人はしばしば、自らが誇るものを名前に込める。
長野県の南佐久地方にあった大日向村(おおひなたむら)という村名も、そうだったのではないか。渓谷のほとりの村は東西にのびる。深い山あいの地にしては、雨少なく、陽光が注ぐ時間も長かったのだとか▼そんな山村が歴史の表舞台に登場したのは、日中戦争のさなか、1938年のことだ。国策「満蒙開拓」のかけ声の下、村は人口の半分、800人近くを旧満州に送った。これが全国初の分村移民の模範村として、大々的に宣伝された▼ただ、敗戦で、状況は一変する。引き揚げ途中、半数が飢餓などで亡くなった。帰国しても、故郷に家はなかった。この悲しい史実について、移民から46年後の84年、村人の証言を記録した映画『大日向村の46年』が撮影された。今夏、長野市で復活上映されている▼映画は、村人たちに重く尋ねている。満州になんて行かなければよかったですか。中国人の土地を奪った事実を知っていましたか。「騙(だま)された」と訴える人、目を伏せ、沈黙する人、それでも「行ってよかった」と語る人……▼すべてをのみ込むように話す、63歳の女性の言葉が印象的だ。「平凡に、平凡に、平凡に生きてきたんです」。監督の山本常夫さん(76)は回顧する。「悲惨な経験をした人というだけでなく、それぞれの個人の思いを知りたかった」▼証言者の多くは鬼籍に入る。満蒙開拓とは、何だったのか。終戦79年目の8月、戦争が生んだ歪(ゆが)んだ光と影を、死者たちの語りに聞く。朝日新聞朝刊 第一面【天声人語:2024-8-04】
シロテンハナムグリ ベニシジミ
シロテンハナムグリ(白点花潜)コガネムシ科
2024-5-09 グラウンドゴルフ遠征先で
ベニシジミ(紅小灰蝶)シジミチョウ科ベニシジミ属
2024-6-24 散歩道で
長野県の南佐久地方にあった大日向村(おおひなたむら)という村名も、そうだったのではないか。渓谷のほとりの村は東西にのびる。深い山あいの地にしては、雨少なく、陽光が注ぐ時間も長かったのだとか▼そんな山村が歴史の表舞台に登場したのは、日中戦争のさなか、1938年のことだ。国策「満蒙開拓」のかけ声の下、村は人口の半分、800人近くを旧満州に送った。これが全国初の分村移民の模範村として、大々的に宣伝された▼ただ、敗戦で、状況は一変する。引き揚げ途中、半数が飢餓などで亡くなった。帰国しても、故郷に家はなかった。この悲しい史実について、移民から46年後の84年、村人の証言を記録した映画『大日向村の46年』が撮影された。今夏、長野市で復活上映されている▼映画は、村人たちに重く尋ねている。満州になんて行かなければよかったですか。中国人の土地を奪った事実を知っていましたか。「騙(だま)された」と訴える人、目を伏せ、沈黙する人、それでも「行ってよかった」と語る人……▼すべてをのみ込むように話す、63歳の女性の言葉が印象的だ。「平凡に、平凡に、平凡に生きてきたんです」。監督の山本常夫さん(76)は回顧する。「悲惨な経験をした人というだけでなく、それぞれの個人の思いを知りたかった」▼証言者の多くは鬼籍に入る。満蒙開拓とは、何だったのか。終戦79年目の8月、戦争が生んだ歪(ゆが)んだ光と影を、死者たちの語りに聞く。朝日新聞朝刊 第一面【天声人語:2024-8-04】
シロテンハナムグリ ベニシジミ
シロテンハナムグリ(白点花潜)コガネムシ科
2024-5-09 グラウンドゴルフ遠征先で
ベニシジミ(紅小灰蝶)シジミチョウ科ベニシジミ属
2024-6-24 散歩道で
テーマに限って再度語られるのではないでしょうか。
しらべますと満蒙開拓は日本人が満州国の大地に移民(入植)した総数は約27万人、そのうちソ連軍の侵攻などにより終戦時には8万人が犠牲になった。
日中正常化の1972年(昭和47年)以降に、「中国残留孤児」が世間様に報道され、政府間の交渉により順次帰国が進み政府の国庫補助により2557人の孤児が帰国した。その後関係関係者家族等2万人が帰国されたとされている。
このことについて天声人語は語っていないのは残念である。・・・ことの重大性が分かっていないと私は思いました。
他人(中国人)の土地を武力で奪い、入植するとは、現在のガザ・イスラエルの歴史と共通します。・・・このあたりで私の御託は終了します。・・・わんちゃんのご意見等は!!
話は変わってシロテンハナムグラですが私はカナブンをよくみますが、この甲虫はあまりみていません、この幼虫は環境の悪い雑草地などに住み、土壌改良に役立っていて、成虫も植物の葉や根に食害がない益虫とのこと。
ベニシジミもよく見かけます、幼虫はスイバなどを食草します、成虫はタンポポ、ハルジオン、セイタカアワダチソウ、ヒメオドリコソウ、コセンダングサなどの受粉のお手伝いをしているとのこと・・写真で確認しましょうか!!