Olive☆。.:*:・'゜

つれづれなるままに・・・雑感を

オーストリア紀行:モントーゼ

2013-02-17 20:28:05 | 旅日記


ザルツカマングートのモント湖に近い、小さな町モントーゼ。
ここの教区教会は、映画「サウンド オブ ミュージック」でトラップ大佐とマリアの
結婚式のシーンでロケに使われた教会です。
建物の外側だけで、教会の中のシーンは別で撮影されたようです。

ザルツブルクへ向かう車窓から
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オーストリア紀行:ザンクト・ヴォルフガング

2013-02-17 20:24:18 | 旅日記
翌朝、一泊したイム・ヴァイセン・レッスルからシャーフベルク登山鉄道の乗り場まで
ヴォルフガング湖を眺めながら、てくてく歩きました。


映画「サウンド・オブ・ミュージック」にも出てきた蒸気のシャーフベルク登山鉄道。
標高1,783mのシャーフベルク山頂からはヴォルフガング湖をはじめ、モント湖、アッター湖
などの湖やダッハシュタインの氷河を見渡す360°の大パノラマらしいんですが
10月中旬には運行が終わってしまう、シーズン終了間近だと天候も悪くなるのも仕方ないです。
10㎝積もった雪
山頂の気温は-3℃
銀世界が広がっていました

美しいヴォルフガング湖の眺め
ホテル近くの船着き場から
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オーストリア紀行:白馬亭

2013-02-17 20:22:25 | 旅日記
ザルツブルクの南東一帯、ザルツカンマーグートは美しい景色が続く湖水地帯です。
古くから岩塩を産出する地方で、「白い黄金」と呼ばれ、高値で取引されてきました。
ハプスブルク家直轄の御料地としてに莫大な富をもたらしました。ザルツカンマーグートで
美しさで人気のヴォルフガング湖の湖畔の町、ザンクト・ヴォルフガング。
町の中心にあるイム・ヴァイセン・レッスル(白馬亭)に
泊まりました。ベナツキー作オペレッタ「白馬亭にて」の舞台
となったホテルだそうです。当初予定されていたホテルが
一杯だったのか、変更になりました。
私も母もオペレッタを見たこともなければ、ストーリーも知らな
いしで、他のツアーの人たちのようにキャーキャー騒いで
盛り上がることができませんでしたが、落ち着いたホテルで
朝食も充実していて良かったです。






ベランダからの眺め
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オーストリア紀行:ハルシュタット

2013-02-17 20:14:49 | 旅日記

町の外れには、古代ローマ以前にまで遡る岩塩坑があって、この塩坑からは古代の墓地遺跡
が発見され、ハルシュタット文化の由来となりました。Hallはケルト語で「塩」、Stattはドイツ語で
「場所」を意味するそうです。紀元前1000~500年頃、ハルシュタットの裏山に眠っていた豊富な
岩塩を求めて移住してきたケルト民族によって、高度なハルシュタット文化が発達しました。
左側の山の方にケーブルカーがあって、現在も操業中という塩抗を見学することができます。


ハルシュタット湖の湖畔に家々が並び立つ景観は、旅行パンフレットなどで
目にすることが多く、オーストリアの代表的な風景とも言えます。
お天気に恵まれず、残念ながら素晴らしい景色を写真に収めることができませんでした。
でも幻想的で、これはこれで素敵かも知れません。
この一帯は、「ザルツカンマーグート地方のハルシュタットとダッハシュタインの文化的景観」
として、1997年にユネスコ世界遺産に登録されています。






オーストリアはほとんどの人が
カトリック教徒なんだそうですが、
ハルシュタットはプロテスタント
が半分近く占めているそうです。
湖に近い教会はプロテスタント、
山側がカトリックの教会だそうです。


ハルシュタットやハラインと並ぶ塩の産地、
アルトアウスゼー岩塩鉱は第2次世界大戦中、ヒットラーが
接収したフェルメール「絵画芸術」など1万点にも及ぶ名画が
隠されていたそうですね。低湿度で一定の気温を保つため、
美術品の保管に適しているのだとか。ナチスがこれらの名画
を連合軍に渡すぐらいなら爆破する計画だったようですが、
鉱夫たちによって救い出されたそうです。
そのお蔭で、ウィーンにある美術史美術館で鑑賞することが
できました。アルトアウスゼーの岩塩鉱山(HP)は見学できる
ようです。バート・アウゼーからバスで25分、ただしバスは
平日1日2本の運行と自分で行くのはかなり難しそうです。
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オーストリア紀行:グラーツ

2013-02-17 20:08:28 | 旅日記
ムール川沿いに位置する大学都市、グラーツ。
古代ローマ帝国の時代に設けられた砦がグラーツの起源で、町の語源は
スラブ語で「砦」を意味する「グラデツ」からきているそうです。
14世紀ハプスブルク家の都だったところで、ハプスブルク家の支配の下、
音楽や大学創立(1585年)など、文化の華が開きました。
イタリア・ルネッサンス風の建物に南欧の明るさを感じる旧市街は1999年
世界遺産に登録されています。

シュロスベルク(城山)と時計塔

丘の上に建つ小さな城はオスマン・トルコの侵略からも町を守り、難攻不落の城塞でしたが、
フランス・ナポレオン軍との戦争後に取り払われました。時計台は地元の人たちがナポレオン
から買ったので現存しているそうです。現在は時計台と鐘楼だけが残る公園となっています。
シュロスベルクへは急勾配の260段の階段を上るか、岩山の中のガラス張りのシュロスベルク
リフト(エレベーター)、もしくは少し離れたところにあるケーブルカーを利用して上がります。



13世紀に建てられた時計台は文字盤が直径5m以上もあり、長針は時間を、短針が
分を指しています。時計台が出来た当時は長針だけあれば用が足りていたのだが、
後に分を示す針が付け足されたためです。5年に一度塗り替えられていて、出来るだけ
冬に修繕していると現地ガイドさんの説明がありました。
時計台の横には時計台のミニチュアもありました。実際に触ってみて、どんな形状のものなの
か分かるようになっていて、眼の不自由な方向けによく考えられてあるなあと思いました。


グラーツの町全体を見渡すことができます。オレンジ色の屋根が並ぶ中に、なまこのような
宇宙船のような奇妙な形をした建物が見えます。クンストハウスと呼ばれる近代美術館です。
そして写真右下辺りにムーア川沿いの巻貝のような浮島(ガラス張りっぽい感じ)はイベント
会場のようでうす。レクリエーション、エンターテイメントなどに使われているみたいですが
人の目を引くオブジェのようでもあります。

フリードリヒ3世が1438年に築いた
王宮。15世紀、ハプスブルク家出身
の神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世の
時にグラーツは大きく発展しました。
ハプスブルク家のお家芸と言われる
結婚政策は、この皇帝フリードリッヒ
3世によって始まったそうです。 
王宮の壁やフリードリヒ3世の肖像画
などに刻まれている「AEIOU」は
フリードリヒ3世が常に口にしていた
標語で何を表しているのか残ってい
ないため、解釈が色々あるようです。
皇帝フリードリッヒ3世の息子、マキシミリアン1世が王宮を拡張し、1499年に王宮のひと隅に
ゴシック様式の二重螺旋階段を造らせました。極めてユニークで、左右に分かれた螺旋階段
が、半周回るごとに再び交わって、また分かれる設計になっています。
写真中央の緑に覆われた部分が二重螺旋階段がある塔です。王宮の主な部分は19世紀に
撤去され、現在は州知事官邸となっています。

第2次世界大戦中、工業地帯や中央駅を中心に爆撃を受け、町の建物が破壊されたようです。
旧市街は爆撃の被害から免れたようですが、誤爆や流れ弾による被害もあったと思います。
オペラ座のある辺りも激しく爆撃を受けたようです。
入口 階段を上ると

下から見上げた二重螺旋階段

  
写真左はグラーツ出身の皇帝フェルディナント2世の霊廟であるマウソレウム、
写真右は王宮の向かいにある大聖堂の祭壇を写したものです。
大聖堂は12世紀に建てられた教会の跡に、1438年から1462年にかけて皇帝フリードリッヒ3世
が王宮礼拝堂として、同じ時期に建てられた王宮の向かいに建造させたものです。
建設当初は王宮と教会は通路で繋がっていたそうです。司教座聖堂となっている、この大聖堂
の壁には「国三重苦図」(1485年)があります。1480年シュタイヤマルク州(グラーツは州都)を
襲った、イナゴ、オスマントルコ、ペストを描かれています。この後期ゴシックのフレスコ画は
現存する最古のグラーツ街図だそうです。
 

鮮やかに装飾された建物が見えます。
旧市街の目抜き通りヘレンガッセは路面電車も走っています。
通りに面したところにハウプト広場があり、写真の右手には豪華は市庁舎、後ろ向きになって
しまいましたがハプスブルク家のヨハン大公像が立っています。ヨハン大公は産業や文化の
発展に貢献した人で、皇位継承権を放棄して平民の娘アンナ・プロッフルと結婚したそうです。
そういったことでも今でも民衆に慕われているそうでう。

ハウプト広場の露店(2012-10-15の記事
色鮮やかな果物や野菜が目に飛び込んできます。
旅先で野菜や果物などの食材を見るのも楽しみの
一つです。スーパーマーケットを覗くのも好きです。










ハウプト広場からシュポアガッセを上がっていって、
ホーフガッセへ右折すると宮廷御用達のパン屋さん
「Edegger-Tax」が見えてきます。
ホーフベッケライ・エーディッガー・タックスは創業1569年の
老舗のパン屋さんで、私たちが訪れる少し前に銀座か日本橋
のどっちだったか忘れてしまいましたが、三越の催し物で出店
したとその時の冊子をお店の方が見せてくれました。
クッキーを2種類買いました。(2012-10-28の記事




お店のHP
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オーストリア紀行:ルスト

2013-02-16 15:36:29 | 旅日記
ユネスコ自然遺産ノイジードラー湖
ハンガリーとオーストリアの国境にまたがり、ハンガリーではフェルテー湖と呼ばれている
この湖の水位は非常に低く、水深は深いところでも1.8mしかないそうです。
夏には湖上音楽祭や水泳大会などが行われたりしているようです。

湖へ行く途中、黄色く色付いた街路樹が澄み渡った空に
映えて、とてもきれいでした。
湖のほとんどは葦に囲まれており、渡り鳥にとっては
格好の住処みたいですね。
この後、ノイジードラー湖の湖畔にあるルストへ移動
しました。人口約1,700人の小さな町ですが、ワインで
有名で、アイスワインなども作っているようです。
ルストから南へ5㎞にはメルビッシュがあります。
ノイジードラー湖の南西部湖岸のメルビッシュと国境を
挟んで向かい側はハンガリーのショプロンなんですよね。
汎ヨーロッパ・ピクニックが行われた場所で鉄のカーテン
が崩れ、ベルリンの壁崩壊へと繋がっていく歴史的事件
といいますか。地図を見てもハンガリーから飛び出ていて、オーストリアに食い込むような形で、
ショプロン三方をオーストリアに囲まれているんですね。
1月にベルリンやプラハ、ブダペストへ行ったこともあってか、しみじみしてしまいました。

コウノトリの町ルスト
建物の屋根には煙突があり、コウノトリの巣がありました。
春から夏にかけての季節だと、コウノトリが見られるんでしょうね
ハロウィンの飾りつけ

ヴィーナー・ノイシュタットからユネスコ文化遺産であるセンメリンク鉄道でグラーツヘ


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オーストリア紀行:アイゼンシュタット

2013-02-16 15:20:35 | 旅日記
ウィーンの南東、ハンガリーとの国境にかけて広が
るブルゲンラント州の州都、アイゼンシュタット。
ハプスブルク帝国最大の大地主となり、時として
オーストリア皇帝の所得を凌駕するまでになった
ハンガリーの貴族、エスターハージー家のお城が
あります。1672年に建てられたバロック様式のもの
だそうです。こことは別にアイゼンシュタットから車
で30分、ノイジードラー湖の南端エステルハーザに
も宮殿があります。「交響曲の父」ハイドンの経済的
支援者だったニコラウス1世がフランスへ行った際
に見たベルサイユ宮殿に心奪われ、模して建てた
もので、敷地内にオペラ劇場や人形劇場、音楽堂
などを造り、マリア・テレジアが「オペラを楽しもうと
思ったら、エステルハーザへ行く」と言ったと
ガイドさんが教えてくれました。
オペラをやるためには舞台装置や衣装、出演者の
ギャラなど、随分とお金の掛かる贅沢な趣味で、
広大な土地を持つ貴族がそれだけお金を使って
くれた方がマリア・テレジアとしても好都合だった
ことでしょう。

ハイドンの支援者であったニコラウス1世は芸術品が好きで、
かなりの贅沢好きの人だったようで、音楽だけでなく、
金銀の食器類・磁器・装飾品を蒐集していたみたいです。
娘をモデルにしたマリア・レオポルディーネ像はイタリア
の有名な彫刻家アントニオ・カノーヴァの作で、服のひだ
や曲線が素晴らしく印象に残っています。
ニコラウス1世の死後、当主の後を継いだ息子アントンは、
逼迫した財政を立て直すために居城をアイゼンシュタットに
戻したんだそうです。
←これは借金の借用書。
  「踏み倒すことなく、きちんと払いましたよ」ってことで
 展示しているのかな? 

現在ノイジードラー湖を挟んでエステルハーザ、現在フェルテード村と呼ばれている東側は
ハンガリー、アイゼンシュタットのある西側はオーストリアになっていますが、元々は1つの国
で、この周辺は全てエステルハージ家の領地だったそうです。
ブルゲンラント州はヨーロッパでも有名なワインの産地で、エステルハージ家でもワイン醸造所
で質の高いワインを作っているそうです。

ウィーンのナーグラ小路にほど近いエステルハージー・ケラーのある建物は元は
エステルハージー家の持ち物でトルコ軍の17世紀の第2次包囲の際にはもっぱらここで会議が
開かれ、侯爵がただ酒をふるまった、といった話が旅行前に読んだ本に書かれていました。



ハイドンザールと呼ばれる大広間。
音響効果のため、床は大理石ではなく木を張り、窓も奥行きをつけているという説明でした。
天井にはエステルハージー家のテーマである「アモールとプシュケ」を中心に歴代のハンガリー
の王やハンガリーの地方を描いたフレスコ画が埋め尽くされていました。
パウル、ニコラウス1世、アントン、ニコラウス2世と4人のエステルハージ家の当主に仕えた
ハイドン。このうち長きに渡って良き主従関係を結んだのがニコラウス1世で、この期間に
ハイドンは副楽長から楽長に昇進しました。音楽に関して深い造詣を持ち理解があった
ニコラウス1世のもとで、ハイドンも思う存分作曲に打ち込むことができたようです。
ニコラウス1世の依頼で、ハイドンは多くの素晴らしい曲を作曲しました。

上の正面の写真から建物の右側に
回って、道形に坂を下っていくと
左手にハイドンの家があります。
楽長に昇進してお給料も上がった
1766年に購入した家は、現在
ハイドン博物館になっています。
お城に向かって撮った写真を見て
もらうと家との距離感が掴んで
もらえるかなあと思います。
オレンジ屋根の飛び出た建物が
宮殿になるので、近いですね。




ちょうどマラソン大会が行われていました。
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オーストリア紀行

2013-02-16 15:18:05 | 旅日記
昨年1月の中欧旅行も中途半端なままなんですけれど、取敢えず昨秋に参加した
オーストリア世界遺産を巡るツアーの方を先にまとめたいと思います。

日程はざっとこんな感じでした。

10/13(土)成田空港からオーストリア航空でウィーンへ

10/14(日)アイゼンシュタット観光(エスターハージー城とハイドン博物館)
     世界遺産ノイジィードラー湖畔の町ルスト
     特急列車でグラーツへ
     途中、グログニッツからミュルツツシュラークの約40㎞の区間は
     1854年に造られた世界遺産のセンメリング鉄道

10/15(月)グラーツ観光
     (大きな時計塔のあるシュロスベルク、大聖堂と旧市街地の中心ハウプトプラッツ)
     ハルシュタット
     オペレッタの舞台「白馬亭」

10/16(火)ザルツカンマーグート観光
     (登山鉄道で標高1,783mシャーフベルク山観光)     
     モントーゼ観光(教区教会、マルクト広場)

10/17(水)ザルツブルク観光(モーツアルトの生家と大聖堂、ミラベル庭園)

10/18(木)メルク(メルク修道院)
     メルクからデュルンシュタインまでヴァッハウ渓谷の船旅

10/19(金)ウィーン観光(シェーンブルン宮殿とシュテファン寺院、美術史博物館)
10/20(土)終日 自由行動
     (ベルヴェデーレ宮殿、ナッシュマルクト、オーストリア応用美術博物館)
      楽友協会

10/21(日)オーストリア航空で成田へ
10/22(月)帰国
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帰国しました

2012-10-22 23:30:43 | 旅日記
日中は睡魔との闘いだったのに、この時間になると目が
冴えてきてしまいました。完全に時差ボケですね。
明日寝過ごさずにちゃんと会社へ行かなくては

写真は今朝、宿泊ホテルの前に広がる市立公園を散策した時
のものです。霧が掛かっているような感じだったので、
もやっとした風に写っていますね。





コメント (2)
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メルク修道院

2012-10-18 20:06:18 | 旅日記
修道院の庭園にて。
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