「日本の歴史を見る10」 世界文化社 2006年発行
終戦から現代までの曲折 猪木正道
昭和20年8月9日の午後11時50分過ぎから、翌10日の午前2時30分まで宮中の防空壕内で行われた御前会議は、ポツダム宣言の受諾を決定した。
”国体護持”だけを条件として、ポツダム宣言を受諾すべきであるという鈴木首相・東郷外相および米内海相の主張に対して、阿南陸相・梅津参謀長および豊田軍令部総長は反対した。
その結果”聖断”を仰ぐことになり、天皇は鈴木首相を支持され、その理由を次のようにのべられた。
「陸海軍統帥部の計画は常に錯誤し、時期を失している。
本土決戦というが、九十九里浜の防御陣地は遅れ、8月末でなければ出来ないという。
増設部隊も装備はいまだに整わないという。
これでは、どうして敵を迎え撃つことができるか。
空襲は激化しており、これ以上国民を塗炭の苦しみに陥れ、文化を破壊し、世界人類の不幸を招くことは、朕が欲しないところである。
この際は忍び難きを忍ぶべきである。
忠良な軍隊を武装解除し、また昨日まで朕に忠勤を抜きんでくれた者を戦争犯罪人とするのは、情けにおいて忍びないが、国家のためにはやむをえない。
今日は明治天皇の三国干渉の際の御心を以って心とすべきである」
この聖断にしたがって、日本政府はポツダム宣言の受諾を米英中ソ四国に伝えた。
ところが四か国の回答をめぐってふたたび分裂した。
陸相・参謀長・軍令部総長は不満とし和平派要人を隔離する計画さえ進められていた。
そこで8月14日午前10時50分過ぎからふたたび御前会議が開かれ,陸海両総長と陸相とは国体護持についてもう一度連合国に照会することを主張し、もし日本の言い分を聞かないならば、戦争を継続し、死中に活を求めるべきだと説いた。
これに対して天皇は、
「自分は如何になろうとも国民の生命を助けたい。
このうえ戦争を続けては、結局我が国が全く焦土となり、万人にこれ以上の苦悩をなめさせることは私として実に忍び難い。
もとより先方の遣り方に全幅の信頼を措きがたいのは当然であるが、
日本が全く無くなるという結果に比べて、少しでも種子が残りさえすれば、さらにまた復興という光明も考えられる」
とのべられ、我が国の降伏は最終的に決定された。
もしこの機会を逸した場合には、わが国は昭和20年秋から冬にかけてアメリカ軍の本土侵攻を受け、大変な人的・物的損害が生じたに相違ない。
そして北海道にはソ連軍が上陸して、日本はドイツと同じように分割占領されたものと想像される。
8月9日夜から14日に至るまでまる5日間、ポツダム宣言受諾によって戦争を終えようと必死の努力を続けた
天皇・鈴木首相・東郷外相・米内海相および木戸内大臣等の功績は大きいといわなければなるまい。
天皇みずからが終戦の詔書を朗読して、国民にうったえるという非常の措置は大きな成果をあげ、内地・外地をとおして6.000.000に近い軍隊の復員と解体とは驚くほど円滑に進行した。
”鬼畜米英”と叫び、”一億玉砕”を唱えた日本が、あれほど整然と降伏し、従順に平和体制へ移行するとは、誰も予想しなかったのではないかと思う。
(小さな絵本美術館 ミネルヴァ書房 2005年発行)
終戦から現代までの曲折 猪木正道
昭和20年8月9日の午後11時50分過ぎから、翌10日の午前2時30分まで宮中の防空壕内で行われた御前会議は、ポツダム宣言の受諾を決定した。
”国体護持”だけを条件として、ポツダム宣言を受諾すべきであるという鈴木首相・東郷外相および米内海相の主張に対して、阿南陸相・梅津参謀長および豊田軍令部総長は反対した。
その結果”聖断”を仰ぐことになり、天皇は鈴木首相を支持され、その理由を次のようにのべられた。
「陸海軍統帥部の計画は常に錯誤し、時期を失している。
本土決戦というが、九十九里浜の防御陣地は遅れ、8月末でなければ出来ないという。
増設部隊も装備はいまだに整わないという。
これでは、どうして敵を迎え撃つことができるか。
空襲は激化しており、これ以上国民を塗炭の苦しみに陥れ、文化を破壊し、世界人類の不幸を招くことは、朕が欲しないところである。
この際は忍び難きを忍ぶべきである。
忠良な軍隊を武装解除し、また昨日まで朕に忠勤を抜きんでくれた者を戦争犯罪人とするのは、情けにおいて忍びないが、国家のためにはやむをえない。
今日は明治天皇の三国干渉の際の御心を以って心とすべきである」
この聖断にしたがって、日本政府はポツダム宣言の受諾を米英中ソ四国に伝えた。
ところが四か国の回答をめぐってふたたび分裂した。
陸相・参謀長・軍令部総長は不満とし和平派要人を隔離する計画さえ進められていた。
そこで8月14日午前10時50分過ぎからふたたび御前会議が開かれ,陸海両総長と陸相とは国体護持についてもう一度連合国に照会することを主張し、もし日本の言い分を聞かないならば、戦争を継続し、死中に活を求めるべきだと説いた。
これに対して天皇は、
「自分は如何になろうとも国民の生命を助けたい。
このうえ戦争を続けては、結局我が国が全く焦土となり、万人にこれ以上の苦悩をなめさせることは私として実に忍び難い。
もとより先方の遣り方に全幅の信頼を措きがたいのは当然であるが、
日本が全く無くなるという結果に比べて、少しでも種子が残りさえすれば、さらにまた復興という光明も考えられる」
とのべられ、我が国の降伏は最終的に決定された。
もしこの機会を逸した場合には、わが国は昭和20年秋から冬にかけてアメリカ軍の本土侵攻を受け、大変な人的・物的損害が生じたに相違ない。
そして北海道にはソ連軍が上陸して、日本はドイツと同じように分割占領されたものと想像される。
8月9日夜から14日に至るまでまる5日間、ポツダム宣言受諾によって戦争を終えようと必死の努力を続けた
天皇・鈴木首相・東郷外相・米内海相および木戸内大臣等の功績は大きいといわなければなるまい。
天皇みずからが終戦の詔書を朗読して、国民にうったえるという非常の措置は大きな成果をあげ、内地・外地をとおして6.000.000に近い軍隊の復員と解体とは驚くほど円滑に進行した。
”鬼畜米英”と叫び、”一億玉砕”を唱えた日本が、あれほど整然と降伏し、従順に平和体制へ移行するとは、誰も予想しなかったのではないかと思う。
(小さな絵本美術館 ミネルヴァ書房 2005年発行)