場所・大分県佐伯市東浜
訪問日・2013年2月20日
JR佐伯駅から歩いて旧海軍施設方面へ向かう。
「正門跡」の標識が建つ。
しらべる戦争遺跡の事典」 柏書房 2002年発行
佐伯海軍航空隊の設置は、豊後水道の沿岸の要所に飛行場を建設しようとしていた海軍の要望によるものであった。
佐伯町は昭和6年3月に誘致に乗り出し、同年12月には埋め立て工事に着手した。
1934年に大分県初の海軍基地として県民の期待を集め開隊式が挙行された。
その様子は、
「百万県民は双手を挙げてこの完成を待ちわびていた。
兵員2.000の大所帯を擁する航空隊の実現は、活気あふれる商工業都市としての将来を約束するものだ」と伝えている。
呉鎮守府に所属し、艦上機、水上偵察機で豊後水道の哨戒偵察、艦船の出入り、援護に当たった。
1945年には第8特攻戦隊に編入された。
「東浜橋」は手すり以外は、ほぼ当時のまま。
「続しらべる戦争遺跡の事典」 柏書房 2003年発行
掩体壕が語る戦争の実相
掩体壕とは、軍用機を敵の空襲から守るためにつくられた格納庫のことである。
米軍による本土空襲が激化する中、日本全土にはおそらく1.000基を超える掩体壕が造られ、
そのうち有蓋掩体壕は全国で100基が現存している。
翼型・トンネル型
トンネル型は主翼の折り畳みができる機種とできない機種の併用できる。
大型・小型・中型
小型は主として零戦などの艦載機。
築造には周辺の住民や学徒動員の勤労奉仕隊、強制連行された朝鮮人。
切迫する戦局の中で、急ごしらえで築造された。
戦後は個人が所有している場合、農家の倉庫。頑丈なため壊せない。
戦争の実相を永く伝えることができる貴重な戦争遺跡である。
主な現存数
茂原市 11基
宇佐市 10基
南国市 7基
根室市 6基
掩体壕は、株式会社興人の工場内にある。
入門のサインをして構内にはいる。
門の近くに2基の掩体壕が残っている。
「しらべる戦争遺跡の事典」 柏書房 2002年発行
佐伯海軍航空隊掩体壕
掩体壕初の登録有形文化財
2001年に登録有形文化財に登録された。掩体壕は昭和18年に建設された
分厚い壁を設けて、敵機の弾に耐える対戦闘機の退避用施設であった。
退避していた戦闘機は、掩体壕の大きさから零式か飛燕であったといわれている。
代表的な工法は、最初にドーム状に土を盛り、その上に板を敷いて、鉄筋を配筋する。
鉄筋のうえにコンクリートを40~50cmの厚さで塗り、固まったら内部の土をかきだしてアーチ式構造の掩体壕が構築される。
同地には第二戦闘指揮所跡も現存する。
訪問日・2013年2月20日
JR佐伯駅から歩いて旧海軍施設方面へ向かう。
「正門跡」の標識が建つ。
しらべる戦争遺跡の事典」 柏書房 2002年発行
佐伯海軍航空隊の設置は、豊後水道の沿岸の要所に飛行場を建設しようとしていた海軍の要望によるものであった。
佐伯町は昭和6年3月に誘致に乗り出し、同年12月には埋め立て工事に着手した。
1934年に大分県初の海軍基地として県民の期待を集め開隊式が挙行された。
その様子は、
「百万県民は双手を挙げてこの完成を待ちわびていた。
兵員2.000の大所帯を擁する航空隊の実現は、活気あふれる商工業都市としての将来を約束するものだ」と伝えている。
呉鎮守府に所属し、艦上機、水上偵察機で豊後水道の哨戒偵察、艦船の出入り、援護に当たった。
1945年には第8特攻戦隊に編入された。
「東浜橋」は手すり以外は、ほぼ当時のまま。
「続しらべる戦争遺跡の事典」 柏書房 2003年発行
掩体壕が語る戦争の実相
掩体壕とは、軍用機を敵の空襲から守るためにつくられた格納庫のことである。
米軍による本土空襲が激化する中、日本全土にはおそらく1.000基を超える掩体壕が造られ、
そのうち有蓋掩体壕は全国で100基が現存している。
翼型・トンネル型
トンネル型は主翼の折り畳みができる機種とできない機種の併用できる。
大型・小型・中型
小型は主として零戦などの艦載機。
築造には周辺の住民や学徒動員の勤労奉仕隊、強制連行された朝鮮人。
切迫する戦局の中で、急ごしらえで築造された。
戦後は個人が所有している場合、農家の倉庫。頑丈なため壊せない。
戦争の実相を永く伝えることができる貴重な戦争遺跡である。
主な現存数
茂原市 11基
宇佐市 10基
南国市 7基
根室市 6基
掩体壕は、株式会社興人の工場内にある。
入門のサインをして構内にはいる。
門の近くに2基の掩体壕が残っている。
「しらべる戦争遺跡の事典」 柏書房 2002年発行
佐伯海軍航空隊掩体壕
掩体壕初の登録有形文化財
2001年に登録有形文化財に登録された。掩体壕は昭和18年に建設された
分厚い壁を設けて、敵機の弾に耐える対戦闘機の退避用施設であった。
退避していた戦闘機は、掩体壕の大きさから零式か飛燕であったといわれている。
代表的な工法は、最初にドーム状に土を盛り、その上に板を敷いて、鉄筋を配筋する。
鉄筋のうえにコンクリートを40~50cmの厚さで塗り、固まったら内部の土をかきだしてアーチ式構造の掩体壕が構築される。
同地には第二戦闘指揮所跡も現存する。