しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

日本のいちばん長い日の前

2021年01月10日 | 昭和20年(終戦まで)
「日本の歴史を見る10」 世界文化社 2006年発行

終戦から現代までの曲折 猪木正道

昭和20年8月9日の午後11時50分過ぎから、翌10日の午前2時30分まで宮中の防空壕内で行われた御前会議は、ポツダム宣言の受諾を決定した。
”国体護持”だけを条件として、ポツダム宣言を受諾すべきであるという鈴木首相・東郷外相および米内海相の主張に対して、阿南陸相・梅津参謀長および豊田軍令部総長は反対した。
その結果”聖断”を仰ぐことになり、天皇は鈴木首相を支持され、その理由を次のようにのべられた。

「陸海軍統帥部の計画は常に錯誤し、時期を失している。
本土決戦というが、九十九里浜の防御陣地は遅れ、8月末でなければ出来ないという。
増設部隊も装備はいまだに整わないという。
これでは、どうして敵を迎え撃つことができるか。
空襲は激化しており、これ以上国民を塗炭の苦しみに陥れ、文化を破壊し、世界人類の不幸を招くことは、朕が欲しないところである。
この際は忍び難きを忍ぶべきである。
忠良な軍隊を武装解除し、また昨日まで朕に忠勤を抜きんでくれた者を戦争犯罪人とするのは、情けにおいて忍びないが、国家のためにはやむをえない。
今日は明治天皇の三国干渉の際の御心を以って心とすべきである」

この聖断にしたがって、日本政府はポツダム宣言の受諾を米英中ソ四国に伝えた。
ところが四か国の回答をめぐってふたたび分裂した。

陸相・参謀長・軍令部総長は不満とし和平派要人を隔離する計画さえ進められていた。
そこで8月14日午前10時50分過ぎからふたたび御前会議が開かれ,陸海両総長と陸相とは国体護持についてもう一度連合国に照会することを主張し、もし日本の言い分を聞かないならば、戦争を継続し、死中に活を求めるべきだと説いた。
これに対して天皇は、
「自分は如何になろうとも国民の生命を助けたい。
このうえ戦争を続けては、結局我が国が全く焦土となり、万人にこれ以上の苦悩をなめさせることは私として実に忍び難い。
もとより先方の遣り方に全幅の信頼を措きがたいのは当然であるが、
日本が全く無くなるという結果に比べて、少しでも種子が残りさえすれば、さらにまた復興という光明も考えられる」
とのべられ、我が国の降伏は最終的に決定された。



もしこの機会を逸した場合には、わが国は昭和20年秋から冬にかけてアメリカ軍の本土侵攻を受け、大変な人的・物的損害が生じたに相違ない。
そして北海道にはソ連軍が上陸して、日本はドイツと同じように分割占領されたものと想像される。
8月9日夜から14日に至るまでまる5日間、ポツダム宣言受諾によって戦争を終えようと必死の努力を続けた
天皇・鈴木首相・東郷外相・米内海相および木戸内大臣等の功績は大きいといわなければなるまい。

天皇みずからが終戦の詔書を朗読して、国民にうったえるという非常の措置は大きな成果をあげ、内地・外地をとおして6.000.000に近い軍隊の復員と解体とは驚くほど円滑に進行した。
”鬼畜米英”と叫び、”一億玉砕”を唱えた日本が、あれほど整然と降伏し、従順に平和体制へ移行するとは、誰も予想しなかったのではないかと思う。



(小さな絵本美術館 ミネルヴァ書房 2005年発行)



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昭和恐慌と養蚕業 (鴨方町史・笠岡市史)

2021年01月10日 | 昭和元年~10年
「鴨方町史本編」鴨方町 平成2年発行


昭和恐慌化の鴨方

1930年3月から株式市場も一斉に下落をはじめ、物価の下落に連動した。
生糸55%、綿糸52%、米50%の下落を記録。
米と繭の日本農業を直撃することになった。
産業界は極度の不振に陥っており、首切り・合理化の嵐の中で失業者が急増した。
出稼ぎ者の帰村が始まり、農村は農産物の下落と帰村者の増加によって負債をかかえる農家が増加。
農村恐慌に突入することになった。


鴨方町および六條院村では、麦稈真田の輸出減退により価格が大暴落した。

生糸の輸出減退は養蚕農家に甚大な影響を与えたが、
鴨方町では昭和期に入って急激な普及をみせていた矢先の不況到来であった。
養蚕農家数を見ると、
1912年(大正元) 7戸
1920年(大正  20戸
1926年     171戸
1930年     449戸

繭の価格は1929年上繭一貫 7.6円
     1932年     2.80円。
次第に養蚕から手を引く農家が増え。1939年には105戸まで減少した。


農家副業としての麦稈真田の不振と養蚕業の低迷から抜け出す方法は、
制帽工業と葉煙草に見い出そうとする農家が増えた。



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「笠岡市史第三巻」

昭和初期の小田郡の養蚕業の動向


城見村・昭和3年 69戸 871貫 5.522円
城見村・昭和5年 80戸 1.100貫 4.268円
城見村・昭和7年 74戸 661貫 1.784円
(管理人記・養蚕農家は大冝・用之江が多く、茂平は少ないと思える)


昭和恐慌は、特に生糸と繭の暴落に始まる農村恐慌となって現れた。
岡山県下でも上繭貫当たり平均価格が、昭和4年の7.46円から翌5年の3.70円と半値に下げている。
昭和5年、米価も全国的に急反落した。
「大学は出たけれど」と大学卒業生も仕事にありつけず。

笠岡の製糸業を始め、小田・後月郡一帯の養蚕農家にとっても大きな打撃となった。




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