたのはよい。この曲はきいたものを、ちょっと恋愛させてしまう、あるパッショネイトな複合した、美しいが、にがさもまじる余韻があり、味わいのある曲だ。
日本のフリーの、最も創造的前衛的なジャズ界に、女の金属の闘士として、早坂紗知のようなミュジシャンが現れ、前途ようようの船出の第一歩に、このような、輝かしいサウンズのオーケストラを連れての出発は、なんとも嬉しく、たのもしい予感にみちることか。
みちみちる、みちみちてほしい。
その未知の可能性と、このアルバムの快挙に乾杯を!
白石かずこ